既存のものを壊す事は比較的簡単である。
その「壊したものの後に何を築くか」と云うことは、言うは易く行うは難し、という言葉の通りで、問題は壊した後の方にあるわけである。
既存のものを壊す時は、何も考えずに、目の前のものをただただ壊しさえすれば良い。
しかし、その後に新しいものを作ろうとする時になると、人々の考えは、各人各様の思いが千路に乱れ飛ぶわけで、個人個人の願望を、それぞれが実現しようとするわけである。
当然、意見の相違、目標や目的そのものの相違、それを達成するための方法論の相違というものが一挙に吹き出てしまうわけである。
既存の国家体制というのが、長い年月の間には腐敗堕落するというのも、人間の作る社会そのものの業としか言い様がない。
栄華を誇った国家も、いつかは落日の憂き目に遭うわけで、それが栄華盛衰世の習いというものである。
栄華を誇った国家が衰退して行く過程というのは、やはり人間の作っている社会としての組織疲労だと思う。
人間の組み立てている組織というものが、長い年月の間に慢性疲労に陥り、組織を繋ぐ粘着力というものが機能しなくなってしまった時、国家の崩壊というものが忍び寄っているのではないかと思う。
それは一言で云えば官僚の堕落というものである。
前にも記したように、中国の科挙という制度は、埋もれた人材を発掘するための有効な手段であったに違いないが、その科挙に受かる事が立身出世の最終目的となってしまって、それに受かったが最後、私利私欲を肥やすという発想は組織としての社会を蝕むもっとも顕著な事例である。
「科挙」という制度の本来の目的は、人を統治するために優秀な人材を試験で選抜して、それに行政を任せればきっと素晴らしい繁栄が実現するのではないかと言うものであった。
ところが試験に合格した優秀な人材が、人間の煩悩に負けて、行政を司る立場を利用し、私利私欲を膨らませる事にのみ傾注したから世の中は一向に良くならなかったわけである。
これはそのまま今の日本の官僚の姿でもある。
明治維新以降の日本の姿、日本人の生き様の中にも、官僚の腐敗というものが顕著に見られることは、20世紀の日本の歴史に余す所なく表れている。
あの大日本帝國が完璧にまで打ちのめされたのは、明らかに日本の民族が官僚主義に翻弄され、その官僚が己の力を過信したが故の暴挙の結果として日本の敗戦というものがあったわけで、日本の官僚というものが組織としてきちんと上意下達のシステムを維持しておれば、あの未曾有の惨劇は回避できたに違いない。
しかし、日本の近代化の過程の一環として、その官僚システムが腐敗したが故に、アジアの人々が西洋列強の頚木から解放されたということも言える。
ところが今の世界の認識というのは、日本が西洋列強の力というものを徹底的の骨抜きにした、という事実を全く認めようとしていない。
我々は第2次世界大戦の敗北の結果として戦後の時代というものを生きてきたが、この戦後の時代というのは、アジア地域から西洋列強の帝國主義的植民地支配というものを完全に除去した。
我々は「アジアを西洋列強の支配からの逸脱させる」ということを旗印にして、あの戦争を行ったが、それは当時も、そして戦後も、アジアの人々から理解される事はなかった。
アジアの人々から我々が信頼されなかった、ということはまさしく不徳の致す所であるが、この不徳の大部分は、我が同胞の官僚組織・軍隊という官僚の組織が責を負わねばならない。
不思議な事に、我々の戦争の大儀であった事が、その戦争に負ける事によって実現されたわけである。
アジアの解放という視点であの戦争を見てみると、我々は負けたとはいえ、完全に西洋列強のアジアにおける支配力を削いでしまったわけである。
この現実をアジアの人々が受け入れる事は彼等の自尊心がそれを許さないのである。
中国の人々、韓国の人々にとって、日本というのはあくまでも夷狄にすぎないわけで、その夷狄がこれらの人々・アジアを解放した、という事実には我慢ならない感情を持っているに違いない。
話は唐突に飛躍するが、中学生の時、学校の宿題でパール・バック女史の「大地」という本を読まされた。
ここに出てくる物語というのは、清朝末期の農村で一人の男が嫁をもらい、子供を産み、それらが成長するに従い産を成し、成功するかに見えたが最後はその家族が堕落して再び零落するというものであるが、これは人間の輪廻転生を表現したものに違いない。
人間の歴史というのは、これの繰り返しに過ぎないように見えるが、それは中国の人々だけに特異なものではなく、全地球規模で同じ事が行われていると思う。
一介の個人が、艱難辛苦の末、産を成したならば、その末裔としては、それを維持して行く事が我々、日本人ならば生きる目標にならざるを得ない。
ところが、パール・バック女史の「大地」では、産を残された人々というのは、それを使う事に精力を費やしてしまい、先祖の偉業を維持しようという気遣いがない。
この違いは、日本人の生き様と、中国の人々の生き様というものを顕著に表していると思う。
それは中国の人々と、西洋列強の人々の生き様を比較しても同じ事が言えていると思う。
その相違に気が付いたので、パール・バック女史は「大地」という小説を書いたのかもしれない。
日本の近代化において、日本の官僚というのは、中国の人々のことを自分達と同じ人間として見なかったところに大きな落とし穴が潜んでいた。
他民族同志の戦争というのは、戦争であるからして、当然勝ち負けというものがあるが、その戦争に勝ったから我々の方が優れていると思い込む発想というのはあまりにも浅薄過ぎる思考であった。
日本の官僚の腐敗というのも、それを選抜するシステムの中に潜んでいたように思われてならない。
つまり、中国の科挙の制度と同じで、選抜試験を一度クリアしてしまえば、後は自らの力で考えることなく、既存のレールの上に乗っかって、立身出世の道を突っ走れるというシステムに欠陥があったように思われる。
ここで云う官僚というのは、文官のみならず軍の官僚、いわゆる軍人の組織についても同じ事が言えているわけであるが、日本を太平洋戦争に引きずり込んだのは確かに旧大日本帝国の軍人を始めとする諸官僚であったが、同じ官僚といっても、日本の官僚と中国人の官僚では随分と違った生き様を呈している。
日本の官僚というのは、基本的に私利私欲に走ると云う事がさほど露骨ではないが、中国人の官僚というのは、見えも外聞もなく、私利私欲を追求するという点で雲泥の差である。
官僚として、公僕として、祖国の民に貢献するという目的を達成する過程において、我々、日本人の場合、それを律儀に実現しようとするあまり、良かれと思いながら相手の痛みを理解することなく、自分本意の思い込みに間違いがあったわけで、中国人の場合、自分の私利私欲を追求する目的で官僚になるという選択をするわけで、祖国の民に貢献するという認識は最初から存在していなく、官僚になると云う事が立身出世の一つの手段になっている。
官僚というのは基本的に統治者に貢献すると同時に、臣下の人々に対しても行政システムとして、その暮らし向きの向上を目指すという思考でなければならないと思う。
統治者と臣下の間の中間管理者として、その橋渡しが彼らの使命のはずであるが、中国の場合、その中間管理者としての役得にばかり目が行ってしまって、統治者の威を借りて、臣下を抑圧する事に意を注いだばかりに、その屋台骨が腐ってしまったわけである。
日本の官僚の場合は、臣下の者が喜ぶであろうという間違った思い込みがあったが故に、統治者である天皇(明治憲法では統治者は天皇であった)を欺いてまで事を押し進めたので、これまた屋台骨までが朽ち果ててしまったわけである。
同じような官僚という言葉でも、その実質においてはこれだけの相違、思考の相違が存在していたわけで、このことを一言で言い表せば、民族性の相違という言葉でしか説明がつかない。
それともう一つ、民族性の相違という点で、中国人の特質というものがある。
中世から近世を経て近代に至る過程で、ヨーロッパでは封建主義の後に未熟ながら民主主義というものが生まれ、その民主主義というのは、個の確立というものが根底に横たわった上に民主的な政治手法というものが構築されてきたわけである。
このヨーロッパの民主主義というものがアメリカに渡ると、そこで成熟度が増して、より近代的な民主政治というものが確立された。
この全地球を包含する大きな人間の思考というのは、当然の事ながら中国にも波及していたに違いない。
ところが中国では、その芽さえも発芽した形跡がないわけで、同じ時期に、18世紀から19世紀、そして20世紀という、人類が皆同じ時間というものを共有しながら、中国にだけには民主主義というものが最後まで根付かなかったということは、中国という国家を形成している人々の民族性としか説明がつかないように思う。
例えば、アメリカでも中国でも、地下資源の埋蔵量というのは無限に近い状態で存在していると思う。
ところがその地下資源の開発という点で、あまりにも大きな差が出ているということは、この両者を形作っている人々の発想の相違だと思う。
地下資源ばかりでなく、あらゆる発明・発見のたぐいは、太古には中国の人々の業績も認められたのに、近世以降では全くそれが認められない。
そこにはやはり民族性というか、民族としての発想の相違が横たわっているに相違ないと思う。
人が私利私欲に走るというのは中国人ばかりの特質ではなく、ありとあらゆる人は多少とも自分の利益というものを追求するのが自然の人のあり方でもある。
つまり、私利私欲の追求というのは、人間の持つ根源的な潜在意識であり、基本的に資本主義の根源となっているわけである。
先に述べた科挙の試験に受かった人が私利私欲に走るのは官僚として公益の前の私利に走るからいけないのであって、官僚であれば私利私欲よりも公益を優先させるべきである、という論理である。
私人として、個人として私利私欲に走るのは人間の自然の摂理である。
民主主義の発達したアメリカの資本主義と、民主主義のない中国で私利私欲に凝り固まった人々の集団の相違というのは、どう説明をすれば納得のいく答えが得られるのであろう?
アメリカのモルガン財閥、ロックフェラー、カーネーギー、エジソンという人々と、中国の華僑との相違というのは何処にあるのであろうか。
同じ私利私欲という言葉でも、この両者にはその発想の根源に説明のつかない相違が潜んでいたに違いない。
この時代の中国の軍閥、袁世凱、張作霖などは、金の威力というものからすればアメリカの財閥にも引けを取らないほどの力を持っていたに違いない。
ところが、彼らの力というのは、経済活動のみに費やされたのではなく、地方政治という場を利用して、国政にまでその欲望を広げてしまったのである。
この時代の中国の軍閥というのは、今の言葉で言えば、一つのコングロマリットなわけで、企業の枠を越えた存在であったわけで、見方を変えれば暴力団と同じものであったわけである。
国家の規制の枠をはみ出して、傍若無人に私利私欲を追求するという点で、アメリカの財閥や大企業とは雲泥の差があるわけで、その意味からして、そこには民主主義の萌芽も見られなかったわけである。
アメリカ、イギリス、フランスでは共産主義革命などというものはありえなかった。
フランス革命というのは革命には違いないが、共産主義というものには程遠いもので、中国で云えば辛亥革命と同じ内容のものであったわけである。
問題は革命の後に何が出来たかということである。
辛亥革命というのはフランス革命と同じ性質のものであったが、そこからは近代的な民主主義というのは芽生えなかったわけで、革命の後の出てきたのは、私利私欲に凝り固まった軍閥の跋扈である。
革命の後に民主主義が芽生えるのではなく、軍閥という私利私欲の塊が出来たと云うことは、そこの住む人々の潜在的な意識の成せる技ではないかと思う。
日本においても、明治維新という革命の後に、すぐに民主主義というものが出来あがったわけではなかったが、民主主義に向かって歩むための道が開けたという感がある。
日本が民主主義の道を歩むためには、第2次世界大戦、太平洋戦争の敗北という、次の変革を要したことは周知の事実であるが、我々は共産主義の道を選択したわけではない。
彼らが辛亥革命で300年続いた清王朝というものを打倒したからには、軍閥を作るのではなく、国家統一、乃至は、民族の統一というものを作らねばならなかったわけである。
この部分の対応を誤ったからこそ、その後、中国全土に共産主義というものが跋扈する仕儀に至ったわけである。
革命の後に何を作るかという点で、日本人と中国人の間には大きな差異があった。
それは前述したように、日本人は名を尊ぶが中国人は実を取るという比喩に的確に表れている。
日本の革命前の封建思想の中では、統治階級としての武士の集団というのは、「武士は食わねど、高楊枝」といわれるぐらい、気位が高く、貧乏していても自分は人々を統治する階級であるという点に誇りを持っていた。
ところが、中国人というのは、そう云う誇りというものには価値観を認めず、現実的な金、利益、利得にのみ価値観を置くものだから、同朋の窮状を何とかしなければ、という発想が出てこなかったわけである。
身の安全を保障するものは、自分自身でしかなかったので、そのためには同朋を裏切ったり、利用したり、騙したりする事に何の違和感も感じず、ただただ身の保身に個人の能力を最大限費やしたわけである。
こういう状況下で一番頼りになるものといえば、やはり武器としての銃器でしかない。
その究極の姿がいわゆる軍閥と称する集団で、軍閥というものを今の日本の現状で云えば、いわば暴力団である。
山口組の地盤が大阪なのか東京なのか知る由もないが、山口組が大阪府を乗っ取ってしまい、そこでは警察も関与し得ない状況を呈している、というのがこの時代の中国の軍閥というものである。
辛亥革命で旧体制を払拭した孫文は1911年・明治44年・中華民国という如何にも新しい民主主義にふさわしい新体制を確立するかに見えた。
ところがこれを正面から阻んだのは、いわゆる私利私欲の塊としか言いようのない軍閥としての袁世凱であった。
軍閥というのはその実体が暴力集団なわけで、それの討伐にはやはり武力で以って対抗するしかないわけであるが、出来たばかりの新しい体制では、その準備が未熟なるが故に、その軍閥に屈服さざるを得なかったわけである。
暴力団としての山口組といえども無用の殺生を好んでしているわけではない。
自分の我の通らない時には国家の統制、規制に従うよりも、自らの暴力の威力をかざして我を通すというわけで、暴力団だからといって、いつもいつも人殺しをしているわけではない。
暴力団には暴力団としての規律も秩序もあるわけで、それが既存の国家としての規律と秩序と食い違っているだけの事である。
この時代の中国の軍閥というのは、ある意味で地方自治の具現化でもあるわけで、いわば日本で言えば戦国時代の地方の武将のようなものである。
国家体制がしっかりしていれば、こういう地方の跳ね返りというのは押さえ込まれて、世の中は平和であるが、乱世の世になると、こういう地方の横暴というのが顕著に表れるわけである。
辛亥革命で清王朝の屋台骨がなくなってしまったとき、孫文が臨時大統領ということで中華民国という新政府を樹立した。
今まで数多くのクーデターを企画実行してきた経緯から見れば、新しい体制において孫文が大統領に推挙されるのも致し方ないし、孫文しかその任にふさわしい人物が他に居なかった。
しかし、この孫文の中華民国大統領というのもわずか3ヶ月しか命運がなかったわけで、その後は袁世凱が新しい国家体制の首脳として君臨してしまった。
この袁世凱は今までの旧体制の中においても政府の高官を務め、それと同時に地方の軍閥のボスでもあったわけで、いわば暴力団の一番勢力の強いのが政府を乗っ取ってしまったようなものである。
袁世凱のありようというものは、西部劇で出てくる保安官ワイアット・アープと同じ状況であったように思われる。
つまり政府高官の地位を利用し、その権威と権力を使う事により、政府の利益を代弁すると同時に、自らの力を肥やして、武力による自己の力と地位を磐石なものにしてしまったわけである。
表向きは大衆を取り締まる立場でありながら、裏では賭場を開帳して、トラブルが起きた際にはケース・バイ・ケースで、それを自己の武力で解決するという生き方と見ていいと思う。
これは紛れもなく西部劇に出てくる保安官・ワイアット・アープそのままである。
こういう状況下では、人々は上から下まで、日和見主義にならざるを得ない。
自らの保身のためにはあっちの雲行き、こっちの雲行きを常に観察しながら、最も自分の身が安全と思われる方向を自分自身で判断しなければならない。
主義主張も、自分の信念も、国家に対する忠誠も、一般国民に対する奉仕も、貢献もかまってはいられないわけで、ただただ命を維持するためには、その日の雲行きを自ら判断し、自ら決断し、自分の保身を考えなければ身がいくつあっても足らない状況に陥っていたわけである。
清朝がつぶれようが、孫文が大統領になろうが、袁世凱が大統領になろうが、一般の人間にとっては一向に無関心であったわけで、その日の糧さえ得られれば、それで良かったわけである。
この袁世凱という、今の日本で言えば暴力団のような人間が、革命前の旧体制では政府高官を勤め、革命後には自らが大統領の地位をほしいままにする、と云うことは新世代を築く革命としては意味をなしていなかったわけである。
ただの政変でしかない。
政変もそれを繰り返す内に国家としての体を成してくれば、それはそれで意味を持つ事になるが、この時代の中国の地では国家というものが体をなしていなかったわけである。
国家というものが体を成していないということは、主権の存在も有って無いが如くであり、それが故に世情が混沌としていたわけである。
清という帝國が曲りなりにも存在していた時なれば、それはそれなりに主権というものも存在しえたに違いないが、清という国家体制というものが崩壊してしまった暁には、主権というものも国家の消滅と同時に雨散霧消してしまったと見なしていいように思う。
主権というものは事ほど左様に曖昧模糊としたものである。
今の日本、戦後の民主主義の日本においては、主権在民であることで以って、民主国家ならば必然的に持っているかに思い込んでいる主権というものが、そもそも如何なる物か、という定義すら我々はきちんとしていないのではないかと思う。
たまたま日本という国は太古より統治がしっかりしており、ことさら主権ということ、国家主権ということを深く考えることなく平穏無事な毎日をおくれる土地に住んでいられたが、中国のような広大な土地に異民族が混在している地域では、常に国家とか主権とか自治ということを頭の隅に置きながらでないと日日がおくれない地域の事を思うと実に幸せなことである。
この時代の中国というのは、まさしく内憂外患と言う言葉の通りで、内に憂えなければならないことが散在している所に、外部からの圧迫が押し寄せていたわけで、その状況というのは同情に余りあるものであった。
この袁世凱という人物は、外国からの圧力は致し方ないので、先に国内を平定してから外圧に対処しよう、というつもりであったらしいが、これでは手順が逆のように思う。
それは同時に私利私欲を優先させる、ということでもあったわけで、彼の行為はまさしくそれを具現化したものであった。
この時の状況を見るにつけ、彼らにとって最大の懸案事項の対処を後回しにして、自分が天下を取ってからそれに対処するという発想は、中国人の最も普遍的な発想であったように思う。
同胞を救うというよりも、まず最初に自分が一番安全な場所を確保しておいて、それから溺れたものを引き上げるという発想に他ならない。
まず最初に自分の安全保証を確保しておいてから同胞のことを考えるということである。
孫文が中華民国の最初の大統領に選出された時点で、彼が真に中国の旧体制を革命する気でいたとしたら、旧体制の人間にその後の政治に関与する隙を与えてはならなかったのである。
それが出来なかったということは、革命を起こした側に、その後の中国の政治を担うだけの器量の持ち主がいなかったという事に他ならない。
日本の明治維新の場合は、新政府の要人というのは、ことごとくが西南雄藩の下級武士で組織されていたわけで、幕府の重臣で新政府の要人に座ったものは皆無といってもいいくらいであった。
それでこそ革命であり、新世代の誕生であったわけである。
そのためには革命を遂行する側に、新政府の要職についてすぐにでも手腕を発揮し得る器量と才覚がなければ、そういうことは成り立たなかったわけである。
前にも述べたように、日本の江戸時代の士農工商という身分制度の中で、士分の者はたとえその時点で扶持についていなくとも、自分は政治に関与すべき立場の人間である、という矜持というか誇りというか、自覚というか、そういうものを持っていたわけである。
だから何時でも政治に関わりを持たなければならなら時が来れば、すぐにでもそれに対応できたわけである。
日本の江戸時代の武士階級というのは、そういう意味で、あくまでも政治集団であったわけであるが、そうはいうものの、世の中に商業主義とか資本主義というものが蔓延してくると、農業のみが管理の対象ではありえなくなったので、必然的に農業を基盤とした封建制度というもが衰退の道を歩まざるを得なくなってしまったわけである。
明治維新という改革を経た後、この身分制度が全面的に否定されたが故に、日本の指導者層の中にも、士分以外の者が指導的立場になる頻度が増すに従い、世の中の乱れが顕著になってきたと見なしてもいいのではないかと思う。
ところが中国では、こういう身分制度というものがしっかりと確立されていなかったので、生き馬の目を抜くような処世術が幅を利かせていたわけである。
統治というものが曖昧であるということは、いわば力づくの世界であると言う事にほかならず、農民でも力さえあれば何時でも反抗し得たわけで、逆に言えば立身出世のチャンスがごろごろしていたということである。
いわば原始社会から一歩も進歩していなかったわけで、そこの住む人々というのは烏合の衆に過ぎなかったわけである。