その10 革命への始動

共産主義・その10

内乱と革命の相違

近世から近代にかかる頃の中国大陸というのは実に混沌とした状況であったということは年表を見ると一目瞭然と理解出来る。
実に様々な内乱が起き、そして実に様々な対外戦争が起きていた事が年表を見ると一目瞭然とわかる。
この頃の中国大陸というのは中国の力だけでは安泰としておれず、外からの圧力と、内側からの民族的エネルギーによって、フツフツと沸騰しているという有様であったに違いない。
外側からの外圧と、内側からの革新の波に洗われていたわけで、それを一つの統一された国家にしようとすれば、最終的には共産主義という強権主義で括らねばならなかったのもむべなるかなと言える。
別の見方をすれば、西洋列強の帝國主義的植民地主義に翻弄された歴史とも云える。
外側から迫る植民地主義というものは、確かに中国の人々を搾取するものであったとすれば、内側から沸沸と湧き上がった反乱というのはどう説明すべきなのか深く考えさせられる。
今まで何度も私の持論として述べてきたように、この頃にアジアに打ち寄せてきた西洋列強の植民地主義という外圧の波にさらされたのは、日本も中国も同時進行で行われていたわけで、中国だけが特別に外圧にさらされていたわけではない。
しかし、中国内部で起きた自らの民族による内乱というものが、この外圧と同時に起きるということは、中国の国体・清王朝というものをより一層弱体化の方向に導いたのも確かなことである。
1840年のアヘン戦争で屈辱的な条約を推しつけられたにもかかわらず、1851年には、「太平天国の乱」が起きている。
そして、この反乱は中国全土を蹂躙していたわけで、こういう状況が1949年に中華人民共和国が誕生するまでの間に、数えきれない程起きているわけで、この有様を私は無政府状態としか言い様がないと思うわけである。
日本の明治維新というのも、それが成立するまでの間には、産みの苦しみとでもいう価値観の摩擦、軋轢、生き様の葛藤というものがあり、多くの人が自分の信念に忠実ならんとして、命を落としたケースが多々あったことは承知しているが、中国の場合、そういう単純化した発想でもなさそうである。
この「太平天国の乱」を首謀したのが洪秀全とされているが、彼自身、西洋のキリスト教の影響を受けながら、中国人としての潜在意識を合わせ持っていたわけで、彼の成したことと言えば、結果的に清王朝を弱体化させただけである。
20世紀も終わりになり21世紀を迎えようとする今日、革命という言葉は何か良い事のような響きを持っているが、革命と内乱、乃至は、反乱というのは全く同一の事である。
この「太平天国の乱」というのもまさしく蒋介石の「北伐」、毛沢東の「長征」と同じであったわけで、日本でいうところの「鳥羽伏見の戦い」とか、「十津川の変」というような生易しい内乱とは異なっている。
とにかく中国大陸全土に広がった内乱であったわけで、まさしく新しい国家統一を目指したようなものである。
1900年に起きた「義和団の乱」についても同じ事が言えているように思うが、時代がここまで下ってくると、もう中国だけの問題では済まされなくなってしまって、問題そのものが国際化してくるようになったわけである。
アヘン戦争から半世紀も経つと、もう中国というのは西洋列強の影響というものを無視できない状況に追い込まれてしまったわけである。
反乱、内乱というものを、局所的に対処できないということは、既に国体の存在を失っているわけで、あるのは無政府状態の弱肉強食の衆愚の集まりというほかない。
そういう状態の所にも文明の利器というのは遠慮会釈なく浸透するわけで、金のあるもの、力のあるものは、自分の才覚でそう云うものを揃える事になる。
それが後に軍閥として力を持つ事になるが、国家権力の方に力が無いものだから、その軍閥を押さえる事が出来なくなってしまって、軍閥の群雄割拠ということになってしまったわけである。
わかり易く言えば、日本の織田信長や今川義元の時代に逆戻りしてしまったようなものである。
しかし、ある種の反乱が、全中国を蹂躙するということは、言葉や文字で言い表す事が出来ないほどの大きな意味を持っているように思う。
もっとも中国における過去の国家というのは、いずれもこういう反乱の集大成したものが国家として存立していたわけで、その反乱が成功した時に、それが国家となり得ただけで、失敗したからこそ反乱といわれているに過ぎない。
中華人民共和国の成立にしたところで、本当の意味で、中国の人々が国家建設というものに貢献していたわけではなく、一部の共産主義者が、中国大陸の反乱に成功したからこそ、国家となり得たわけである。
厳密に言えば、台湾に中華民国というものが存在している以上、まだまだその反乱が完全に成功したとは言い切れていない。
と言うわけで、国家の歴史というのは、いわば統治者の歴史であったわけで、その統治者を支えている一般大衆というのは、歴史の舞台には登場してこないのが普通である。
世の歴史書というものは、往々にして統治者の履歴を並べる事に重きをおいているが、本当の歴史というのは、一般大衆の心の葛藤を並べる事に費やされてしかるべきではないかと思う。
18世紀から19世紀に起きたヨーロッパ諸国の帝國主義・植民地主義というのは、実に功利的な発想で、アングロサクソン系の人々の狡猾でしたたかな発想である。
それを成し得た背景には、彼らの開明的な文明の利器の発達というものがあったことは否めないが、それらを彼らヨーロッパ系のアングロサクソンの人々が独占したというところが驚異的である。
アジアの人々にも文明の利器に関しては同じような発想があったにもかかわらず、それを実用化する事に失敗し、苦汁をなめる事になったわけであるが、彼らヨーロッパの人々は、それを武器としてアジアに進出し、アジアの人々を隷属させてしまったわけである。
イギリス人はインドを征服し、インド人に阿片を栽培させ、それを中国に持ってきて金を稼ぎ(厳密には銀であったが)、その金だけ本国に持ちかえっていたわけである。
こういう発想がアジア人にあったであろうか?
交易という面で、遠隔地の人同志がお互いの生産物を交換するということは有史以来行われていたが、他民族を抑圧しておいて、それを自らの営利獲得に徹底的に利用する、という発想はアジアの人々には無かったに違いない。
日本人又は中国人にもこういう発想はありえなかったわけで、その意味で、ヨーロッパ人のたくましさには感心せざるを得ない。
このたくましさ、信の強さというものがヨーロッパにおける民主主義の根底には横たわっているように思われる。
このたくましさとか信の強さというものは、個人主義にそのままつながるもので、文明の利器の発明とか、大航海術というものは、個人の意志の強さというものが背景に無い事にはありえなかったに違いない。
ヨーロッパ系の人々と、アジア系の人々の違い、発想の違い、というのは牧畜系の生業と、農耕系の生業の違いと思われているが、私はそうではないと思う。
生業の違いというよりも、人口密度の違いではないかと思う。
単位面積あたりに何人の人間が生活しているか、という違いではないかと思う。
人がまばらにしか住んでいない所では、一人一人が自分を頼るしか生きられないが、人が集団として固まって生きているところでは、人はお互いを頼りにし合って生きているわけで、相互扶助の精神が醸成されると同時に、内部分裂も日常茶飯事に起きるわけである。
一人一人が確たる信念を持ち、そういう人達が集まってお互いに協力し合う社会と、お互いがなあなあ主義で、当たり障りのない付和雷同的な心の持ち主が寄り集まって、お互いの足の引っ張り合いをする社会では、当然その開きは大きくなる一方である。
これがアジアの人々の思考と、ヨーロッパ系の人々の思考の大きな違いではないかと思う。
イギリス人というのは、インドの阿片を中国で売る、という行為で巨万の富をイギリス本国に持たらしたわけである。
これが帝國主義的植民地主義というもので、マルクスはこういう富の収奪を嫌悪するあまり、「共産党宣言」という発想に至ったわけである。
イギリスの国家そのものは富を得たが、その下で働いている人々、つまり人民というのは、その国家の犠牲となって、貧富の差が拡大してしまったわけで、この帝國主義的植民地主義の犠牲者というのは、アジアの人々ばかりでなく、本国でも一般の大衆というのはその犠牲になっていたわけである。
西洋先進諸国も、本国では貧富の差が拡大していたが故に、数多くの革命が起き、その革命をホロー・アップするような発想が蔓延したわけである。
その究極の思考がマルクスの唱えた「共産党宣言」であったわけである。
しかし、西洋列強では、本国の国民の間に貧富の差が拡大したとしても、それと同時に、個の確立ということも平衡して認識されていたので、それが共産主義革命には直結しなかったわけである。
20世紀に入り、共産主義革命を成した諸国というのは、共通の文化的要因を持っている。
それは国民全体の知的レベルが低いということで、その事を強調する事は、する方もされる方も気が咎めるので、あまり大きな声では言えない。
しかし、20世紀の地球というものを俯瞰的な視野で見れば、明らかにそういうことが言えていると思う。
アジアにおいて、西洋列強の文化・文明の衝撃波を被ったのは、日本のみならず、他のアジア諸国も皆同じであったが、日本だけが共産主義革命の難から逃れれた背景には、我々の民族の均一化した知識レベルというものがあったからに他ならない。
他方、ロシアや中国というのは、無学文盲の人々が多かったからこそ、共産主義国家へ推移していったわけである。
そして、国民の知的レベルというものが均一化して、総ての国民がある程度の教育水準に達すれば、必然的に共産主義の否定ということになったわけである。
中国が今もなお共産主義に固執しているのは、それだけ教育のレベルが低いということに他ならない。
けれども、こういうことはおおぴらには言えない事で、持って回った言い方をしなければならないので、その実情がはっきりしないわけである。
アヘン戦争以降の中国というのは、自らの国土を外国の武力によって翻弄されている感がある。
中国国内の内乱でさえも外国の武力によって鎮圧される、という情況を呈しているわけで、この辺りにも中国人の不甲斐なさというものがあり、それも国土の広さが成せると言えば聞こえはいいが、やはり突き詰めれば国民性と言わなければならない。
「太平天国の乱」も「義和団の乱」も、その根底にはキリスト教絡みの事件であるが、それにもかかわらず、キリスト教を許すか許さないか、という次元とも違っていたのである。
日本の場合、徳川幕府の取った措置というのは、頭からキリスト教というものを容認する隙を与えない、という処置であった。
ところが中国では、各国のキリスト教が中国本土の中で布教活動をし、それに伴うトラブルが「太平天国の乱」であり、「義和団の乱」であったわけで、ここに統一国家としての体を成していない清王朝の真の姿があったわけである。
統一国家としての体を成していなかったものだから、その内乱が全国規模に広がり、日本の数倍もする地域に蔓延したわけである。
我々の感覚からすれば、内乱が全国を席巻するということになれば、それはもう内乱ではなく、国家の分裂に匹敵する事柄である。
しかし19世紀から20世紀にかけての中国ではこういうことが日常茶飯事に起きていたわけで、これでは清の王朝も永らえないのは必定である。
で、歴史はその通りの軌跡を描いたわけで、清という王朝は1912年・大正元年消滅してしまったわけである。
王朝は消滅しても、その国土に根付いた国民、一般大衆というのはそのまま生きているわけで、その中には極めて開明的で柔軟な発想の持ち主もいた。
例えば辛亥革命を指導した陳独秀であり、日本に留学経験のある蒋介石であり、中国の勝海舟もどきの李鴻章という人物は、それぞれに傑出した人物であったに違いない。
しかし、如何せん、中国の政治状況というものが混沌としていたが為、彼らもその本領を十分に発揮し得る状況に置かれていなかったことが中国全体の不幸になっていた。

革命の必須アイテム・武器

李鴻章という人物が、今の中華人民共和国で如何なる評価を得ているか知る由もないが、彼は中国の近代化には相当貢献しているように思う。
清王朝が崩壊する寸前まで、彼は中国の近代化に大いに手腕を発揮していたように思えるが、日本との戦争の尻拭いをせざるを得ない立場上、彼の評価というのは中国では芳しくないのではないかと思う。
ある意味で運の悪い人間であったように思う。
この時代の中国では誰が国家の首脳に納まっていたところで、体制を立て直すには遅すぎたわけで、坂道を転げ落ちる雪だるまのようなものであったと思う。
それにしても、ヨーロッパ列強の帝國主義的植民地主義というのは中国にとっては過酷な試練をしいたわけで、ヨーロッパ人のこういう精神構造というものも、彼らの歴史上の生き様の中から生まれてきたものとは思うが、その独善的な態度にはいささか辟易せざるを得ない。
彼らから見ればインド人、中国人、日本人というのは、人間の内に入ってはいなかったので、人間並に扱う気は毛頭なかったわけである。
それに対抗する中国人の方も、自分達の自尊心をかなぐり捨ててしまって、目先の利益ばかりを追求して、西洋列強に馬鹿にされても仕方のない対応をしていたわけである。
それに反し、我々の側は、毅然と対応したものだから、西洋列強も、我が日本に対しては一目置くようになったわけである。
李鴻章が中国の近代化に奔走しようとしても、彼を取りまく環境が、相も変わらぬ時代錯誤の思考に陥っていたわけで、その頚木から脱する事が出来ない以上、いくら李鴻章が頑張った所で限界があったわけである。
そういう現況を打開しようとしたのがいわゆる辛亥革命であったわけで、もうこの時期になると、中国においても西洋列強の物の考え方というものを無視できない状況に追い込まれていたので、中国伝来の中華思想とか、儒教の教えとかが、意識改革の前兆を呈しており、従来の価値観を失い掛けていたのである。
中国人が自分の国を完全に掌握できないということは、既に人々の意識改革が徐々に浸透していたということで、後の革命の下準備が整いつつあるということであった。
こういう無政府状態の中で、人々が「自分の命の安泰を願うためには何に依拠すれば良いのか?」ということを考えた時、やっ張り自分しか頼るものがないという事に気が付いたに違いない。
親戚も、地元のボスも、官僚、政府要人も、肉親も、こういう無政府状態の中では全く頼りにならないということを身に沁みて感じたに違いない。
自分のことは自分で決めなければならず、誰も頼りにならないと言う事を知れば、それは個の確立、自意識の目覚め、自立した精神という事になるわけで、それこそ民主主義の根底にある発想が芽生えた事になる。
民主主義というのは、そういう自意識に目覚めた人々が、自分達の個々の気持ちを尊重しながら、自分達がより良い生活が出来るように、知恵を出し合いましょうという考え方である。
個人の意思の確立した人々が、協力し合って、政治を管理・運営しましょうというものであり、一人の指導者に盲従する事ではない。
アジア人の発想の中には「長いものには巻かれる」という発想が抜けきれず、隣の人の行動を見て、それに習うという行為が往々にして見うけられるが、これは個人の意識の確立が不充分なるがゆえに、人と同じ事をしていないと不安に苛まれるからである。
だからある特定の指導者に盲従してしまいがちである。
しかし、世の中がこれほど混乱しているとなると、その中の大衆は、自分しか頼るものはない、という思考に陥ると思う。
国内の政治は乱れ、外国からの不当な干渉は数限りなく押し寄せてくるとなれば、人々は自分一人の才覚で生き延びるしか方法がないわけで、誰も頼りにならないということを肌で感じていたに違いない。
頼りにならないということで言えば、1904年に日本はロシアと戦争をおっぱじめた。
その原因は朝鮮半島にあったわけであるが、その戦場は中国の土地そのものであった。
中国の土地で、日本とロシア、いわゆる中国人から見ればいずれも外国人が争っていたわけであるが、その場合でも中国、清王朝というのは中立の立場でなければならなかった、ということはあまりにも屈辱的な態度ではないかと思う。
自分の土地で他人同志が争っていたら、その双方を追い出すぐらいの気概があっても不思議ではない。
この当時の中国、清王朝と言うのは、ここまで民族の誇りを失っていたわけである。
それと同時に、完全に西洋先進国に牛耳られて、中国の地、中国の大地というものが、諸外国の帝國主義者の手に渡ってしまっていたわけである。
こういう状況下であってみれば、彼ら中国人の中から、この状況を何とかしなければならない、という意識が芽生えるの当然の成り行きであった。
別な意味からすれば、そういう状況を打開しなければならない、というのが「太平天国の乱」であったり「義和団の乱」であったわけで、それに加え、もう一つ「辛亥革命」というものが最終的に清王朝というものを消滅に導いてしまった。
清王朝というものを倒したから、その後中国の政治がすっきりして、近代化に向けて一気にまい進できたかというと、政治の混迷はそのまま継続していたわけで、政治の混迷こそが中国の中国たる所以であったのかもしれない。
孫文が東京に潜んでいた時に作った「中国革命同盟会」というのがこの「辛亥革命」の導火線といわれているが、中国の都市で、同時多発的に暴動を引き起こす、というアイデアは確かに革新的なものであるが、世直しのためには暴力も辞さない、という発想は革命の本質を表している。
こういう論理が罷り通るとすれば、それで出来あがった政府機関、行政システムというのも、それと同じ論理で破壊される事は当然の帰結である。
しかし、孫文達の目から見た中国の現状というのは、中国の土地でありながら中国人に支配・管理されているのではなく、諸外国の帝國主義者が我が物顔に振舞っているのを許すわけにはいかない、という心境であったことは確かである。
ここで我々が見落としてはならないことに、そういう世直しのための革命をするについても、金と武器が必要であるということを深く考察しなければならない。
食うや食わずの農民は武器を買う金も持っていないわけで、内乱なり、革命なりをリードしようとすれば、誰かが何処かで金と武器を調達しなければならなかった、ということである。
孫文はそれを海外に住む華僑にねだったわけであるが、世直しのための革命といえども、金も無しで、ただただ理念を並べるだけでは成し得ないわけである。
李鴻章というのは、清王朝の末期に、その近代化の為に、近代戦に対応できる軍の学校を作った。
旧体制の中でも軍隊の組織というものは存在していたが、それが十分に機能していなかったからこそ、体制が崩壊してしまったわけである。
そうなってはならないと言うわけで、軍隊の立て直しのため、近代戦に対応できる新しい軍隊の学校を作ったが、この軍隊が旧体制を裏切って、新体制の側についてしまったのが辛亥革命ではなかったかと思う。
革命に必要なものは、まず第一に、暴力の源としての武器である。
武器を持つということは、軍隊を味方につけるということに他ならない。
歴史上のあらゆる革命で、武器としての軍隊が関与しない革命というのはありえない。
革命で有る限り、それをする前にも、それが成就した後にも、軍隊の存在ということが大きなファクターになる。
軍隊という言葉を使うと、今の日本の状況から見た場合、どうしても違和感を拭い切れない。
今の日本が軍隊というものを持たない事にして半世紀近くにもなるという状況では、軍隊という言葉の概念そのものが消滅しかかっている。
先の戦争を遂行した旧帝國陸軍というのものを概念として理解しているのは、一部の年取った世代でしかなく、50才代以降の人間にとっては、軍隊という概念すら存在していないに違いない。
今の日本の平和ボケというのも極端な状況であるが、中国革命の前のこの地の状況というのも、実に極端な情況を呈していたわけである。
国内は無政府状態、国外の圧迫は数限りなくあったわけで、こういう状況では、人々は自分以外に信ずる事が出来なかったに違いない。
革命には武器が入用なことは論を待たないが、武器を持った人間は、所かまわず押し込み強盗をしているようなものである。
そういうことをしておいて、革命を目指したとか、世直しのため蜂起したとか、人々の開放のために立ちあがったとか、旧体制の打倒を図ったとか、言っているのがこの時期の中国の状況であったわけである。
この押し込み強盗が全国的に、全中国的に連携してしまったのが「太平天国の乱」であり、「義和団の乱」であったわけで、それがある地方で分断し、個々に基盤を作ってしまうと、それが軍閥であったわけである。
世の中というのはまさしく混沌としていたわけで、この時代の中国には秩序というものが存在していなかったわけである。
アメリカの西部劇に登場するガンマンと同じで、銃こそ、つまり暴力こそが法律であり、秩序であり、身を守る守護神であったわけであるが、どういうものかアメリカの西部劇のように格好が良くない。
国家というものは一朝一夕で出来上がるものではない。
特に、きちんとした統一国家となれば、それが完成するまでには、様々な紆余曲折をまぬかれないのは当然であろう。
清という王朝が衰退に向かい、新しい国家というものが誕生してくるまでの間というのは、しばらく混沌が継続するのも致し方ないという見方もありうる。
しかし、清王朝にしろ、新しい統治機関にしろ、それは政治をする側の問題であって、政治に関与していない、諸々の庶民は秩序ある生活を営んでいたのかとなると、やはり政治に翻弄されて日和見な態度でいたに違いないと思う。
問題は、その大衆の側の日和見な態度というものが、逆に政治に反映しているのではないか、ということである。
例えば、孫文が何処かの地で武装蜂起をしようとすると、資金を華僑や日本人の同調者から借り集め、武器を購入し、その武器を持って実際に押し込み強盗を実行する人間を狩り集めてこなければならない。
日本の江戸時代というのは、士農工商という身分制度が厳然と生きており、農民、商工業者、その他の人民というのは、士分の者に完全に管理され、不逞の輩が徒党を組んで行政システムを襲うというようなことはあり得なかった。
百姓一揆というものはしばしば起きたが、これは完全に行政サイドに鎮圧され、一揆をした側が統治者の言う事を聞かないという事はありえなかった。
その事は逆の表現をすれば、日本の隅々にまで統治者の権威と権力が浸透し、完全なる統一国家を形成していたということである。
ところが中国の方では、目先の金につられて、押し込み強盗をする側に身を売る人々が多々居たわけである。
戦後の日本で、ソビエット・ロシアや新生・中華人民共和国を憧憬と羨望のまなざしで見ていた進歩的知識人と称する人々は、革命というのは総て良き事と思い込んでいる節があるが、それはその言葉の持つ雰囲気に惑わされているわけで、本当はもっともっとその実情を知らなければならないと思う。
革命も、内乱も、やっている事は全く同じで、現行政府に対して異議申し立てを実力行使で以って行う、という点では全く同一の行為である。
その際、実力行使の力が大きければ、それは現行政府の転覆にまで行きついてしまうが、力が弱ければ現行政府に押さえ込まれてしまうわけで、力と力の攻めぎ合いが起きているわけである。
よって、革命の本質というのは、武力、軍事力、暴力という背景にモノを言わせて、現行政府を倒すということにあるわけで、そういうことを企画・計画しているものを、現行の施政者が容認するわけがない。
現行の政府の行っている政治というものが、多くの民を混乱に導いているので、世直しの為に現行政府というものを否定しなければならない、それをしない事には多くの民衆は救われない、というのは革命をする側の常套的な発想であり、革命というものを正当化するもっとも普遍的な理由であるが、戦後の日本人の知識階級というのは、そう云うものを非常に美化して眺めていた節がある。
我々、戦後の日本人の民主化というのは、自らの内なる力で脱皮して得たものではなく、アメリカ軍による占領という形で、いわば外圧で、日本の民主化というものが達成されたから、自らの内なるエネルギーの燃焼としての革命と云うものを経験せずに来てしまったわけである。
だから、そういうものに対する憧れが内在しているのではないかと思う。
この時代の中国においては、全土でこういう革命まがいの内乱が勃発したということは、清王朝の統治の能力の低下と共に、その地に根ざした民衆の力が、統治する側の権威や権力を蔑にしていたわけで、まさしく世紀末の情況を呈していたわけである。
これを収拾するためには、やはり強力な統治機関としての力と権力が入用であったわけで、そのための入り口として、それを目指そうとする奇特な人は、まず最初に金を集め、武器を購入しなければならなかったわけである。
とにかく、政治の根本は武器であったわけで、人々を統治するためには、武器が最大の手段であり、最良の方法であったわけである。
戦後の日本人というのは、それを履き違えており、世直しというのは、デモ行進やシュプレヒコールや街頭演説で是正できると思い込んでいるが、それはあくまでも日本の中だけのことで、一歩日本の外に出れば、それは全く通用しないということに気が付いていない。
戦後の日本というのは、日本の全域に、大きな擬似民主主義体制という鳥篭を被せられているようなもので、地球規模で眺めた場合、それはあくまでも日本の特例という注釈付きの民主主義であったわけである。
ところが、その鳥篭の中に住む我々、戦後の日本人というのは、その鳥篭というものが全く見えていないものだから、自分達の思っている事や考えている事は全宇宙に対しても普遍的なものだと勘違いしてしまっているわけである。
その鳥篭というのは、アメリカが日本に仕組んだ遺伝子治療のようなもので、日本が再度世界制覇の夢を持つことのないように、日本人の潜在意識から、武力というものの概念を払拭してしまって、あらゆる状況下で、耐える事のみを教え、自尊心の発露としての反発さえも忌み嫌う事を教え込んだ、いや遺伝子として日本の民族の潜在意識に注入してしまったわけである。
それが今私の言う所の鳥篭である。
ところが、大自然の中の人間というのは、自分が窮すれば人のものを掠め取ったり、相手が弱いと分かれば虐めたり、馬鹿な民衆を前にすれば威張ったり、権威を振りかざしたり、虚勢を張ったりするのが人間としての偽りのない姿のはずである。
ところが1945年・昭和20年の敗戦で、アメリカから民主主義というものを遺伝子治療された我々、戦後の日本人というのは、人間の持つこういう基本的な人間としての要素をことごとくスポイルされてしまったので、精神的に完全に去勢された、改良人間と化してしまったわけである。
話を元に戻すと、清王朝の末期の頃は、政府の統率力と云うものが弱体化してしまって、中国全土が無政府状態になってしまっていたということは、より自然に近い人間の存在に擦り寄ったわけで、そう云う状況で、人が自分の欲望を実現させようと思えば、まず最初に力の象徴として武器の購入が真っ先に来るのは当然の帰結である。
清王朝の末期的症状の中にも、軍隊の近代化と云う事を考えて兵器廠に近いものを作ったものだから、小火器というのは自前で作る事も出来た。
ところが中国全土で内乱紛いの反乱が多発すると、それの鎮撫に出掛けた官憲としての清の軍隊が、あちらこちらで敗北してしまったわけで、敗北するということは、武器を放り投げて帰って来てしまうということであり、その場に残された武器というのは、反乱した側に残ってしまうわけである。
そこに持ってきて、反乱しようとする側は、外国から武器を購入して、それを中国内地に送り込んでいたわけで、この頃では小火器というのはまったく無秩序に出回っていたに違いない。
日本のようにきちんと管理された国家ではなかったので、金の力であろうが、地縁・血縁の力であろうが、口先の詭弁であろうが、どうにかして巷に出まわっている小火器を持った人間を駆り集めて、一つの方向に仕向ければ、それは内乱であり、革命であり、世直しという大義名分がついたわけである。
そう云う勢力が、中国全土にそれぞれに拠点を構えるとそれが軍閥というものになってしまった。
軍閥というのは、人間のもつあらゆる能力を結集させ、とにかく武力を持った者が、お山の大将として、地方の実力者として、清王朝、清帝國の国家権力をも跳ね返すほどの力を保持した集団の事である。
こうして見ると、清王朝の末期というのは、敵が一つや二つではなく、西洋列強の外圧としての敵から、地方の軍閥から、内部の反乱者や、諸々の革命家と称する反体制グループという敵やら、そのどれもが清という国家体制を崩壊の方向に導こうとするエネルギーばかりであったわけである。

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