その9 近代以前の中国

中国人の心の琴線

日本が明治という時代に日清戦争と日露戦争に勝利したということは、歴史的に見て地球規模で非常に大きな衝撃であったようだ。
それは我々、日本人が感じているよりも、世界の人々にとって、それこそ価値観の大転換を引き起こす衝撃波にも匹敵する事柄であったようだ。
その当時の世界の人々にとって、日本のような名もないアジアの小国が、中国大陸の清王朝に勝ったり、ロシア帝國に勝ったと云う事は、驚天動地の出来事であった。
それは西洋の帝國主義の犠牲になっている諸国にとってはまさしく大きな衝撃波となったに違いない。
そしてその衝撃波というものは、我々、日本人の内部にも大きな反射として跳ね返り、それが20世紀後半の日本人が皆同じように体験することになる禍根の根底に横たわる深層心理を形成することになった。
思えば、我々日本人というのは、実に浅薄な民族であった。
それはこの二つの戦争にたまたま勝った事で、我々、日本民族というのは、完全に自省心というものを見失い、相手を軽蔑する事のみを覚え、相手をより良く観察し、考察する、という人が生きる為の最低の処方すら見失ってしまって、アジアの人々を蔑視する事のみを覚えたという点で、実に我々の民族の諸先輩は浅薄であったといわなければならない。
明治維新の前までの日本の文化は、その悉くが大陸の影響を受けているという謙虚な気持ちを失い、たった二回の近代戦もどきの戦争で勝利したからといって、それで我々の民族が彼らよりも優れている、などと思い込む方がよほど愚劣であるにもかかわらず、そういう思い込みに嵌まり込んだのが我々の先輩諸氏であったわけである。
こういう状況において、中国の人が、東京に居ながら自らの祖国を非難する集団として「中国同盟会」、後に「国民党」になっていく組織が結成されるというのも不思議なことである。
そしてこの政治結社には、その後の中国をリードする面々が非常に多くいたわけで、その代表的な人物は紛れもなく蒋介石である。
日本で、2つの戦争の後遺症として、アジアの人々を蔑視する気風、という思いあがった雰囲気を肌で感じた中国の人々は、その後の中国を混乱の極みにと引導を引くことになるわけである。
アジアの人々、特に中国の人々の対日感情の悪さというものは、この時期に、日本人と日本政府の取った施策が、彼らの自尊心を踏みにじった事によるものと思う。
ただ戦争に勝った負けたという事だけならば、そうそう根深いものにはならなったにちがいないが、我々は、彼らの深層心理としての心の琴線を踏みにじったに違いない。
彼ら、中国人の心の琴線というものが果して何であったのか、ということは未だに分からない事柄であるとしても、少なくともそれには中華思想というものが大きく関わり合っているようには見える。
そういう風に、彼らには潜在意識としての中華思想というものから抜け出せないでいるにもかかわらず、その彼らが日本に潜伏して、自分の祖国の批判をするということも不可解なことであるといわなければならない。
現代史の中国の要人はその悉くが日本の影響を受けており、しかもその当時の日本というのは、彼らの目から見ても仮想敵国であったわけで、仮想敵国であればこそ、その打倒のために日本に居たと言う事も言えなくもないが、それはあまりにも飛躍した解釈といわなければならない。
先にも述べたように、西洋先進諸国の文化・文明の衝撃波というものは、ある意味で、日本も中国も同じように同時期に受けたわけである。
今日、この両国の経済状況、いわば国民の暮らし向きの相違というのは、この時の西洋からの衝撃波に対する対処の違いから生まれてきていると思う。
それは、良し悪しの問題ではないが、国民の暮らし向きの相違ということになれば、今の日本のほうが中国の一般庶民の生活よりも数段優れている、と言って差し支えないと思う。
西洋の衝撃波に如何に対処するかという問題は、やはり日本のようにこじんまりとした統一国家と、中国のように多民族を内包した大陸国家では、自ずから相違があるのは致し方ない事である。
それにもかかわらず、近代化で一歩リードした日本が、西洋先進国の側に立ち、彼らと同じ事をしようとしたことについて、中国の人々の中にも日本と同じ道を選択しようとした人々がいたということであろうと思う。
そのいう人々が、この当時日本に居た中国人ではなかったかと思う。
孫文は、日清戦争に勝ち、日露戦争に勝った日本から何かを得ようとして日本に居たに違いない。
しかし、そこで彼らの見たものは、日本人の奢り高ぶった虚栄心と、アジア人を蔑視する浮ついたナショナリズムしかなかったわけで、日本をアジアの盟主に、という彼らの理想や願望はことごとく雨散霧消してしまったに違いない。
今日、地球規模で世界を見たとき、案外隠れた日本びいきの国というものがある。
例えば、トルコ、キルギスタン、という国は日本びいきの国であるが、これらの国は国際舞台で華々しく活躍しているわけではないので、その存在すら知名度が低いが、これらの国は日本が日清戦争や日露戦争、ひいては太平洋戦争で西洋先進国と互角に戦ったと云うことで以って、日本にとっては好印象を持っていてくれる。
それと同じ事で、中国人の中にも、日本が「眠れる獅子」として存在していた清と戦争をして、それを打ち負かした実績で以って、日本に対して、畏敬の念を持った人々がいたということである。
しかし、戦争には勝ったが、その相手方を管理するというか、統治するということにかけては、我々、日本民族というのは全く不得意であったわけである。
西洋列強というのは、植民地経営において、そのノウハウを長い歴史上の経験として持っていたが、我々にはそういう経験が全くなかったものだから、他民族を支配、統治する術を持っていなかったわけである。
もっともアジアの人々から見れば、同じ支配・統治されるとしても、紅毛碧眼のヨーロッパ人の言う事にはなんとなく畏敬の念を持ち、あきらめの境地になるが、同じ皮膚感覚のアジア人である日本人がものを言えば、今まで彼らの側が日本を蔑視していた過去のいきさつから見ても、反撥のほうが先にたつということになると思う。
アジアの人々も、ヨーロッパの人々には明らかにコンプレックスを感じていたに違いなく、日本に対しては、その逆の感情が抜けきれなかったに違いない。
そうはいうものの、現実の動きというのは、日本は着々と西洋先進国の後追いに成功しているわけで、それに関してアジアの人々も認めざるを得なかったに違いない。
前にも述べたように、近代国家というものには、それにふさわしい国土というものは必要であったのかもしれない。
あまりにも広大で、多民族が群雄割拠している地域を一つの統一国家にするということは、所詮無理があるわけで、ヨーロッパの近代というのは、中程度の国家がお互いに刺激しあって近代化を成したわけで、あれが今のECのように一つの統一国家を目指していたとしたら、ヨーロッパの近代化という事はありえなかったに違いない。
旧ソビエット・ロシアにしろ、中華人民共和国にしろ、社会主義で統一された国家というのは、ヨーロッパや日本のような中規模の国家ではなかったわけで、あまりにも国土が広大なるが故、近代化の前の条件が揃わなかったがために、一気に社会主義に一括りされてしまったに違いない。
巨大な国家を統一するには社会主義・共産主義という、恐怖で以って人々を押さえつける政治手法でなければ成りたたないという事かもしれない。
力で以って地方の自治というものを押さえつけない事には、常に地方の反乱が起きるわけで、力としての社会主義・共産主義がなければ巨大国家の統一ということは不可能であるという事である。
中国の近代化の前の状況というのは、日本の明治維新の状況と酷似しているが、これも国土の広さ故に、日本のように大衆の意思の統一を得ることが困難であったからこそ、その紆余曲折は日本以上に複雑多枝に渡っているのではないかと思う。
この時代の中国人の中にも日本の明治維新を参考にしようとした人々がいたわけで、そういう人が、その夢を実現することなく消えた背景には、やはり中国の人々に特有の潜在意識が大きく作用していたに違いない。
この時代の中国に人々にとって、清王朝の存在というのは我々、日本人が理解し得ない思考であったと思う。
中国の人々にとっては、基本的に、漢民族がその土地を支配するのならば潜在意識が納得するけれども、異民族であるところの、女真族である満州地方を基盤とする夷狄が自分たちを支配していると思うと、そこには我慢ならない反抗精神が醸成されていたに違いない。
よって清王朝の行政システムというのは十分に機能せず、官僚の腐敗というのは日常茶飯事の事となってしまっていたわけで、そういう状況下であって見れば、今日のような近代化した価値観というものが存在し得ず、官僚の腐敗というものも生きんが為の方便となってしまい、それに対する罪悪感というものは存在しなかったに違いない。
参考書でこの頃の中国の有様というものを見てみると実にその事がよく理解出来るが、それを一言で表せば混沌とした状況であったとしか言いようがない。
清という王朝があり、その下に今で言うところの行政システムというものが存在していたことは納得出来るが、それが十分に機能しておらず、地方ではその行政システムというものが全く機能していなかったわけである。
その事は統一国家としての体をなしていなかったわけで、それこそ太古以来の自然の人間の集落の存在というものに近い状況であったわけである。
孫文の存在そのものが国家という枠組みからはみ出した存在で、彼の出身こそ中国であったかもしれないが、彼の生き様の中で、彼は世界各国を渡り歩いていたわけであり、その中で中国、清王朝の撲滅を唱え、中国の民衆を煽っていたわけである。
後世の歴史は、彼のことを中国の近代化に貢献した善人という評価をしているが、恐らくこの評価は今の中華人民共和国では問題にされていないのではないかと思う。
彼は世界を回っている内に、西洋の近代化の根本に接し、それを三民主義というものとして結実させようとしたが、中国に住む大衆のほうでは、それを受け入れる状況が出来ていなかったわけである。
それは無理もないことで、有史以来連綿と生きてきた大衆、諸民族にとって、外界との接触が閉ざされている以上、意識改革というのはありえないわけで、太古の生き様から脱却しようという意識が最初から存在していなかったからである。
彼ら大衆の夢は、明日の糧さえあればそれだけで幸せであったに違いなく、他の世界の事など知ろうともしなかったわけである。
問題は、そういうささやかな夢さえも大衆に提供できなかった行政システムの方にあったわけで、その事は中国の人々が、中国の大衆の願望を理解していなかった、ということに他ならない。
要するに自国民の願望を理解していなかったということである。
つまり、各人が、各様に、自己の欲望追求にのみ奔走していた、ということに他ならない。
その集大成というものが、清王朝の弱体化という形で西洋列強の前に晒されたわけである。
中国大陸で毛沢東による共産主義革命を達成する以前の状況というのは実に混沌としていたわけで、それは明らかに統一国家の体を成していなかったが、人間の文化・文明というのは、そういう国家という形骸化したものを乗り越えて人々の間に浸透するものである。
文明の利器が人々の間に浸透すれば、人々はその便利さに魅了され、そうする事によって、人間の意識の方も徐々に改革されてきたわけである。
その有様というのは、日本の田舎も、中国の僻地も、対象が人間である限り変わりはなく、同じ情況を呈していたわけである。
日本の田舎でも、電灯がともるようになれば、人々は今まで使っていたランプを捨て去る事に躊躇しなかったのと同様、汽車が走るようになれば、人々はこぞってそれを利用するようになったのである。
今までの生活に新しい文化・文明が浸透してくれば、その恩典に浴する事に躊躇しない、というのは一種の意識改革に他ならず、それが度重なる事によって、人々は新しい発想に接することになるものと思う。
人々が新しい発想に接するようになれば、その次に表れる現象として、旧来の思想の破壊、乃至は否定ということになるのは当然の流れであった。
これは日本も中国も同じように、人間の在り方としては必然的な事で、その現象というのは、人間の基本的な姿であったと思う。
ところがそこで問題になってくるのが、その時の社会というものの態様の相違である。
我々、日本人の場合、江戸時代というのは、完全なる封建思想に根付いた士農工商という身分制度の元で、きちんとした統一社会が出来ており、行政のシステムというものは確立されていた。
被支配階級というものは完全に管理されていたので、農民の反乱、一揆というようなものは完全に抑圧されて、農民が反乱をして統治機構を引っ繰り返すというような事はありえなかった。
他方、中国においては、中国全体の統治機構が不充分・不完全なるが故に、農民が反乱を起こすと、それが地方の枠を越えて、漁り火のように中国大陸全体に広がり、清王朝の統治機構そのものを揺るがしかねない状態を呈していたわけである。
支配する側とされる側の間に常に下克上の状態があったわけで、その反乱の首謀者が地域の掌握に成功すれば、それがそのまま軍閥という形で生き残れてしまうわけである。
一度軍閥になってしまえば国家、つまり清王朝といえども、これを消滅させるには多大な努力を要するわけで、それはそのまま国力の衰退を引き起こしてしまうわけである。
つまり国家の統一というものがありえないという事ある。
ならばその軍閥を相対的に管理すれば清王朝というものが有効に機能しそうな気がするが、これが中々思うようには行かず、軍閥を制するのに軍閥を利用しなければならない、というところに清王朝のアキレス健があったわけである。
日本人と中国人を対比させた言葉に、「我々日本人は形式を重んずる民族であるが、中国人は実を重んずる民族である」、という表現があり、言い得て妙であると思う。
形式を重んずるが故に、我々は統一国家というもの存在に価値を置きたがるが、中国の人々は、自己の利益が実現するか否かに重点をおいて生きているので、国家の存在とか、行政システムの機能とか、そういう管理システムというものに信頼を置いていないわけである。
そういうものに価値観を見出していないということは、突き詰めれば、「自分さえ良ければ何をしても通る」という事に他ならず、他人、隣人、同朋と連携して事をするということに信頼を寄せていないわけである。
その発想が根底にあるが故に、官僚が汚職に走る事を悪とは思わず、そういう役得があるが故に、その役得にありつくため、科挙という試験に合格する事にのみ努力するわけである。
科挙という制度も本来は優秀な人材を確保する事が目的であったが、その優秀であるべき人が、中国の潜在意識としての私利私欲におぼれ、蓄財に走る事を悪と思わず、それの具現化に現を抜かすのであれば、それは民族の自意識を覚醒する事にはならないわけである。
中国の潜在意識として、もう一つ儒教の影響というものも無視できない。
儒教の説く「年長者を敬い、家族の和を協調する」ということは、そのまま封建主義の継続を望むということで、それがある限り、個人の意思の確立ということはありえないわけである。
人間の自然の生き様というものをよくよく観察すれば、人間というのは、老齢になれば人としてのあらゆる機能が低下してしまうわけで、それでも尚且つ、その老齢のいうことを聞くとなれば、あらぬ方向に行ってしまうわけである。
中国の4千年の歴史というのが、その事の確実なる証拠を示している。
それは管理する側にとっては好都合な発想で、あらゆる場面で説得力を持つものであるが、中国の人々が、その惰性の中にあまりにも永いことつかりすぎていたので、いざ近代化ということが目の前に現れると、その自縛から脱却しにくかったわけである。
人間というのは孤立しては生きて行けれない動物で、個人にしろ、集団にしろ、他との接触を経験しながら、その軋轢の中から文化・文明というものを作り上げてきたわけである。
中国の沿岸に西洋先進国の船が漂うようになるということもその一例である。
そういう事態が起これば、そこに大きな軋轢が生じるのが自然の成り行きで、その軋轢というものは、当然、その事態に対して積極果敢に打開しようという発想と、触らぬ神に祟り無しで、消極的な逃げの発想とに大別されると思う。
この時、人としての老人の発想というのは、その大部分が、現状を悪い方向には持っていきたくない、という思考が先にたち、消極的な取り組み方になりがちである。
そこに中国の潜在意識としての儒教の影響が大きく邪魔をする事になるわけである。
異民族との接触、異文化との接触というのは、たった一回限りの現象であったとしても、接触したということは歴史的事実として残るわけであり、それが既存の社会に大きく影響するわけである。
アメリカのペリーがたった4隻の軍艦で浦賀に来たということは、日本中に大きな衝撃波として伝わったわけで、たったそれだけの事で、日本の行政サイド、幕府というのは、上から下まで大騒ぎを演じたわけである。
この時の日本側の対応も極めて消極的な対応で、どうにかして異民族、異文化としてのペリーを江戸に入れたくない、という発想であったが、軍艦という日本の文化にはない革新的な兵器の前には屈服せざるを得なかったわけである。
行政を司る側は、その役職から、既存のシステムを維持するためには、西洋文化に屈服するのも致し方ないという発想になりがちであるが、行政に携わっていない一般の人々からすれば、その事は民族の誇りを傷つけられる事になるわけで、我慢ならないわけである。
その事は、行政に携わっている側というのは、現状を維持する事に重点を置きがちであるが、そうでない人々というのはある意味で無責任なわけである。
異文化に接触した時、現状を維持したいという心理は、その裏には保身を図りたいという心理が潜んでいるわけである。
中国でもこれと同じ現象がおきたいたわけで、日本人であろうと中国人であろうと人間の行動というものはそう大差あるものではないと思う。

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