その9 近代以前の中国

共産主義・その9

国土の広さが諸悪の根源

共産主義を語るにはソビエットだけでは片手落ちで、どうしてももう一つの雄であるところの中国についても語らなければならない。
中国の近代化ということになれば清朝の崩壊から語ることにならざるを得ない。
中国において清王朝が成立したのは1644年の事で、日本では関が原の戦いが済み、江戸幕府が開かれ、徳川幕府が安定化の時期を迎えようとしていた頃で、この頃から西洋のキリスト教徒がアジアの近海に出没し始め、オランダやポルトガルのキリスト教徒に大衆が洗脳され始め、日本においてもその影響が顕著になり、徳川幕府としては鎖国という手段で以ってそれに対抗せざるを得なかった頃である。
日本の徳川幕府、いわゆる江戸時代というのは約300年間続いたといわれているが、中国においても清王朝というのは1644年から1912年まで約250年続いたことになる。
そしてこの時期に、アジアにおいて、西洋のキリスト教が布教に出まわったということは、日本も中国も同じような災禍に見まわれたという事だと思う。
いわば台風や地震に遭遇したようなもので、この対応の違いで、日本と中国のその後の生き様に相違が生まれたといわなければならない。
徳川幕府と清帝國の成立には約50年のタイム・ラグがあるが、このタイム・ラグがその終局においてもそのまま持ち越されたわけで、特にこの両政権の終局の場面での50年のタイム・ラグというのは非常に大きな差異を生んだ事になる。
この差異がそのまま近代化の差異となったわけで、その差異の為、日本は自由主義陣営に座し、中国は社会主義体制から脱却できないでいるわけである。
平安な時代が250年以上も続けば、様々な点に官僚制の弊害というか、組織疲労というか、そういうものが現出してくる事は洋の東西に普遍的なことで、日本でも又中国でも同じである。
しかしそういう現実を、座して待たず、変革を目指して自ら率先してその渦中に飛びこみ、改革を目指すということなると、日本と中国では民族性の違いというものが大きな差となって表面化してきたわけである。
清王朝というのは、その誕生の時から、西洋のキリスト教徒、乃至はキリスト教文化圏に翻弄されていたわけで、日本ではそれを鎖国という強行手段で以って日本人がキリスト教文化に洗脳されることを阻止してしまった。
しかし、中国、清王朝に関しては、海岸線があまりにも長く、一政権の権威が国土の隅々にまで浸透する事が不可能なるがゆえに、どうしても政権の威力を末端にまで浸透させる事が出来なかったに違いない。
それと西洋のキリスト教文化というものを馬鹿にする気風があるが故に、それらから学ぼうという事をまったく考えなかったので、そこに日本と比べて近代化に遅れをとった原因がある。
清王朝の政権というのは、基本的に漢民族が作った政権ではなかったが故に、民衆の側には、常に行政に対する冷ややかな感情を拭い去る事が出来ず、常に非協力乃至は物言わぬ形での否定的な態度をとっており、積極的に行政に寄与する精神が欠如したいたわけである。
この時代における西洋文化というものに、アジアの人々が一番驚き、憧れたのは、火薬と鉄砲であったと思う。
そしてコンパスを頼りに、見も知らぬ遠方より、船でアジアにまで来る航海術というものであったに違いない。
しかし、これらは基本的に中国人の発明・発見であったにもかかわらず、それを西洋人が集大成して、一つのテクノロジーとして築き上げたものであった。
彼らは、そういう西洋文化が元々自分達の発明品であったということに気が付かず、そういうものを全否定してしまったわけであり、これを素直に受け入れ、そのテクノロジーを身につけた日本人の方が近代化に一歩先んじたのは当然の帰結であったに違いない。
中国においてもこういう西洋文化の排斥というのは何度も行われたが、その都度各地の小競り合いで、悉く西洋人に負かされてしまっていたのである。
これでは全体として中国の国土というものが西洋列強に蚕食されても致し方ない。
こういう現況に不満を持つ中国の人々も多々いたわけであるが、その人々が祖国の現況を憂えば憂うほど、それは一種のナショナリズムを形成する事になる。
ところがそのナショナリズムというものが、一民族一国家ではない中国においては、正常に発達しえなかったのであり、我が日本のように、ほぼ一民族一国家ならば、ナショナリズムというのは国家発展の起動力たり得たが、中国というのはいわゆる多民族国家なるがゆえに、ナショナリズムの形成そのものが不充分、且つ正常に発達出来なかったわけである。
そもそも清帝國そのものが中国の基幹を成す漢民族ではなかったわけで、漢民族の潜在意識から見れば、夷狄と称する野蛮人に統治されていた、という意識が抜けきれていない。
現行政府が、自分達が日ごろ蔑んでいる野蛮人に支配されているので、彼らに忠誠を尽くす事は自尊心が許さない、という面があったように思われる。
この頃の中国、19世紀の末期から20世紀の初頭にかけての中国というのは中国そのものが主権国家としての体を成していなかったとみなしていい。
西洋列強のイギリス、フランス、オランダ、ポルトガルという諸国は、ヨーロッパの地において近代意識に目覚め、主権の何たるかを認識し、国家という枠組みを概念として理解し得たが、中国においてはそういう近代意識が未発達で、清王朝、清帝國という存在感も民衆レベルではなんの意識も感じていなかったに違いない。
人々はただただ食っちゃ寝、食っちゃ寝に明け暮れていたわけで、世の中の推移というものには無頓着であった。
自分の住んでいる周囲のみが全世界で、自分さえ食うに困らなければ、それこそ幸せを絵に書いたような意識から脱却できないでいたわけである。
そういう大衆も、ヨーロッパから海を渡って流れてきたキリスト教文化に接するようになれば、自分との相違を自ら認めざるをえず、自分達はこんなに貧しいのに、彼らは何故にあれほど豊かなのか、という疑問を持たざるを得なかった。
こういう民族としての自覚は、当然海に接している地方から順次起きてくるのは自然の成り行きで、近代化の必要に迫られるというのも、極々自然の成り行きであったに違いない。
ところが中国というのは奥行きの深い大陸国家であり、歴代の王朝は施政権を国土の隅々にまで満遍なく浸透させる事には悉く失敗しているわけである。
その上、多民族国家であるが故に、政治そのものに常に各民族の利害得失が作用するわけで、全中国を完全に掌握するということは非常に困難な事であった。
20世紀も末になって、もうすぐ21世紀を迎えようというこの頃では、「人の命は地球より重い」、ということが知識人の間では普遍化しつつあるが、これは私に言わしめれば、人間の傲慢さに通じるように思われてならないが、世の流れとしてはそういう状況が生まれつつある。
しかし、清王朝が壊滅するかしないかの時代には、人の命など虫けら同様の値打ちしかなかったわけである。
社会の階層の上の方では大衆を虫けら同様に扱い、大衆レベルでは、それを運命という概念で天然災害と同じレベル見なければならない、というあきらめの心境に陥っていたわけである。
清朝の苦悩はそのまま中国の苦悩として存在し、その苦悩の源泉は、あまりにも国土が大きすぎ、民族が多すぎ、それを一つの国家として形成するには問題が多すぎるということであった。
清という帝國が全中国を掌握したといったところで、現実には日本の江戸時代のように、地方ではそれぞれの封建領主達が地歩を固めており、その各地の封建領主が上納金を納めている限り、清皇帝としては全国土を掌握していると認識せざるをえなかったわけである。
19世紀後半になると、西洋のキリスト教およびそれに伴う文化が中国の沿岸地方に漂ってきたけれど、それを迎え撃ったのはそれぞれの地方であったわけである。
それぞれの地方が、西洋のキリスト教文化に敗北するということは、中国における地方勢力の力がそれだけ弱かったということに他ならない。
1840年のアヘン戦争といえども、イギリス本土からはらばるやって来たイギリス軍が、中国の沿岸地方で戦争をしたわけで、戦争の舞台は完全に中国の沿岸であったわけである。
それに負けるということは、中国の実態が如何に弱体かという事に他ならない。
分かりやすく言えば、ベトナム戦争で海を越えてやってきたアメリカが、その地の住民であるベトナム人に勝ったようなもので、戦争というのは遠征してくる方が地元で守る側よりも不利な事は古今東西変わらぬ普遍的な常識である。
尤も攻める側というのは、その不利な条件を十分承知し、それに対抗する手段を講じてくるのもまた不変的な常識であるので、遠征して攻めれば、必ず負けるということにはならない。
それが証拠にアヘン戦争を始めとする19世紀の中国においては、西洋のキリスト教徒は全てヨーロッパから遠征してきたにもかかわらず、中国を負かしてしまったわけである。

同じスタートライン

こういう状況を中国の人々も座して見ていたわけではないと思う。
自分達の土地で、西洋人が我が物顔に振舞うのを憂いの目で見ていた人も数限りなくいたに違いないが、そういう人々に活躍の場を与えなかったのも、これもまた中国人の同胞であった。
いわゆるナショナリズムというものが芽生えにくかったにもかかわらず、その芽を摘んでいたのも他ならぬ中国人で、その根底には、中国伝来のものの考え方の影響が濃厚に潜んでいたわけである。
それは他ならぬ封建思想と、もう一つその奥にある中華思想である。
この頚木から脱するためには、どうしても意識改革を経なければならなかったわけで、日本の明治維新というのは、この意識改革が比較的スムースに行われたが、中国においては、これが第2次世界大戦の後まで遅れたわけである。
民族の根底に横たわっている中華思想の上に、封建思想が乗っかっている中国においては、その両方を綺麗に払拭しない事には完全なる統一国家というのはありえない。
そうはいうものの近代化の波は物質面では徐々に浸透し、便利なものは洋の東西を問わず誰にとっても便利なわけで、その便利な恩恵に浴しようとすれば、だんだんと意識の方も改革されてくるようになったわけである。
意識改革の最も顕著な例は武力の効率化であって、武器弾薬の肥大化、およびその威力の向上に他ならない。
中国、いや清王朝の時代において、西洋先進国の文化に接触した人々は、西洋人の持つ武力、武器の威力というものには脱帽せざるをえず、この威力の違いによって、中国の土地というものが西洋人に蹂躙されたという現実を認識させられたのである。
だとすれば、そういうものを自分達も持ちたいという願望は当然起きたわけで、事実そういう風に行動し、清朝の末期には西洋先進国から軍艦というものを何隻も購入している。
ところが、この中国大陸というのは、あまりにも広大な土地を抱えているが為、中央集権ということが徹底しにくい事情があったわけで、折角の近代化の象徴も、その運用面で齟齬をきたしており、これがあっさり日本に負けてしまったのが日清戦争であった。
1894年・明治27年に起きた日清戦争というのは、今から思うと倭寇の近代化というようなもので、日本の近海には元々日本の海賊がうようよしていたわけであり、その海賊が近代化した国家権力を背景にし、傍若無人に横行していたという構図である。
明治維新で意識改革を済ませた日本では、倭寇に近い行為までをも国家の行為という認識を持つに至ったが、中央集権の不充分な中国、清王朝の方は、近代化した軍艦を持ったとはいえ、その意識の方が近代化と程遠いところにあったものだから、あくまでもそれが一部の人間のおもちゃの域を出ることがなかったわけである。
中国の意識改革というのは、この日清戦争によって初めて中国の人々がナショナリズムというものに目覚めた、といっても過言ではないと思う。
中国という土地で、太古から連綿と生き続けた人々が、「自分達こそこの世で一番優れた民族である」と思い込んでいたものが、東の海のかなたの野蛮人と思っていた小さな国に敗北したということ自体、彼らの自尊心をかなり傷つけたのは真実であろうと思う。
中国の側からすれば日本というのは夷狭の一つに過ぎず、それは彼等の感覚からすれば野蛮人以外の何物でもなかったわけである。
この世の文化というのは中国が発祥の地で、その文化が周囲の野蛮人に浸透して行ったからには、中国のみがこの世で一番優れた民族であるという意識、これが中華思想であり、そういう野蛮な国が中国の民を押さえるということは、彼らの論理では許されざる事であったわけである。
東の海の小さな野蛮国に負けてみると、その小国の要求するものは、西洋人の要求するものよりもうんと過酷なものであったので、それを付きつけられた時、始めて自らの立場を理解したという感がする。
この状況を目の当たりにした孫文は、最初に中国人としての自我意識に目覚め、この状況を打開すべく、当時の政府担当者であるところの李鴻章に上書を提出してみたものの、そういうものを素直に受け入れていれば、中国そのものが時代遅れになることはなかったわけで、そういう諌言を悉く拒否していたからこそ、中国の政治というのは混迷をきたしていたわけである。
しかし、孫文が李鴻章に上書を提出したことが、中国革命の端緒であったことは確かで、これが嚆矢となって、中国は近代化に向けて脱皮して行く事になったわけである。
革命には血が流される事が必然的なことで、それは日本の明治維新でも同じであり、血を見ることにより、人間の意識は変革するものである。
逆に血を見なければ人間の意識は変えられないということでもある。
我々、日本人の場合でも、意識改革を達成するまでには多くの血が流れたわけで、その中でも西洋人の持つ文明の利器に惨敗した歴史というのは、中国の人々と共通するものがあった。
西洋人の持つ文明の利器に愚弄されたのは中国の人々ばかりではなく、日本に住む我々の先輩諸氏も、この時代においては大いに西洋文化、特に兵器、武器に関して、対抗する術を持っていなかったわけである。
この武器の違いで東洋人は悉く西洋人に敗北をきしたわけであるが、その後の対処の仕方で、日本と中国では異なる道を歩むことになった次第である。
日本においても1862年にはイギリスと薩摩藩が戦争をし、その翌年には下関でイギリスとフランスの連合軍と長州藩が戦争をして、その両方とも日本の側が負けていた。
アメリカのペリーの浦賀来航という事件も、戦争の火蓋こそ切ることはなかったが、武力を背景とした脅迫に近い外交であったわけで、これらの事件は日本と中国で同時進行していたわけである。
日本においては、こういう相手方の武器の威力を骨身に沁みて感じ取り、彼らに追いつき追い越さねば、という意識が芽生えたわけであるが、中国においては、そういう意識が日本と戦争をして敗北するまで起きなかったわけである。
今、この歴史の流れを思うと、中国人というのは潜在的に中華思想というものから脱却できないでいたわけで、肌の色の同じ日本人に対しては優越感を持っていたが、肌の色の違う西洋人、ヨーロッパ系の人々に対しては、自らを卑下する気持ちが抜けきれず、まさしく異星人としての認識に凝り固まったいたに違いない。
ところが、自分達が日ごろ卑下していた同じ東洋の東の小島の住人、倭人に自分達の軍艦を沈められ、倭人の側から不平等な条約を付きつけられると、俄然民族意識に目覚め、ナショナリズムに覚醒した事になる。
この頃の日本と中国の置かれた状況というのは全く同じ条件のもとにあったわけで、その後の発展の違いというのは、西洋人と接した以降の対処の仕方に相違があったからに違いない。
人が群れを成して生きていく上では、社会というものが必然的に出来るが、それは同じ人間が同じように生き延びるという意味で、似たり寄ったりの社会になる。
同じ仲間内では相互扶助の精神が存在するが、自分と違う仲間と接したときには、侵略とか、略奪とか、収奪とか、戦争による人殺しが、自らの仲間の生存のために正当化されてしまうわけである。
その場合、日本というのは四周を海に囲まれて、比較的単一民族で出来あがっていたが故に、その中で意思の統一が比較的容易であった。
ところが中国においては、国土が広大なるがゆえに、自らの民族意識というのは育ちにくかったと思われる。
同じ土地に住みながら、常に異民族と接しつづけていたわけで、民族の自我に覚醒するということが希薄であったに違いない。
清という王朝も、その内部には異民族としての先住民であるところの漢民族を内包していたわけで、清という国家そのものが異端の王朝であったわけである。
その王朝が約300年も続いたということこそ異端なことであったわけである。
こういう広大な土地に、元々先住民族としての諸民族が群雄割拠している状況では、それを一つの統一思想で括る事は容易なことではない。

孫文の思考の本質

中国の土地を西洋人が蚕食し、それに日本が遅れ馳せながら参入したといったところで、それはあくまでも点と線でしかなかったわけである。
それを面として統一したのが第2次世界大戦後の中華人民共和国に他ならない。
孫文が上書を李鴻章に出したということは、中国における意識改革の第一歩であったに違いないが、民族とか、国家の考え方というものは、個人がいくら立派な諌言をしてみたところで、そう簡単に変わるものではない。
国家にしろ、社会にしろ、組織として存在する以上、その組織の思考方法が近代化に向けて脱皮するには、上から改革を押しつけたとしても下の者は自己保存を優先してしまって真の改革には至らない。
つまり下の者の抵抗で改革そのものが骨抜きにされてしまうわけである。
下の者は常に現状維持を望むわけで、上からの改革というのは必ず尻すぼみになってしまう。
下からの改革、意識改革ということになれば、民族として、又は国家として、社会として、下のほうの知的レベルの向上というものがない以上それはありえない事である。
つまり、長い長い時間がかかると言う事に他ならない。
この時代の中国の現状というのは、いわゆる中国の歴代の歴史と同様、近代化とはほど遠い位置にいたわけで、太古の歴史を引きづっていたわけである。
科挙によって選抜された地方官は私利私欲をむさぼる事に現を抜かし、それと同時に地方の豪族というものが自由気ままに闊歩していたわけである。
これはこの時代の中国では普通の事で、中央集権が未発達と云う事はこういう事なわけである。
孫文という男が歴史上で注目を集めたのは、いわゆる「眠れる獅子」と言われていた中国政府に対して、上書を提出するという形で諌言をしたからである。
この行為というのは中国の歴史では大変なことであったに違いない。
だから、この男はあまりのも有名になりすぎて、中国の近代化を論ずるためには避けて通れない人物になってしまったが、我々、日本人の感覚からすれば、やはり違和感を拭い切れない面がある。
というのは、彼が本国、中国政府に対して、西洋列強に屈しないような立派な政治・外交を望んでいる事は当然としても、その活動を本国ではない外国の地で行っているという点である。
自分の国の既存の政府に、諌言を書きしたためた文書を送り届けるということは、ある意味で言えば、反政府運動なわけで、自分の属する国家からは迫害されかねない状況にある、ということは理解しえるが、彼の行動を日本人流に置き換えてみると、明治維新の際、西郷隆盛や坂本竜馬が、外国で金を集め、そこで武器を購入し、それを日本に送り込んで江戸幕府を終焉に追い込むという構図になる。
我々、日本人が経験した意識改革というのは、こんなものではなかったわけで、日本全国津々浦々に至るまで、既存の社会の中で意識改革が渦巻き、その混沌の中から近代化された意識が醸成されてきたわけで、文字通り国を上げての上から下まで古い意識が否定されたわけである。
それが一つにまとまるということは、国の規模というものが丁度それに適した大きさであったからであって、それに比べると、中国というのはあまりにも国土というものが広すぎたわけである。
西洋先進国が中国の沿岸地方を蚕食したとはいうものの、それは中国全土から見れば、あくまでも「点と線」の領域に過ぎず、沿岸から遠く離れた地域では依然近代というものとは縁遠い生活が営まれていたわけである。
しかし、自分達の民族がヨーロッパ人やら日本人によって打ち負かされた、と云うことは人づてには聞こえてくるわけで、そういう波が奥地まで浸透するようになれば、自尊心のある人々が憤慨せざるを得ない状況が必然的に沸き上がってくるのも自然の成り行きである。
しかし、そういう意識に覚醒した孫文の三民主義というのは、この当時の中国の土壌にはあまりにも時期尚早すぎた思考であった。
民族、民権、民生という概念は現代の政治にもそのまま通用する立派なものであるが、民族意識の高揚ということは、その中でも最も普遍的な願望に違いなく、これはなんびとにもそのまま理解し得るものであるが、民権と民生という概念となると、国民一人一人の意識が覚醒してこない事には、概念そのものが成り立たないわけである。
そのためには国民の知的レベルの向上を抜きには語れない問題と思う。
近世から近代を通じ、現代に至る過程において、多くの人々が、自分の生地を捨てて異国に移住する事が横行するようになった。
その最も顕著な例がアメリカ合衆国の成立というものであるが、人々が自分の生まれ育った土地を離れ、異国で生活する事を選択するということは、ある意味で民族意識の放棄ともいえる。
それは同時に、主権国家としての主権のあり方にも大きな影響を与えているのではないかと思う。
ヨーロッパというのは、昨今ECというものを形成し、過去の国家主権というものの概念を一新させるような方向に動いているが、人々が自分の生まれた土地を離れ、異国に移り住むということが頻繁に起これば、主権の意味は薄れ、ナショナリズムというものは根底から壊れざるを得ない。
今、この問題を唐突にここで挙げたのは、孫文という中国の革命家が、自分の生まれ育った土地ではなく、異国の地で、革命を遂行しようとした事にたいする疑問が起きたからである。
これは現代にも通用しているが、中国においては、華僑というものが異国で生活していることが周知の事実である。
しかし、この人々にとって、ナショナリズムというものは一体何なのか、という疑問が常に付きまとっている。
孫文が国外に住む華僑の仲間の内を渡り歩きながら、祖国の革命をコントロールし、それが成ったら本国に乗り込む、という思考であったとしたら、それはあまりにも自分の同朋・中国の大地で生活を営んでいる同胞を侮辱する行為であるような気がしてならない。
あまりにもムシが良すぎるように思われてならない。
しかし、そうは言うものの、この孫文の思考を非難する発想、その発想そのものが極めて日本的であり、日本人ならばこそ、そういう行為が自分本意な行為と写るのかもしれない。
こういう発想の違いそのものが、国土の広さに影響されたもの、といえるのかどうかは大いに疑問があるところであるが、人間の考えというものは、その人の置かれた環境によって大きく左右される、ということは普遍的な事だと思う。
ロシアにしろ、中国にしろ、革命、共産主義革命を成した国というのは、ヨーロッパ諸国や日本という国家に比べると、国土の広さという点では問題にならない。
近代化という民族の意識を覚醒するような意識革命の舞台としては、この程度の国が一番ナショナリズムの形成の適しており、ロシアや中国という国は、あまりにも国土が広すぎて、ナショナリズムの形成ということが不可能であったに違いない。
国家が近代化するためには、ナショナリズムというもので、同胞の結束力を醸成するという過程を経ない事には、国家の近代化というものは成り立たなかったに違いない。
その事を踏まえて、孫文の登場ということを考えると、彼の唱える三民主義というものはいささか時期尚早で、中国の人々にとっては遠い遠い夢物語であったに違いない。
三民主義でいうところの「民族」というのは「中国内の諸民族の平等」ということを言っているが、これはその言葉と裏腹に、中国全体を包括するナショナリズムの否定につながるものである。
それを言うならば「諸民族の平等」ではなく「諸民族の自治」を明確に掲げるべきで、その事は同時に中国各地の諸民族の群雄割拠を認めるということになって収拾がつかなくなってしまうことになる。
中国歴代の歴史というのは中央集権と地方の自治の相克がそのまま中国の歴史となっているわけである。
この時、孫文の描いていた「民族の平等」というのは、きっとアメリカ合衆国の州制度のような概念を指していたのではないかと思う。
ナショナリズムというものは、「自分達の民族だけが周囲から抜け出して得をするには如何なるノウハウがあるのだろうか?」という発想のはずで、ある意味で民族のエゴイズムの象徴でもある。
それを国内の民族は皆同じ扱いにするというのでは、ナショナリズムの否定につながるわけで、別の視点で見れば、国際連合の国内版というようなものである。
人類の理想ではあるが、その実現には相当な困難が付きまとうもので、現実の生きた人間の存在ということを無視した発想だと思う。
これは当時の中国の清皇帝の治世というものにたいするアンチテーゼであり、その根底には、清の国家体制というものが、満州を基盤とする民族、女真族で成り立っていた事に対する憤懣の発露ではなかったかと思う。
よって、彼の発想の具現化としてその根底に横たわっている思考には、清王朝の滅亡というシナリオが内包されていたわけである。
孫文の三民主義というのは、1912年の中華民国誕生の時の理念であったが、彼がこの理念を具現化するの為には長い年月を必要としたわけで、しかもそれを中国本土ですることなく外国でしなければ成らなかったところは、気の毒というか、気宇壮大というべきか、言うに云われぬ不可解な所である。
孫文は自分の理念の実現に向けた第一歩を、事もあろうに、ハワイで起こしている。
しかも、日清戦争で祖国が新興帝國主義の日本に惨敗した時、ハワイに居て同志を募っていたわけである。
ハワイで孫文が起こした政治結社は「興中会」というものであったが、この状況を我々、日本人の一人としてどういうふうに解釈したらよいのであろう。
自分の祖国が、新興帝國主義ともいうべき日本、彼ら中国の側から見れば、太古以来何千年と蔑視していた日本、という国と戦争をしでかして、それに負けたという現実を、彼、孫文はどういうふうに見ていたのであろう。
彼、孫文も、清の政治体制の側から見れば反体制であり、既存の国家に反抗する人物なのだから、亡命せざるをえなかった、ということは最も説得力のある説明であるが、そういう亡命者の気持ちを汲み取ろうという仲間がハワイに存在していた、ということはある意味で中国人のしたたかな所だと思う。
その事は、当時すでに、ハワイには政党を組めるほど中国の人々が住んでいたということを証明しているわけで、その事が後になってアメリカの政策にも大きな影響を与える事になったわけである。
アメリカの黄化論の遠因となり、アジア系移民の排斥、排日運動の起爆剤となっていったわけである。
それに反し、我々、日本の側というのは、この日清戦争で勝利を得たと云うことで、その後の日本の生き方を大きく間違ってしまった。
間違ったという云い方は不適当であるかも知れない。
日本という貧乏国が西洋列強の力の前に息も絶え絶えに生き抜かねばならない、という当時の日本のナショナリズムの見地に立てば、間違ってはいなかったかもしれないが、戦後の今日に視点に立てば、アジアの諸民族に対して増長し、彼らを蔑視し、彼らを強引に統治しようとし、彼らの民族としての自尊心を蔑ろにしたという事にしなければ、近隣のアジアの諸国が納得しない、ので間違ったという風にしておかなければならない。
戦後の今日の視点を脇に置いておいて、当時の我々、及び世界基準としての常識から考えれば、我々のしたことは、間違いではなく普通の主権国家ならば当然のことをしたまでであった。
つまり当時の時代感覚を踏まえた極普通の視点に立てば、日本は日清戦争に勝ったので、民族としての自信を付け、近代化に自信をもち、アジアに君臨する事の不遜な発想に思いを致すことを忘れたということが云える。
このときの我々、日本人の思い上がりを一気に粉砕したのが1945年・昭和20年の第2次世界大戦・太平洋戦争の敗北というものである。
しかし、不思議な事に中国の統一というのは、この日本の敗北というものが無かったとしたら未だに成し得なかったに違いないし、今日でも果して中国は統一国家なのかどうか、という点では曖昧である。
中国大陸の中華人民共和国と、台湾の中華民国という二つの国があるわけで、この分裂には、我々日本としては何ら係わりは無いわけであり、彼ら中国人の問題なわけである。
こういう状況下において、孫文が外国に居て革命を唱えるということはどうしても今の我々の認識からすると納得できない。
その後、1905年・明治38年になると日本は日露戦争にも勝ったが、このときにも孫文は東京に居て、「中国同盟会」というものを作っており、それが後に国民党をなっていくわけであるが、孫文の祖国であるべき清という国家体制が青息吐息のとき、孫文らは外国という枠の外からまるで傍観者の如く自分の国を眺めていたわけである。
自分の祖国の政治体制に不満を持ち、それを何とかしたい、という気持ちは理解し得ないこともないが、そのために自分はその渦中に身を置くことなく、枠の外から眺めて、現状を憂いているという構図である。
しかも彼が東京に居たということは、今の言葉に言い換えれば、仮想敵国の中に身を置いていた、という事に成るわけで、この時代を通じて日本と中国というのは常に利害の反する仮想敵国同志であったわけで、その相手方の方に身を置くということは我々には理解し得ないところである。

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