ヤルタ会談、ポツダム会談で、連合軍側は、戦後の処理、戦後は如何なる世界秩序を築くか、という討議で日本とドイツの処分が討議されたが、このとき討議の対象にならなかった地域がある。
それが朝鮮半島であり、この時に確たる話し合いが行われないまま、日本がかって植民地としていた地域が開放されてしまったので、今日の朝鮮の問題があるのである。
朝鮮半島がヤルタ会談、ポツダム会談で討議の対象にならなかったということは、この地が日本の植民地として彼ら西洋諸国の帝國主義としての整合性を認めていたからとも思われる。
ただ日本降服後の扱い方として、日本本来の領土とは、本州、北海道、九州、四国という大雑把な取り決めをしたものの、日本が獲得した植民地については、確たる約束がなかったわけである。
その事はいわばアメリカ、ソビエットにとっても二の次の問題であって、場当たり的に解決すればいい、という軽い問題であったわけである。
アメリカは領土的野心というものが最初からなかったので、さしたる問題はなかったが、ソビエットの方はそう云うわけには行かず、空白の地は何が何でも自分の陣容にいれたかったが故に、それがその後朝鮮半島の戦争となったわけである。
これは極当然な成り行きで、二つの会談で戦後処理を決める段階で、戦後の日本の領域を「4つの島」というふうに決めてしまった以上、かっての日本の領域であったところの朝鮮半島と台湾は宙に浮いてしまったわけである。
そして差し当たり台湾は中華民国に帰属すれば良かったが、朝鮮に限っては独立国として復活するまでの間、アメリカとソビエットが38度戦でもって分割統治せざるを得なかったわけである。
日本が敗戦を受け入れる時点では、まだ満州という国というべきか日本の統治権が存在していた地域があったが、これは文句なくソビエットが占領してしまった。
アメリカとソビエットが便宜的に占有した地域が、その後便宜的ではなく、恒久的にそれぞれに独立したので今日の朝鮮半島の問題が起きてきたわけである。
この問題はひとえに朝鮮民族の問題なわけで、日本は東京裁判で判決が出た時点、少なくともサンフランシスコで行われた平和条約締結の時点でもって、この問題からは解放さたと見るのが本旨であると思う。
日本は連合軍に占領されたとはいうものの、実質アメリカ一国による占領統治であり、その反対にドイツはきちんとした4国の共同管理が実施されたわけである。
日本とドイツの戦後処理というのは、歴然とレールが敷かれ、そのレールに則って処理が成されたが、日本がかって植民地として維持管理してきた朝鮮半島に関しては問題にされなかった。
ここに今日の南北の朝鮮問題が潜んでいたわけである。
この現実を逆の視点から眺めると、アメリカにしろ、ヨーロッパにしろ、朝鮮半島の事など眼中になかった、といったほうがいいように受け取れる。
ただ最初は便宜上アメリカが南半分を統治し、北半分をソビエットが管理するという暗黙の了解の元、それぞれに進駐したものの、北の方から共産主義者が一気に押し寄せてきたものだから、アメリカは慌てて体制立て直しを図らざるを得なかったというわけである。
第2次世界大戦後というのは、アメリカとソビエットは、あらゆる状況下で対立したわけで、その背景にあるのは、スターリンによる領土拡張という野心と、共産主義を世界各地に輸出して、自分の言う事を素直に聞く社会主義国家を作らねばという野望の現れである。
チャーチルの言う「鉄のカーテン」というのは、ソビエットの影響下にある地域においては、内部の情報が一切外に漏れてこないことを揶揄しているわけで、その事自体がソビエットの内部では人権の蹂躙が日常的に行われている、ということの証でもあったわけである。
そういう状況を黙って見過ごす事が出来ない、というのが西側陣営の基本的なスタンスであったが、大戦後の地球でも、このソビエットの共産主義革命というものを未だにユートピアと信じている人々も多々いたわけである。
戦後の日本の知識人も、その幻想に躍らされた人々のうちに入る。
そこが私の追い求めている大命題なわけであるが、第2次世界大戦後の共産主義というものが、各国の人々に与えた影響というのは計り知れないものがある。
あの自由の国のアメリカでさえも、マッカーシズムという形で、赤狩りが行われた事は周知の事実であるが、共産主義というものが、これほどまでに人々に幻惑を与えたという事実は、もっともっと究明されてしかるべきである。
それには戦後のソビエットが、科学技術の面で華々しい成功を収めたことにもよる。
アメリカが原子爆弾の実験に成功したのは大戦中の1945年7月の事で、それは日本に対して使用されたわけであるが、ソビエットは1949年9月にはそれを開発していたわけで、その間わずか4年でアメリカに追いついしまったわけである。
ソビエットはこの自信の上に、アメリカに対しても対等の口を聞くようになったわけで、このパワー・バランスが冷戦構造そのものであった。
米ソともに原子爆弾という核兵器を開発して、それを背景にして、力で主張を押し通そうとするものだから、その軋轢というのは、地球規模で広がってしまったわけである。
米ソの両大国は、それぞれに核兵器の恐ろしさを知っていたので、それはある意味で、脅しとして利用する事に徹していたわけである。
つまり核兵器の抑止力というのは正常に機能していたわけである。
しかし、双方の一般国民の中には、その脅しを真に受けて、核シェルターを本気で考えていた人もいたが、核戦争というのは、それこそ人類の終末戦争になるということを双方が十分に熟知していたと思われる。
これだけ大きな巨大国家ならずとも、国家のシステム、行政システムというものが、あらゆる組織で成り立っているという事は、共産主義であろうと資本主義であろうと同じなわけで、この組織というのはスターリンがいくら独裁者であったとしても、中間の構成員が必要な事は論を待たない。
問題は、国家のトップが核兵器の脅威を認識していたとしても、その中間の管理者が、独断と偏見を持って先走った行為をした場合、国家のリーダーの意思とは関係なしに行為がなされる心配である。
日本が日中戦争に巻き込まれた過程が、まさしくそれであったわけで、国家のリーダーの意思と反対の事を中間管理者が遂行してしまった場合、核の脅威というのは解消されているとは言えない。
きちんと国家体制が確立していれば、早々こういう事態が勃発するとは思われないが、開発途上国でしばしば起きているクーデターというのは、これの変形した形と見なければならない。
だとすれば、こういう恐怖は日常的に転がっているわけで、何時、誰が核のボタンを押すかもしれない。
核兵器というのは、文字通り、人類の究極の兵器で、これを使ったら最後、人類は生き残れない可能性が極めて大である。
よって米ソ両国は、ホットな戦いを始めれば、それがいつ核戦争になるかもしれないという恐怖感から、双方が正面から対峙する戦争は極力避けるようにしてきた。
その代わり、地球規模で米ソの代理戦争というのは頻発したわけで、朝鮮戦争からベトナム戦争、アフガン戦争、中東戦争、アフリカの民族独立戦争等々、それぞれは地域的な紛争の体をなしているが、その本質は米ソの代理戦争であったわけである。
ソビエットが西側陣営に対抗意識を強めた切っ掛けは、唯一の戦勝国であるアメリカがヨーロッパの復興を真剣に考え出したときからである。
ヨーロッパが復興して一番困るのはいわずと知れたソビエットであり、ソ連にしてみれば、ヨーロッパが秩序を回復してしまえば、共産主義の輸出がそれだけ困難になるわけで、それこそスターリンが面白く思うはずがない。
1947年3月、アメリカはヨーロッパを復興して秩序を回復しようとしてトルーマン・ドクトリンというものをぶち上げた。
その内容は、「アメリカの外交の主要目的の一つは、世界の諸国が自由な制度を作れるように援助する事だ。直接あるいは間接的に、侵略による全体主義の押し付けに対して、自由諸国を支援しなければ、世界の平和が危険になり、アメリカの安全が危うくなる」という声明をぶち上げたわけである。
これは真正面からソビエットを非難しているのであって、その根底にはアメリカの国益がヨーロッパの安定に寄りかかっている、ということを認めたことでもある。
それに引き続きヨーロッパ復興計画のマスター・プランとも言えるマーシャル・プランをその年の6月に打ち上げた。
これは「欧州諸国が経済自立の共同計画で意見の一致を見れば、アメリカは援助を与え、支援を与える。それなしには政治的安定も平和の確保もない」というもので、アメリカがパトロンとして金を出すから、ヨーロッパ諸国は協力し合って経済復興をしたまえ、という権威を大上段から振りかざした宣言であった。
しかし、ヨーロッパの方は、何と言われようとも、金をもらわない事には何一つ復興できないのであるから、ここはおとなしくアメリカの言う事を聞かざるをえない。
一人蚊帳の外に置かれ面白くないのはソビエットである。
これに業を煮やしたソビエットは、突然4国共同管理しているベルリンのアメリカ側管轄地域を封鎖してしまった。
いわゆるライフ・ラインを悉く封鎖してしまったわけである。
今ならば人道的見地から見て決して許される事ではないが、ソビエットというのは、こういうことを平気で行う体質がある。
この体質こそ、粛清をはばかることなく行う体質といってもいいと思う。
チャーチルが演説の中で
「鉄のカーテン」という言葉を使ったのが 1946年3月 5日
トルーマン・ドクトリンが発表されたのが 1947年3月12日
マーシャル・プランが発表されたのが 1947年6月 5日
と、立て続けにソビエットを刺激するような声明が出されたわけで、それで頭に来たソビエットは、1948年6月24日、突然ベルリン封鎖を実行したわけである。
対戦中の敵対国でもないのに、ソビエットの取った行動というのは、あたかも自分達が経験したモスクワ包囲とか、スターリングラードの包囲のような事を平和裏に行ったわけである。
これに対し、アメリカはベルリン空輸という手段で対抗し、ソビエットに屈服することなく、自由主義陣営というものを守りきったわけである。
この封鎖は一年近くも続いたが、その間アメリカは間断なく西ベルリン市民の生命線を維持すべく空輸を続けた。
このことは世界中にソビエットの本当の体質というものを知らしめ、逆にアメリカがソビエットよりもより力強いという印象を与える事になってしまった。
第2次世界大戦後のドイツの扱いというのは、日本の占領と比べると、数段と複雑であった。
戦勝4カ国が共同でドイツという国を占領管理するということは、する方もされる側も、ともにその複雑さに辟易したに違いない。
昔の戦争のように、勝った方は負けた方から賠償金を取り立てる事も出来ず、勝ったとはいうものの、戦勝国といえども、完全に疲弊しきっていたわけで、ドイツを維持管理する事さえ重荷になっていたに違いない。
つまり、その事は、既に国家の主権というものが意味を失いかけていたということである。
かっての西洋先進国といえども、フランスだ、イギリスだ、オランダだ、スペインだ、といって主権を振りかざすにはあまりにも疲弊しきっていたわけである。
第2次世界大戦というものが、そういう主権の意味を失わしめる作用をしたわけで、その一方で、米ソという巨大国家が対峙する状況になると、ヨーロッパ諸国というのは、お互いに連合して、危機管理と安全保障を考えなければならない状況が出来あがっていたわけである。
それが1949年のNATO・北大西洋条約であり、米ソというような巨大国家が存在していると、それほど巨大ではない他の国は、集団で防衛をしなければならない状況が出来あがったわけである。
一方ソビエットの側、いわゆる「鉄のカーテン」の向う側・バルト海のシュテッテンからアドリア海のトリエステのラインの向う側は、一応それに対抗する結束を作っては見たものの、もともとソビエット共産主義の隷属下にあるわけで、西側陣営の集団安全保障機構とはその内容を異にしていた事は論をまたない。
そういう状況下で、西側陣営というのは、ドイツをいつまでも占領維持することのメリットがなくなってきたわけである。
先の大戦の原因がドイツにあるとは言うものの、そのドイツを敗北に導いた以上、それに関わり合うよりも自国の再建を優先したかったわけで、監視はするもののドイツの自主自立を承認し合うほうがヨーロッパ諸国にとっては有利という判断が出てきた。
それでドイツというのは東ドイツ・ドイツ民主共和国と、西ドイツ・ドイツ連邦共和国という、分断したままで独立というか自立を承認する事になった。
国が二つに分裂したまま別々の国として生まれ変わるということは、当事者にとってははなはだ不愉快な事であるに違いない。
ドイツと朝鮮では、その状態が半世紀も続いて、朝鮮に関しては今もなおそれが継続しているのであり、それはひとえにその民族の問題だと思う。
国が二つに分かれているのは中国もそうであるが、中国の場合、内部分裂という観があるが、ドイツと朝鮮の場合は明らかに外部の力による分裂で、自らの民族の結束力があれば、すぐにでも統一できそうに思う。
それがそうならないところに人間の業が潜んでいるに違いない。
東ドイツにしろ、北朝鮮にしろ、社会主義を選択したのは彼ら自身の選択であったわけで、彼らは自由な立場、自由な発想が認められず、強制された束縛があったとしても、それを選択したのは彼ら自身の問題であったことは間違いない。
それは同時に、ソビエット連邦の、共産主義の潜在意識としての、革命の輸出の成果でもあるわけである。
ある意味からすれば、スターリンの強欲な領土拡張主義として、独裁者としての犠牲とも言えるが、基本的には民族の選択の問題であった。
これらの民族の基本的な不幸は、戦争が終わった時点で、ソビエットの側に占領された、という歴史的事実に根ざしている。
その後の政治的な選択では、確かに、彼ら民族の欺瞞に満ちた自主的選択で、社会主義国家体制を取らざるを得なかったに違いないが、その前段階として、ソビエットがその地を占領したというところに、その民族の最大の悲劇が潜んでいたわけである。
東ドイツにしろ、北朝鮮にしろ、ソ連が占領した地域というのは、地理的にどうしてもソ連に近いところであったわけで、その事から考えると、これは運命のいたずらとしか言いようがない。
アメリカの側に占領されれば、民族の自主権というものは、ある程度回復する事が期待され、自由主義陣営の側に身を置く事が可能であったが、ソビエットの側に占領されてしまったが最後、民族の自主権というものはソ連崩壊の1991年まで回復されなかったわけである。
北朝鮮などは、その時が来てもなおかつソビエット時代の政治体制を取りつづけているわけで、こうなるとそれはソビエットの踵とは全く関係が無くなってしまって、自らの選択というより他に言いようがない。
ソビエットが戦後このように世界の国々に革命の輸出をしたがるということは、その根底にやはり自らの領土を拡張、拡大したいという願望が潜んでいたからだと思う。
それはまさしく帝政ロシア時代からの民族的な潜在意識であり、共産主義というものが旧秩序を全否定するものであるとすれば、当然、こういうロシア民族としての潜在意識をも否定しなければならないが、この旧秩序を否定するという部分に権力者の我侭な思惑が潜んでいたわけである。
つまり、他人が統治する旧秩序は否定しなければならないが、自分が統治者になった場合には、旧秩序の拡大をしても、何ら憚ることはない、という大矛盾を露にしたのがスターリンの治世であったわけである。
革命以降のソビエットが、戦後アメリカに対抗する力を維持出来るようになった背景というのは、ある意味で共産主義の成果であることは間違いない。
マルクスが「ロシアでは民衆が無知だから革命は似合わない」と言ったにもかかわらず、レーニンはそれを成功させ、レーニンが「スターリンは油断ならない人間だ」と言ったにもかかわらず、スターリンは結果的にソビエットというものをアメリカに対抗する強大国家にまでもってきたことは事実である。
その事は、ある意味で、マルクスの言った「ロシアでは人々が無知だったから」こういう状況を作り得た、という事が言えているのかもしれない。
もし仮にロシアの人々が非常に民主的な政治感覚の人々ばかりであったとしたら、ここに至るまでの間に様々政変、クーデター等が起こり、安定的なスターリン体制というものが維持できなかったに違いない。
スターリンという非情な政治家、独裁者が、政敵を悉く粛清し、弾圧し、シベリア送りにし、強制収容所に追い込んで、後に残ったのはスターリンにとってはイエス・マンばかりであったので、それがアメリカに匹敵し得るような巨大国家というものを作り上げたのかもしれない。
人間としての個人にとっても、栄華盛衰ということは世の習い、世の常であるが、これは主権国家というものにとっても同じ事が言えているわけで、いつまでもこの世の春が続くものではない。
しかし、これは人々の考え方如何で、如何様にも解釈出来るわけで、ソビエットが1991年に解体したということを、共産主義革命の実験の終了と捉える見方と、新たなる民族自決の好機と捉える見方があいなかばして存在する。
ロシアという地域は、第2次世界大戦の前までは、近代化という点でいわゆる西側に比べれば確かに遅れをとっていた。
それを戦後アメリカをもしのぐぐらいの巨大国家にまで持っていったのはスターリンの功績といってもいいかもしれないが、後世の歴史の評価というのは、その過程が問題とされるわけで、人々の歴史の評価というものが、国家の大きさのみならず、その政治体制の中身についても吟味するのが現代の歴史である。
それだけ歴史というものが人間性を重視するようになったわけで、古代ローマのように、貴族と奴隷という階級闘争を内包した主権国家がいくらその版図を広げようが、現代では通用しないようになったわけである。
第2次世界大戦の時、イギリスとアメリカが大西洋上で会談して出来た大西洋憲章というものは、「もうこれ以上版図の拡大はしない」ということが暗黙のうちに決まっていたわけで、主権国家が武力により領土獲得競争をしないということは、貿易を充実して、平和裏のうちに相互扶助の精神で生きていきましょうということである。
その事は、ヨーロッパ諸国はもう帝國主義的領土拡大、植民地主義というものを放棄して、貿易によって足らないものは補い合うということに他ならない。
この考え方のほうが人々の血を流さなくて済むだけ、より近代的な発想に近づいたわけであるが、ソビエットはこういう発想に対しても気が付くのが遅れたわけである。
こういうタイム・ラグがロシアの後進性、ソビエットの後進性といわれるものではないかと思う。
時代の波というのは、じわじわと浸透してくるもので、第2次世界大戦後のソビエットがアメリカと肩を並べられるほどの巨大国家を形作った背景にも、時代の波の浸透という要因も当然あったわけで、問題は、そういう時代の趨勢というものを軍事力の増強にのみ使うか、それとも一般庶民の生活向上にも振り分けるか、の違いでアメリカとソビエットの相違というものが生まれてきたわけである。
冷戦構造の根底は、科学技術の応用の競争でもあったわけで、科学技術というものは、ある意味で時代の波の波及ということも言えるが、それを軍事力の増強にだけに使うか、それとも国民の生活の向上にも役立たせるかどうか、の違いであった。
今日のように情報化の進んだい時代、コミニュケーション技術が進んだ時代になれば、ある時、ある場所で、発見・発明された技術を独占しておくということはほとんど不可能な事で、アメリカが最初に開発した原子爆弾といえども、数年後にはソビエットでも開発されてしまった事を見れば、それは明らかな事である。
ソビエットが最初に打ち上げた宇宙ロケットも、数年後にはアメリカもそれ以上の技術を持つように至ったわけで、この間にはスパイ暗躍もまことしやかに語られたものであるが、スパイの暗躍程度でこうした最先端技術が外国にもれるということはありえないように思う。
スパイが暗躍する前に、こういう最先端技術というものは、一人の個人の独創で出来あがっているものではなく、大勢の人のチームワークで成されていると考えれば、その間のコミニケーションの隙間からほとばしるものと考えた方が理にかなっていると思う。
実際にはこのコミニケーションの隙間にスパイの暗躍があったという事が後年わかってきた。
こういうビッグ・サイエンスというものは、基礎の技術、基礎の科学、素材を作る技術というものがないことには成り立たないわけで、そういうものの広大な裾野の上に脚光を浴びる先端技術があるわけで、その事を考えると、時代の影響というものなしではありえない事実である。
ソビエットがそう言う事を成し得たということは、ある意味でスターリンの功績ということも言える。
政治というものは様々な軋轢なしではありえないわけで、それを外部から批判する事は意図も簡単な事であるが、そうはいうものの、その中に住む人々が、圧制に苦しんでいるという現実を、黙って見過ごすというのも何か割り切れない気持ちがする。
主権国家の内政に外部から干渉する事は、国際社会では許される事ではないが、だからといって、主権国家の主権者は、自分の国の国民に対して何をしても構わない、という論理は成り立たないと思う。
しかし、ソビエットのような巨大国家になると、国の主権者がいくら自分の国の国民を粛清、虐殺、圧制をしようが、外部からは干渉の仕様もないわけで、部外者としては、犬の遠吠えのように、外側からわいわい騒ぎ立てているしかない。
国際社会において、弱小国家がこういう事をすれば、ただちに周辺の巨大国家が干渉に乗り出してくるが、相手が巨大国家だと干渉の手も出ないわけである。
その上、相手が核兵器を持っているとなると、何時、取り返しのつかないようなしっぺ返しが来るかもわからないので、そうそう安易に干渉に乗り出していけない。
主権国家が国際社会を形作っている場面を、一人一人の個人の社会と置き換えてみると、主権というものは、個人の人格に相当するものだと思う。
その個人の性格が気に入らないといって、その隣人が文句をいうことは、言う方の品位の問題ではあり、大勢の個人の集まりとしての社会であるとすれば、悪しき品位の者が紛れ込む事も致し方ないし、仮に紛れ込んでいたとしても、それをどうする事も出来ない。
ところが、ここに隣の者の領分を犯すものがいたとしたら、これは社会全体が騒ぎ出して、その者を排除しようという運動が起きる。
ところがその場合、相手があまりにも巨大な国であったとしたら、社会全体が大騒ぎしたところで、一向に本人を懲らしめる効果が出てこないわけである。
今ここで「隣の者の領分を侵す」という柔らかい表現を使ったが、ソビエットのした事というのは、こんな生易しいものではなく、もろに表現すれば「革命の輸出」ということが言える。
共産主義というものは、今までの従来の思想とは違って、知識人が率先して帰依した宗教のようなもので、従来の宗教であれば、下層階級への浸透が広範囲に広がって、社会全体、集落全体を包含するという発展の仕方をしたものであるが、社会の上層階級であるところの知識人が、大衆よりも先に帰依したので、これは導入の時点で常に統治者側との軋轢が避けれなかった。
既存のピラミット型の社会構造のうちで、中間の知識人階級というものが、共産主義者に帰依してしまうと云うことは、社会構造そのものが空洞化してしまうと言う事で、その空洞化した部分にソビエットというものが入り込んでくるわけである。
従来の宗教においても、必ずしも下から浸透するものばかりとは言いきれないが、上の階層が統治のために宗教を使うということになると、どうしても全体主義乃至は絶対主義に傾くのは致し方ない流れである。
スターリンが30年近くもソビエット・ロシアに君臨し続けたということは、共産主義というものが、この時点で既に宗教化してしまっていたわけで、今の日本の現状に合わせて説明すれば、オウム真理教の麻原彰晃が権力者として君臨していたようなものである。
一般信者と教祖を繋ぐ中間の階層には、立派な大学を卒業した平均以上の人達が大勢いたわけで、崩壊する前のソビエット連邦というのは、このオウム真理教の世界を極限にまで拡大したのと酷似している。
権力者の取り巻きが、権力者をおだてあげて、自らの保身を図る、という構図もまさしく宗教団体の体制と酷似している。
こういう事態というのは、人間の歴史には極ありふれた態様で、人類の歴史を知れば、決して珍しい事ではないが、ここで問題となることは、現代においては統治される側もする側も、情報というものをあまりにも得やすい状況に置かれているという事である。
それは近代の科学技術の進歩というものが、そういう状況を作り出しているわけで、統治される側があらゆる情報に接しやすくなった、ということは自分の置かれた状況に懐疑心を抱くようになるわけで、その懐疑心というのは、統治をする側を批判するという行動に出やすい。
統治されている側が、自分の立場に疑問を持って、統治している側を批判し、その是正を求める行為が存在しうる余地が社会体制の中に有るかどうかによって、民主主義、いわゆる自由主義と共産主義の違いがあるわけである。
米ソの冷戦のさなかにおいて、このことは歴然と存在していたわけで、ソビエットでは、統治する側の批判というものを悉く封殺してしまう社会であったのに対し、アメリカの側は自由闊達に議論をさせたわけで、いくらアメリカ人がアメリカ政府を非難しようが、その事で投獄される事はなかったわけである。
戦後の日本も、アメリカ側の陣営に属していたので、アメリカと同じように、日本の大衆というのは、自分の政府を実に辛らつに批判し、抗議し、ソビエットや中華人民共和国という共産主義国家の利益を代弁して、喜んでいた人がいたわけである。
こういう事態が生まれるその背景になっているのは、やはり情報伝達の技術の発達というものが大きく寄与している事は間違いない。
情報伝達というのは何もテレビやらラジオのみではないわけで、印刷物としての新聞も、冊子も、手紙も、文字による情報伝達ばかりでなく、電話の情報伝達まで、マスコミの手段方法というのは多枝多様に渡っているわけである。
その前に、やはり教育の普及ということも見逃せない条件で、マスコミの発達と教育の普及というものが車の両輪のようにマッチしていたからこそ、人々は自分の政府に対して批判をする事が可能になったわけである。
今までの日本人の論ずる歴史というのは、どうしても政治史に偏りがちで、政治を論ずるときには、その背景としての大衆とか民衆の社会的な立場というものを考慮に入れ、その願望とか野心のある種の具現化されたものが政治であるという認識を持たねばならないと思う。
今までソビエットの共産主義というものを縷縷述べてきたが、彼らが共産主義というものに帰依した背景には、それまでのロシアの人々の苦難の歴史があったに違いない。
同朋がいくら粛清されようが、投獄されようが、それは我が身に降りかかった不幸ではないわけで、あくまでも他人の不幸であって、自分さえよりよい生活に近づければ、それはそれで致し方ないという発想であったと思う。
ところがこういう状況のところにマスコミ二ケーションというものが浸透してくると、「これはどうもおかしい」と思うようになるわけで、人々がそういう疑問を持ち、それを表現するようになると、政府を批判するということになるわけで、そうなれば共産党だけの一党独裁ということも具合が悪くなってくるわけである。
人、いや人類というのは、もともと好奇心が旺盛な生物で、どんな未開な種族でも、大なり小なり好奇心というものを持っているはずである。
マルクスが「ロシア人は野蛮だから革命は成り立たない」と言ったとしても、ロシア人にも好奇心というものはもともと存在しているわけで、それに共産主義革命という社会改革で教育を実施すれば、ますますその好奇心は満たされるようになったわけである。
その事はロシアの人々がそれだけ知識が豊かになったということである。
つまりは、自分の属する社会の暗黒の部分をも覗く事が可能になったわけである。
と同時に、それは人々の生活の向上ともつながっているわけで、情報伝達が盛んになれば、近代科学が隆盛し、その事はたちまち富国強兵にもつながるわけである。
日本も明治維新により、それ以降というものは富国強兵の道をまっしぐらに突き進んだわけであるが、ソビエット・ロシアも共産主義革命というものを成就した暁には、富国強兵という道を選択したわけである。
情報というものは、科学技術というものを級数的な勢いで向上させるが、それを管理しコントロールする方の人間の社会というか、在り方というのは、いわゆる政治の舞台であるが、こちらの方は人間の本性を払拭できないまま生きつづけているわけである。
アメリカもソ連も、原子爆弾、水素爆弾、ミサイルから人工衛星まで、ハードの面では何ら遜色ない競争を展開したが、ソフトとしての政治となると、片や開かれた民主主義と、片や閉塞した共産主義という両極端な選択が残ったわけである。
共産党の一党独裁、スターリンの独裁者としての権力の亡者を比べれば、どちらが統治される側にしてみれば良いか一目瞭然である。
戦後、我々の目の当たりにする情景として、社会主義と共産主義との峻別が曖昧になりがちで、その使い方が曖昧模糊として、歴然と区別して使うことがなくなってしまった。
これは日本の知識人の腰の引けた発想だと思う。
ソビエットの共産主義体制というものが常に革命の輸出ということを至上命題としている限り、我々、西側陣営に属する自由主義体制というのは、それへの警戒を怠る事が出来ない。
ソビエットの革命の輸出、領土拡大の手法というのは、湾岸戦争の時のイラクのサダム・フセインのような露骨な手法は使わない。
あくまでも相手国の共産党および共産主義者を支援する、という間接的な手法でもって乗り込んできて、その後その国の他の政党を粛清なり、投獄なり、抹殺しておいて、その国の共産党に政権を譲るという手法でもって相手国を乗っ取るわけである。
アメリカの良心では、このソビエットの革命の輸出の手法、およびそのテクニックが何とも気に障るわけで、アメリカにしてみれば、自分は領土的野心はさらさらないにもかかわらず、ソビエットが自由主義陣営を蚕食することに我慢がならなかったわけである。
例えば、アジアのある国が自由主義で行こうが共産主義で行こうが、それがその国の人々の自由意思で決まればアメリカは何ら関与する気はないと思われるが、その国がその選択のときに真の自由意思ということが確実に判明しないものだから、いろいろな憶測が飛び交い、米ソの代理戦争が起きるわけである。
例えば、ベトナムの場合でも、ベトナムの人民大衆というのは如何にも政治的に未熟な人々であり、それを近代化しようとすれば、インテリ層で理論武装された共産主義者と、旧来の土俗的な政治感覚の人々では軋轢が生じるのは致し方ない。
そういう状況下で、ソビエットや中国が裏から北ベトナムの共産主義者を支援すれば、アメリカとしてはいかに旧態依然たる政治感覚の南ベトナムであったとしても、共産主義のドミノ倒しを阻止するためには、南ベトナムの堕落した政治家でさえも支援せざるを得なかったわけである。
この未開発で、時代に取り残されたような国家を、共産主義から守るということは、崇高な理念だと思う。
確かに、自らの国の政治体制を如何に維持するか、という問題はその国の国民が選択すればいいことであるが、それが全くの自由意思でそうなれば、それこそ民族の自主権であり、民族自決の徹底である事は論を待たない。
しかし、そこに民族自決を支援するという形で、共産主義者が他の政党を圧迫し、特に共産主義というものが革命を信条としている限り、人を殺す事に全く罪悪感を持たない政治政党が、他の政党を足蹴にして、自分が不利だと思うとソビエットという共産主義の本山に支援を依頼するという状況であってみれば、アメリカとしては如何に土俗的な政治感覚の政権をも梃子入れせざるを得ない。
そうする事がアメリカの国益にもつながるわけで、その泥沼に嵌まり込んだのがベトナム戦争であったわけである。
ベトナム戦争華やかりしころ、日本人の中で、アメリカのベトナム戦争に反対して日本国中でデモ騒ぎを引き起こした連中がいるが、彼らは心からソビエットの利益を代表していたわけで、ソビエットの宣伝を全く鵜呑みにして、あの時代においてはソビエットが「善」でアメリカは「悪」と思い違いしていたわけである。
こういう思い違いがあったとしても、それを食い物にする事が出来る日本の状況というのは、まさしく能天気な国である。
当時の日本というのは、アメリカの核の傘の下に身を潜めて、経済成長にのみ心を奪われていたわけで、それがバブルとして消し飛んでしまった今、後に残ったのは、空虚な世紀末の青少年の存在のみである。
米ソが冷戦のさなかに、身と心を削るような心理戦を展開している最中に、日本は物作りと物売りに徹し、唯我独尊的な楽園を築き上げたわけである。
しかもこの繁栄には、民族の心から出た誇りというものがないので、所詮は、砂上の楼閣に過ぎず、米ソの冷戦が解消して、双方が協力し合う状況になれば、馬脚が出ることは必定で、それが今現在の日本の姿だと思う。
今、教育界で学級崩壊などと騒がれているが、それもこれも民主化という大義名文の元、既存のルールを否定し、古き日本の生き様というものを否定してきた結果である。
私の生涯のテーマは、共産主義の影響というものの追求であるが、今今日の日本の精神風土の中では、この共産主義の風潮というものを拭い去る事は不可能な状態に陥っていると思う。
教育を明治時代のような封建制度の延長に戻せというのではなく、戦後50年以上も経過したのならば、そろそろ日本独自の民族の潜在意識に根ざしたものの考え方を探し出す時期にきているのではないか思う。
戦後のアメリカ進駐軍による占領というのは、我々にアメリカン・デモクラシーというものを教えたかに見えたが、それが何時の間にか、共産主義者の独壇場と化してしまったわけで、アメリカン・デモクラシーと共産主義というものは、あい通ずるものが無いに等しいにもかかわらず、日本ではそれがオーバーラップしてしまって、未だに日本国憲法さえ改正できないでいる。
共産主義に近い人々が、アメリカの押し付けた日本国憲法を改正する事に反対し、共産主義と正面から戦っている人が、それの改正を願望する、というねじれ現象が起きている。
その中間に、事を荒立てる事の嫌いな日和見な人々が介在しているわけで、その結果として、占領の屈辱を内包したままの日本国憲法というものが生き続けている。
この状況というのは、民族自決という理念からすれば大いに間違っている事で、誇り高き民族であれば、自らの憲法は自らの力で作り上げるのが普通の在り方だと思う。
その意味からして、我々、日本民族というのは、普通の民族ではないといえる。
こう云う言い方をすると、「それならば我々は普通の民族でなくても良い、世界で特殊な民族で結構である」、と云う反論が出るが、こう云う反論そのものが、共産主義的発想から出ているわけで、彼らにしてみれば、他の人々の事は二の次で、とにかく共産主義者だけが利益をこうむれば、それで良いわけである。
この発想そのものが戦後の日本の思想体系の中に脈々と流れているわけで、それはデモクラシーという環境の中でしか生きていられない寄生虫のようなものである。
冷戦中のソビエットで共産主義に異を唱える発言が出来えたであろうか?
それは歴史が証明している。