共産主義・その7 冷戦構造 平成11年8月21日
第2次世界大戦というのは1945年5月にドイツが降服し、その三ヶ月後の8月15日に日本がポツダム宣言を受諾して終わった。
この世界大戦というのは、地球規模でホットな戦争がいたるところで行われ、地球上のいたるところで砲弾が飛び交い、日本においては原子爆弾という人類の究極の兵器で攻撃されて終わらざるを得なかった。
この究極の兵器の出現で第2次世界大戦以降というのは、いわゆる、ホットな大規模な戦争というのはし得なくなった。
だからといって武力の行使が全く無くなったわけではなく、小規模な諍いは数限りなく行われたが、地球規模であらゆる主権国家を巻き込むような形のホットな戦争はなくなった、というだけのことである。
しかし、その意味からすると、原子爆弾、核兵器というものの戦争抑止力というものは有効に作用したといえる。
第2次世界大戦後というのは米ソという二大巨大国家の出現をみた。
その第2次世界大戦というのは、ドイツがポーランドに侵攻したことから始まったけれども、これはもともとヨーロッパの戦争であった。
このヨーロッパの戦争とアジアで起きていた戦争が合体してしまったのが第2次世界大戦であったわけで、そうなった原因は日本にある。
日本がアメリカの真珠湾を攻撃してしまったので、ヨーロッパの戦争とアジアの戦争が一つになってしまったわけである。
もっともその前に日独伊という三国連盟の存在というものがヨーロッパの先進国に脅威を与えており、尚且つドイツが戦端を切ってしまって、そのドイツと我々が同盟を結んでいたということも遠因といえば言える。
しかし、これをアメリカの立場で眺めてみると、アメリカは大西洋と太平洋という両面で戦いを挑んだ事になる。
それでいてアメリカ本土は戦場にならなかったわけで、なおかつ領土を増やしたわけでもない。
ドイツが最初ポーランドの攻め込み、ソビエット領内に深く攻め込んだとき、ドイツとしては自分の領土を大きくしたい、という願望を持っていたはずである。
日本が中国に武力進出した理由も、ドイツと同じ発想であったことは間違いない。
ドイツも日本も、ともに人口の割に領土が狭く、国民により豊かな生活を保証するには他国の領土を分捕るほか生きる道がない、という発想が根底にあったことだと思う。
いわゆる帝國主義と言われるもので、人類の過去の長い歴史を見てみると、こういう発想が必ずしも「悪」ではなかった。
むしろ民族の発展にはそれは「善」でさえあったのである。
それが「悪」と認定されたのは、第2次世界大戦の戦勝国が敗戦国の首脳を裁いたときの判決理由として、そういう事が理由付けされてからの事である。
人が人として集団で社会を作り、集落を作っていたとき、食料が減少して、集団が維持できず、自分達の仲間がこれ以上生きてはおれない、という状況に陥ったとき、隣の集団に「食料を分けてくれ」と言ったとして、相手が素直に聞き入れてくれれば武力衝突というのはありえないが、そういう状況のときは隣の集団、集落も同じような状況に陥っているわけで、ただでは食料を分け与えることは出来なかったに違いない。
結果として戦争という事になるわけで、戦争である以上、勝ったほうは常に善であり正義であり、民族を飢えから救った救世主であったわけである。
よって、自らの属する民族を常に飢えの心配をさせないためには、兵器、武力を維持し、戦う手法、ノウハウを常に研究し、他の民族から屈服させられないように、用意万端整えておく事が種族、乃至は民族のリーダーの勤めであったわけである。
ところが近代に至り、人々が文化的になると、こういう単純明快な自然の節理に疑問を持つようになった。
人の歴史的推移の或る視点から見ると、人が知性とか理性というものに目覚めるに従い、自然の摂理に反する論理が正当性を持つようになってきたのが近代から現代の知識人の発想である。
話し合いで事が解決するというのは、あまりにも不自然な発想で、利害が全く相反するもの同志が話し合っても答えは出ないに決まっている。
答えが出るとすれば、それは妥協という敗北を認めるからであって、双方が自分の利益だけに固執すれば、妥協は成り立たないわけである。
第2次世界大戦の前、日本もドイツも、ともに近代化に立ち遅れ、イギリス、フランス、アメリカという先進国に一歩遅れをとっていた。
それは即ち帝國主義的植民地獲得競争に遅れをとっていたわけで、その意味からすれば、ロシアも遅れを取っていたはずであるが、ロシアに限っては、共産主義者がこういう帝國主義的植民地主義というものを否定していたがため、ドイツや日本と同列には語れなかったのである。
そして世界大戦の結果として、ドイツと日本は敗北をきしたわけで、勝てば官軍負ければ匪賊というセオリーに屈せざるを得なかったわけである。
ドイツにしろ我々日本にしろ、生んがために中国やポーランドに侵攻したといっても、勝った相手、つまり連合国側はその言い分を聞く耳を持たなかったわけである。
問題は、人類というものが、それぞれに集まって、主権と称する国、国家という枠組みで、自分たちを自主規制するところにある。
もともと地球上には国境などというものは存在していなかったにもかかわらず、人々が主権というものを意識し出すと、この国境というものは紛争の鍵になってしまった。
この国境の中の人達は、自分たちと苦楽をともにする同胞であり、その内部においては、お互いに助け合わなければならないが、その外側に住む人々というのは、いずれ自分の仲間を圧迫するに違いない敵と見なしていたわけである。
国境を挟んで内側と外側では全く利害が反するという概念が出来上がってしまったわけである。
それだから国土を大きくする事は、それはそのまま内部の人間を扶養する能力が向上する、という発想になったわけである。
これが帝國主義の根本のところにある思想であるが、それの実践において、イギリスやフランス、オランダはドイツを差し置いて一歩先んじてしまったわけである。
だからドイツがそういう思考を実践しようとした段階では、もう余白がほとんど残っておらず、地元のヨーロッパにおいては、ヨーロッパの既存の秩序を乱すことによって、そういう領地を広げなければならない状況であったわけである。
その事は、イギリスやフランスにとって見れば大迷惑な話で、連合してドイツと戦わなければならなかったわけである。
で、その結果として、ドイツは敗北し、ドイツはイギリス、フランス、アメリカ、ソビエットと4カ国で管理される事になったわけであるが、この4カ国のうちで、ソビエット連邦というのは共産主義革命を成した社会主義国とは言うものの、その意識は一向に民主的ではなく、時代遅れの帝國主義に凝り固まっていたわけである。
そもそも共産主義と帝國主義というものは相容れないものであるが、共産主義者が天下を取ってしまえば、従来の世襲化した封建君主と同じ発想に陥ってしまい、領土というものは無いよりは有った方が得だ、という思考に陥ったわけである。
第2次世界大戦というのは、その前半においては、ロシアの大地が主戦場であったわけで、ソビエットがドイツを占領したといったところで、ロシア人の流した血の量で云えば、ドイツをソビエット領にしてもなお足らないぐらいと思っていたに違いない。
ソビエットがこの戦争を大祖国戦争というのもうなずける。
ソビエットはこの戦争でドイツに勝ったとはいえ、国内の状況は惨憺たる状況で、戦勝国とは云え瀕死の重症という有様であった。
それはソビエットばかりではなく、イギリスも、フランスも同じで、勝ったとはいうものの、かろうじて生き延びたという按配であった。
とは言うものの、このヨーロッパの戦後の処理に関しては既に1945年のヤルタ会談でその輪郭が出来あがっていたわけである。
そして、このヤルタ会談の時点では、アメリカの大統領というのはまだルーズベルトであったが、彼が4月に死んでしまったので、アメリカの大統領がトルーマンに代わってしまった。
その後で行われたポツダム会談では、アメリカを代表したのはトルーマン大統領であった。
ルーズベルトというのは前にも述べたように、非常に人種差別意識の強い人間であったが、トルーマンというのは反共意識の強い人間であった。
ヤルタ会談というのは、主にヨーロッパの戦後処理を主な討議課題としていたが、ポツダム会談というのは、日本に対する戦後処理が主題であったわけである。
この二つの会談においてアメリカはソビエットの対日戦参戦を強力に促している。
ヤルタの時はアメリカ代表はルーズベルトであったが、ポツダムの時はトルーマンであった。
ソ連を対日戦に引き込む事をめぐって、この二人のアメリカ大統領が係わったが、この両者の違いは本人の生い立ちが大きく影響しているような気がしてならない。
ルーズベルトというのはいわゆる富豪の出で、お坊ちゃんらしくお人好しの所があるが、トルーマンというのは、その逆で、苦労して地位を獲得したため、政治的経験を豊富につんでいたわけである。
その経験とは長い議員生活の中で、政治のノウハウと共産主義の本旨というものを見抜いていたと思われる。
よってその経験からソビエットというものを買い被ることなく、冷静な視点と判断力を身に付けていたように思われる。
その後の彼の政治において、日本占領中に起きた朝鮮戦争ではマッカアサーの拡大方針をきっぱりと封じ、日本の日中戦争のように政府の不拡大方針を無視して独断専行しかけた出先の行動を完全に封じ込めるという手腕を発揮している。
まさしく民主政治の典型的な規範というか、シビリアン・コントロールの模範を示したわけである。
戦後の冷戦というのは、このトルーマンの毅然たる反共思想がなさしめたということも云えるが、20世紀の歴史を振り返って見ると、それは正しい判断といわなければならない。
第2次世界大戦後の米ソの反目は、戦争を遂行した連合軍側において、アメリカの大統領がルーズベルトからトルーマンに変わったところに、その遠因があったように思える。
ルーズベルトというのは、共産主義国家ソビエットというものをかなり甘く見ていた節があるが、トルーマンというのはシビアな目でソビエットというものを見ていたに違いない。
第2次世界大戦の全期間を通じて、アメリカ一国のみが国土が戦場になることもなく、連合軍の兵站を担うことで国内の景気もすこぶる好調であったわけで、戦後は名実ともに世界の超大国になってしまったわけである。
戦後も50年以上、およそ半世紀以上も時が経つと、昔の事がおいおい暴露されてきて、日本でも731部隊のことや、内務省の特別高等警察の内情が暴露されているが、ヨーロッパでも同じような状況を呈している。
しかし、戦争に対する処罰というのはヨーロッパではニュールンベルグ裁判で一応の決着を見ており、日本ではいわゆる極東国際軍事裁判で関係者は一応の処罰が成されている。
いわゆる解決済みということである。
当事者や関係者、一般市民が納得しようがしまいが事は決裁されてしまっているはずである。
戦争に勝った側が、勝った側の論理で、負けた側を勝手に裁いたわけで、それは当然「勝者の論理」であったわけである。
第2次世界大戦というものが、従来の戦争と格別な相違があるとすれば、それは兵器の格段の発達である。
その最たるものが原子爆弾の開発であったわけで、アメリカがこれを開発した事により、ソビエットは心理的にかなりの恐怖感にとらわれたに違いない。
ソビエットがヨーロッパでドイツを打ち負かしたとはいうものの、国内の状況は惨憺たる状況で、とても戦勝国とは言えないところに持ってきて、片一方の雄としてのアメリカは、原子爆弾を持っているという事になれば、ソビエットとしては戦後を安閑としておれない状況であった。
そういう背景があるからこそ、自分が支配権を確保した地域というのは、何が何でも自分の陣営に止めておかなければならない、という信念にとらわれた事と思う。
それともう一つ見落としてならないことは、スターリンという男の性格である。
スターリンという人物は、ロシア革命を成功させたレーニンでさえ懐疑的な目で見ていたほどの極悪人であったわけで、こういう人物が国家の首脳としてソビエットという国家に君臨していたわけで、彼はヒットラー以上の独裁者であった。
それがため、共産主義というものは本来もっともっと民主的な機能を持つべき思想であったものが、彼が党の頂上に君臨していたがため、絶対主義、全体主義に成り代わったしまっていた。
スターリンが政権の座についたのが1922年の事で、日本の年号に直せば大正11年の事である。
スターリンは第2次世界大戦までの間に、ソビエット領内において五ヵ年計画を推し進め、ある程度はソビエットというものを西洋先進国並の近代化を実現したという功績はある。
しかし、その過程において、共産主義者の帝國主義的領土拡張に血道を上げたということも忘れてはならない。
その絶好の例がバルト3国の併合という事で、彼の領土拡張の手法というのは、軍事力を背景とした恫喝外交で、弱小の隣国を次から次へと自分の陣営に引きずり込んだわけである。
我々、戦後の日本人というのは、平和を唱える事にかけては人後に落ちないが、平和というものは、力とナショナリズムの背景がない事には成り立たない事をこのバルト3国は身をもって提示したわけである。
武力抗争を嫌うあまり、「話せば解る」ということを金科玉条にしているが、話しても通じない場合がこの世にはいくらも存在するわけで、その良い例がソビエットのバルト3国併合という歴史である。
このソビエットの行為に対して他の西洋諸国が黙ってそれを容認したということは、彼らにしてみれば、このバルト3国というものに価値を見出していなかった事と同時に、より善意に解釈すれば、主権国家の行為に干渉しない、というある種の逃げでもあったわけである。
バルト3国というのは、ドイツが行った電撃作戦のように、先に軍事力でもって攻められたわけではない。
「言う事を聞かなければ占領するぞ」と脅かされただけの事で、その脅しに屈服しただけの事であって、その選択は支配された側にあったわけである。
あくまでも「話し合い」で併合されたわけで、「話し合い」で事を解決するということは、こういうことである。
で、そういう事を平気でするソビエトのスターリンを、片一方のドイツのヒットラーは如何にして屈服させるか、というのが彼の命題であったわけである。
スターリンのバルト3国併合が1931年の事で、ヒットラーとの不可侵条約の締結が1939年の事である。
この歴史を俯瞰してみると、スターリンというのは国際関係において、全く誠意というものを信じていない。
いわゆる「自分さえ得をすれば後はどうなっても構わない」という態度と意志が見え見えであったわけである。
ルーズベルトはこれに気付いていなかった。
チャーチルは途中で気が付いたが、気が付いたときは既に自分の政治生命が終焉しかけており、トルーマンは反共主義であったが故に、最初からスターリンを信用していなかったわけである。
このいう視点でスターリンという人物を見てみると、日本の共産党も、中国の共産党も、彼の眼中には全く目にとまっていなかったわけで、彼もルーズベルト並に、人種差別主義者であった事がわかる。
第2次世界大戦が終わってみると戦勝国というのはアメリカ一国のみで、他の西洋先進国の悉くが完全に疲弊してしまっていたわけである。
そこにもってきて、ソビエット連邦というのは、自分さえ良ければあとの事は知らぬ存ぜぬ、とばかり貪欲な領土的野心をちらつかせていたわけである。
その上、ソビエット領内においては、五ヵ年計画が順調に遂行されているかに見えていたが、これには裏があって、裏の部分では、大量の自国民の虐殺が存在していたわけである。
スターリンが政敵を悉く粛清するということは、詰まるところ殺してしまうということであったが故に、ソビエット領内では、ささやかな理由で人々が意図も簡単に殺されていたわけである。
このことは、ソビエットにとっては公開されたくない事実であったわけで、それがため、それが外に漏れることを極度に警戒した。
そのために数多の人間がまたまた虐殺の憂き目に合う状況があったわけで、それを称してチャーチルが「鉄のカーテン」という言葉を呈した。
チャーチルのこの言葉は1946年3月6日、政権の座を下りた彼がアメリカに招かれて、ミズリー州のフルトン大学における講演で、
「戦争の勝利で明るくなったばかりのところに今や一つの影が落とされています。
バルト海のシュテッテンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが落とされています」という演説であった。
このカーテンの向う側に東欧諸国が全部内包されてしまったわけで、これを自由主義陣営から見れば、共産主義の自由主義陣営への蚕食とうつるのも致し方ない。
ある意味で、共産主義、および共産革命の輸出という風にもとれるわけで、この状況をアメリカとしては危惧したわけである。
ソビエットが東欧・東ヨーロッパに共産主義革命を広げようという意図の元には、その時の東欧というものが戦争の惨禍で荒廃して、国力が疲弊していたという状況もあったに違いない。
ソビエットも同じように荒廃してはいたが、東欧諸国も2度の大戦で極限にまで疲弊していたわけで、それはソビエット国内の内乱とも状況を異にしていたため、そういう状況を利用して一気に版図を広げたいというソビエット、いやロシアとしての潜在意識がなさしめたといってもいいと思う。
ロシアという国、民族は、太古から南の地域に進出したい、という潜在意識を持ったいたわけで、19世紀以降の世界の歴史というのは、皆その影響下にあったわけである。
ただ旧ロシアにおいては、その国土があまりにも広範囲にわたっていたので、一人の専制君主、ニコライ皇帝一人では、収拾がつかなかっただけで、それがスターリンという独裁者になると、兵器の近代化と、政敵を抹殺するという荒っぽい手法でもって具現化し得る状況になってきたわけである。
第2次世界大戦が日本の降服でもって完全に終了したとき、スターリンは北海道の分割占領を目論んでいた事は周知の事実であるが、これはトルーマンに阻止された。
こういうことを考え付く事自体、トルーマンに嫌われる原因でもあったが、その考え方というのは、共産主義というものが、それを操る人によって如何様にも好き勝手に解釈出来る、という事に他ならない。