その6 ヨーロッパ戦線

老獪な外交

彼らから見て、アジア人といえば、真っ先に中国が視野にはいるわけであるが、20世紀初頭の中国というのは、まさしく混沌としており、少し戦争を仕掛ければすぐに植民地が出来上がる、全くの未開の地であったわけである。
アメリカ大陸のインデアンと同じように写っていたに違いない。
そういう認識の中に、アジア人の中で、日本だけがヨーロッパ人を凌駕しかねない勢いで近代化を成し、その成果をものにしつつあるように見えたので、彼ら、ヨーロッパ人というのは一斉にジャパン・パッシングをしだした。
その仕掛け人がアメリカのルーズベルトであったわけで、彼の提唱したABCD包囲網という構想で、我々は太平洋戦争という罠に嵌められたわけである。
戦後の我々が歴史から何事かを学ぶとしたら、我々の先輩諸氏が何ゆえに西洋諸国を見下し、中国の大衆を見下し、アジアの人々を蔑視したのか、という点を大いに反省し、考察し、その根源的理由を追及し、再び同じ轍を踏まないようにすべきだと思う。
昔から「孫氏の兵法」としてよく言われているように、「己を知り、敵を知るものは百戦危うからず」という言葉の通り、己を知る事が基本の中の基本であるが、戦前の日本人というのは、この己を知るという事をまったく侮っていたわけで、そこにルーズベルトの罠に嵌る要因があったわけである。
我々、戦後の日本人の思考の中には、このルーズベルトの罠に嵌められたという発想が微塵もない点が心配である。
太平洋戦争というものを第2次世界大戦の一部として見るのではなく、全く別の視点で見てみれば、これはアジア人とヨーロッパ系白人との戦いであったわけである。
しかし、大枠としての第2次世界大戦という枠組みで見たとき、我々はドイツとイタリアという近代化の落ちこぼれと団子3兄弟を組んだところに日本の選択の過ちが潜んでいたわけである。
ヨーロッパの中での近代化の落ちこぼれ諸国と手を組んだ、ということは我々、日本の当時の政治家の思慮の浅いところであった。
こういう思慮の浅い判断をした、というところに我々、日本人の西洋に対する不見識が潜んでいたわけで、そのことは、我々は近代化の猿真似で、ヨーロッパに少しは近づいたと思っていたけれど、ヨーロッパの本質というものをいささかも理解していなかった、ということに他ならない。
ヨーロッパを理解するということは、本質的にキリスト教文化を理解すると言う事である。
そしてそれはヒットラー、ルーズベルト、スターリンとかチャーチルという、ヨーロッパのものの考え方を理解することなく、時の勢いに騙され、目がくらみ、派手な行動に幻惑されて、一番底の浅い線香花火的な第3帝国を日本の拠り所として選択してしまったところに、我々の過誤が潜んでいたわけである。
彼らヨーロッパの政治家としての巨匠達は、実にしたたかである。
条約を裏切るなどということは朝飯前で、条約を守るという発想よりも、条約を締結することで相手の動きを封じる、という発想である。
これは東洋人と西洋人の契約というものの発想の相違ではないかと思うが、我々は約束というものはお互いに相手を裏切らないように信頼し合うべきものと思っている。
ところが、彼らにしてみれば、相手の行動を束縛しておいて、約束外のことなら何をしてもいいという発想である。
この発想の違いは、そのまま西洋人の東洋人に対する蔑視につながっているわけで、彼ら自身、自分は東洋人を蔑視しているということにほとんど無意識のままである。
主権国家と主権国家の関係はいわば個人と個人の関係に等しい。
国際社会と個人の属する地域社会というものはほとんど類似の形態である。
個人と個人の関係においては信義が大事にされ、人に迷惑をかける行為というのは、周囲から忌み嫌われる。
そして個人と個人の考え方というのは、お互いに干渉されずに、隣人が如何なる物の考え方をしていようが日常の生活にはほとんど関係の無いことである。
しかし、隣地との境界を巡るいさかいはしばしば起こるが、これとても話し合いで処理しうもので、血で血を洗うほどの殺伐とした争い事は極力避けるものである。
ところが、これを主権というものをもった国家同志の立場に置きかえると、こんなわけには行かなくなる。
隣人が何を考えているのか常に気に掛かり、あろう事かそれに干渉しだし、隣人の考え方に関与してくるし、その反対に自分の考え方を他人、隣人に押し付け、自分と同じ考え方を強要してはばからないのが、国際社会という主権国家同志の集まりである。
第2次世界大戦というのは基本的にヨーロッパの戦いで、ドイツとソビエットの領土分捕り戦争であったわけである。
日本がこの戦いに巻き込まれたのは、ルーズベルトの老獪な計略に嵌り込んでしまったからにほかならず、このヨーロッパの戦いにおいては、ドイツ、イタリアの枢軸側と、イギリス、フランスの連合軍側の戦いであったが、連合軍側が断然不利であったわけである。
ところがここでヒットラーがソビエットに戦争を仕掛けてしまったので、アメリカが乗り出してきてしまったわけである。
アメリカというのは不思議な立場で、第1次世界大戦でも、第2次世界大戦でも、自国が戦場になったことが無い。
新大陸といわれるだけあって、この地に入植した人々というのは、国を作るまでの間にあらゆる戦いを経験してしまったせいか、その後の近代化の過程では、自国を戦場にする戦いというのは不思議と存在していない。
これは明らかにアメリカと言う国の国内の政治がしっかりしていると言う事であると思う。
地方自治と民主政治というものが、車の両輪のように、きちんと噛み合っているからに違いない。
アメリカ合衆国というものが独立を得るまでの間は、様々な小競り合いが各地で展開していたが、それが主権国家として体を成した以降というのは、そういうものが一切無くなったということは案外特筆すべきことではないかと思う。
アメリカの対極にいるソビエット連邦というのは、国家の体裁として、その理想の姿というものを、アメリカ合衆国においているのではなかったかと思うが、現実の姿というのは、それとほど遠いところにいたわけで、アメリカ合衆国の安定した国家の姿というのは研究に値するものと思う。
国家が安定しているから、その分余計に隣国の治安に干渉したくなる、という心理も分からないではない。
しかし、これもヨーロッパ人固有の政治の手腕、外交の手腕であり、ヨーロッパの政治家というのは、アメリカという主権国家を案外自分たちの国益追及のために利用している節がある。
ルーズベルト大統領は、最初第2次世界大戦に関しては中立を表明していたが、それがイギリスのチャーチルと会談したとたん、ドイツに参戦したわけで、これはチャーチルがアメリカを連合軍側に引きずり込んだと見なしていいと思う。
アメリカにはもともとモンロー主義というものがあり、ヨーロッパの諍いには関与したくない、という深層心理があったが、ヨーロッパの老獪な政治家,外交官は、そういうアメリカを諍いの場に引きずり込んで、自分たちの国益に貢献させたわけである。
アメリカを第2次世界大戦のヨーロッパ戦線に引きずり込むことで、イギリスも、フランスもドイツの矛先を封じることが可能になったわけであり、アメリカがあくまでもモンロー主義を建前に、戦線に入ってこなかったとしたら、イギリスはドイツに占領されていたに違いない。
ソビエットもアメリカの武器貸与が無かったとしたら、あのまま占領されつづけ、反撃できなかったかもしれない。
このようにヨーロッパの連合軍というのは、アメリカという国を味方に引き入れたことにより、兵站の憂いが無く、枢軸側と戦うことが可能になったわけである。
ヨーロッパの老獪な政治家というのは、こういう風に、アメリカという国を見方に引きずり込むことにかけては実に老練な外交手腕を持っていたわけで、その意味からすると、東洋人というのは最初からアメリカから信頼はされていない。
東洋人を信頼していないのはアメリカばかりではなく、ヨーロッパそのものがアジアの人間を信頼することなく、ヨーロッパ人として都合の良いときだけ、アジアの人間を利用するという発想である。
そういうヨーロッパ人といえども、主権と主義主張が異なると、お互いが騙し合いを繰り返しているわけで、スターリンはルーズベルトからドイツと戦うための武器を貸与されていながら、アメリカの寝首を掻くことばかり考えていたわけで、その根底にあるのは、領土の拡張しか目が無かったわけである。
スターリンを国家の主人として仰ぐソビエット連邦という共産主義国家というのは、帝國主義を打倒して成り立っているにもかかわらず、それが国家としての行為となると、帝國主義そのものを具現化していたことになる。
世界の賢人は、この矛盾を本来もっともっと指摘しなければならなかったはずであるが、それを言う段になると、主権国家の内政干渉という口実でもって、ソビエットの横暴を甘受してきたわけである。

人の生存に内包された矛盾

我々、日本人の外交音痴から見れば、大戦の時には武器の供与までされたソビエットとアメリカの仲ならば、双方にもっともっと共存共栄の努力が成されて然るべきだ、と思えてならないが、そこに主義主張の相違が絡んでくると、昔の戦友が嫌悪の対象となってしまったわけである。
これを大局的な立場で俯瞰して眺めてみると、ソビエットの方が自らの国情を秘密にしなければならないことが多かった、という点から、情報の公開を渋ったことに遠因がある。
つまり、スターリンの5ヵ年計画などが思うような成果を出していないので、それを公表することにソビエットの自尊心が邪魔したわけで、それに加えもう一つ公表できない理由がソビエット側には潜んでいた。
それはソビエット内における人民の抑圧を暴露されることを恐れるあまり、情報が外部に漏れることを極度に恐れ、秘密のベールに包み込んでしまったので、外側にもれ出るソビエット連邦の真意というのは、帝國主義的な領土的野心のみが目立ったわけである。
ソビエットの内部で行われた人民の抑圧というのは、基本的に共産主義社会には存在しえない行為、有様、態様のはずのものが、現実の共産主義の社会にも歴然と存在する、という大矛盾に対する焦りであり、ジレンマであったわけである。
資本主義で自由主義経済の西側陣営では貧困が存在し、恐慌で経済は大混乱をきたしているが、共産主義の社会主義国では、そういう恐れは一切存在せず、人々は嬉々として労働に勤しみ、国家の方針に従順に従っている、という理想としての国家像をぶち壊しているので、そういう現実を西洋諸国には見せてはならない、という思考に陥っていたわけである。
ヨーロッパという地域は、第2次世界大戦では実に過酷な運命を背負わされていた様に思う。
べネルック3国、ルーマニア、ポーランドという国は、ドイツの侵攻の経路にあたり、その後ドイツの撤退の経路になると同時に、ソビエットの反撃の経路にあたり、その度毎に国内を双方の軍隊がこれらの諸国を蹂躙していったわけで踏んだり蹴ったりという表現でも追いつかないほどの悲劇の場所に違いない。
そこの住んでいた人々の心境というものが、如何なる憤慨の心に満ちているのか、我々には想像もつかない。
戦いが終わってしまえば、これらの地域はソビエットの影響下に置かれてしまい、共産主義者がこの国を欲しいままに統治していたわけで、そのこと自体が共産主義の打倒すべき帝國主義的民族抑圧になっていたわけである。
こういう矛盾の指摘を彼ら共産主義者は極度に嫌うわけで、人は矛盾を内包しながら生きている、という自然そのものを否定しているところに、心の偏り方が見えてくる。
この心の偏り方というのは、共産主義というものが、人間の脳みそで考案した、思想であり、それは人間の理想を具現化したものである、という思い上がりが根底に潜んでいるからこそ、人の心の偏りが見えていないのである。
それに反し、資本主義とか自由主義というのは、人間の心の自然の在り方を肯定し、自然の人間の心の動きを基調にしてものを考える習慣をその根幹としているので、逆に矛盾を矛盾として認め、その矛盾を最小限にしようと努力するところに共感を呼んでいるわけである。
人がより良く生活でき、比較的平等に、出来るだけ均一に、個性を尊重しながら、万人の希望を出来る限り実現可能な社会を目指すという点で、人間の奢りというものを極力避けるよう努力しているわけである。
ソビエット連邦という共産主義を本旨とする社会主義国家というのは、その共産主義の本旨を捨ててしまって、もとは世襲化していた貴族という分類の人々が、同じように世襲化していた労働者という階級の人々の上に君臨していたが、それで革命という社会的大改革を行っては見たものの、世襲化していた貴族に代わって、労働者という統治の素人が、人々の上に君臨してしまったものだから、社会そのものが大混乱をきたしたわけである。
ところがその混乱の渦中にある人達にしてみれば、周囲が激動しており、自分もその渦の中に身を置いているものだから、はたの人から見れば大矛盾であるところのものが見えていないわけである。
だからいくら自分達の仲間が粛清されても、世の中は何処でもこんなものだ、というあきらめの境地にいたに違いない。
しかし、そういう状況も世の中の科学技術が進化してくると、いくらソビエット連邦といえども、噂に戸口を立てられないわけで、外の情報は遠慮会釈なく入ってくるし、自分達がひた隠しにしていた事実も外に漏れてしまうわけである。

人の本質に寄りかかった政治

1939年8月ドイツとソビエットは不可侵条約でヨーロッパの弱小諸国を蹂躙することで意見の一致、利害の一致を見たのであるが、これは最初からお互いが裏切ることを前提に締結されてものであるから、わずか2年後の1941年6月のドイツ軍のソビエット侵攻でぶち壊されたわけである。
問題は、この年にアメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が大西洋上で会談しているということである。
何の要件で会談したのかといえば、この度のヨーロッパの戦争、即ち第2次世界大戦において、連合軍としては領土不拡大、民族自決、貿易の自由と拡大、労働条件と社会保障の改善、海洋の自由、軍備縮小、等々立派なことをこの場で取り決めているわけである。
その後の世界にとって、はなはだ不幸なことになった理由は、この時の両人、ルーズベルトとチャーチルが、この第2次世界大戦に勝つにはソビエットを連合軍側に引きずり込まなければならない、そうしなければドイツや日本に勝つ見こみがないと判断してしまったところにある。
そしてドイツがソビエットに侵攻して破竹の勢いで奥深く攻めているときは傍観しておきながら、ソビエットが反撃に点じた時点で、スターリンを自らの陣営に引き込んだということである。
それは1943年11月で、この時点ではソビエット領内におけるドイツ軍というのはほとんど殲滅された状況であり、日米戦においても、日本はガダルカナルで大敗北を帰し、戦いの趨勢が見え始めたころである。
こういう状況下でアメリカのルーズベルト大統領というのは、ソビエットのスターリンを会談の場に引き入れているわけである。
ルーズベルトとチャーチルの基本的な考えが、先の1941年の太西洋上の会談を遵守するものであるとすれば、当然ソビエットのスターリンもそれを遵守しなければならない立場にある。
スターリンがこの西側を代表する二人、ルーズベルトとチャーチルの考え方を遵守するつもりであったとすれば、その後のヨーロッパの戦後処理というのは明らかに違う様相を呈していたに違いない。
ソビエットという国の性分からすれば、1941年のルーズベルトとチャーチルの大西洋憲章というものは心から受け入れられものではなかったはずである。
領土不拡大、民族自決という主題をソビエットという共産主義者の国家が飲めるはずがない。
スターリンがルーズベルトとチャーチルの会談の場に招かれたのは1943年のカイロ会談であるが、この時のスターリンの頭の中には、西側から・特にアメリカからの武器貸与を引き出すためには如何なる口実を使うか、ということで頭がいっぱいであったに違いない。
これもスターリン一流の騙しのテクニックであったわけである。
第2次世界大戦をソビエット内では大祖国戦争と呼び習わしているらしいが、これは無理もない話しだと思う。
ソビエットの立場にしてみればドイツに侵攻され、それを国境まで押し戻したところで何も得る物はないわけで、ソビエット人、ロシア人が血を流して戦争を戦い抜いた以上、何か得る物がなければ、矛を収めきれない気持ちは理解出来るが、その周辺の弱小国家にとっては、かなりの迷惑であったことは間違いない。
共産主義者というものが本当に領土不拡大を守り、民族自決を尊重するならば、この世の歴史はもっともっと素直で健康的なものとなるはずであるが、共産主義というのは、言葉と裏腹に、露骨に領土不拡大を犯し、民族自決を蔑ろにするところが最大の欠点であり、信用ならないところである。
彼らの側から言わせると、「資本主義体制というのは基本的に人間の欲望を剥き出しに行動するので、領土拡張の野心が見え見えだ」、といっているが、これはそのままそちらの側に返さなければならない。
共産主義国家というのは、社会主義が徹底しているので、領土を広げようとする思考は最初から存在しない、という言い方であるが、これは大いなる眉唾物で、こういう詭弁を弄して、発展途上国を蝕んでいくわけである。
アメリカのルーズベルト大統領というのは、人種差別主義者であるとは前に述べたが、彼は共産主義というものを案外信用していた節がある。
彼が不況から立ちあがるためにとった施策のニュー・デイール政策というのも、今日の言葉で言えば社会福祉政策の一環であったわけであるが、アメリカという土壌においては、こういう形の福祉というのは案外歓迎されない気分があったにもかかわらず、それを成し得たということは、共産主義の思想というものを全く排除することなく、その良い部分のみを採用して国民の生活の向上に寄与しようとした結果だと思う。
巨大な国家プロジェクトをぶち上げて、それに国民の総力を結集させる政治手法というのは、時と場合によっては絶大なる効果を表すものである。
アメリカ国民を対日戦に向かわしめた手法も、その絶妙な例であるが、そういう発想の根底には、共産主義の良い面は臆面もなく採用し、結果として良ければ全てよし、とする考え方である。
ところがソビエットでは、政治のバック・グランドが未成熟であったが為、その共産主義の理想とは懸け離れた結果となってしまったわけである。
成熟した政治というのは、統治される側もする側も、ある程度民主化が進んでいないことには近代国家の民主的な政治というものは成り立たないわけである。
そもそも国家の首脳が29年間もトップの座を譲らない体制というのは、そのことからして既に民主化の度合いが極めて低いといわなければならない。
これでは世襲制と何ら変わるところがないにもかかわらず、それが民主的と思いこんでいたソビエットの人々は極めて不幸であったに違いない。
これはまさしく独裁政治そのもので、反対派を寄せ付けない、容認しない、邪魔者は殺せ、という発想が政治的に民主政治であるわけがない。
それはまさしく王朝時代の君主制そのものである。
共産主義革命というのは、今までの封建領主を革命によって追い出した後に、無産階級の者が、その位置と地位を略取しただけのことで、歴史の主人公が交代しただけのことであり、社会のシステムが革新したわけではない。
社会のシステムの革新ということになれば、それは当然のこととして、政治をされる側の意識の面にも大きな意識改革が必要であったわけで、政治をする側がいくら理想的な政治思想を持っていたところで、政治をされる側がそれに応えられるだけの器量を持っていない事には政治改革も画餅に終わってしまう。
そういう状況を表す言葉として、民主化の度合いという意味から、民主化度という言葉が適当ではないかと思うが、ソビエット連邦とアメリカ合衆国では、この民主化の度合い、民主化度というものに大きな較差が存在していたわけである。
政治をする側の意識改革というのは案外容易に出来る。
ソビエットが共産主義体制に移ったというのは、政治をする側が意識改革をした結果であって、政治をされる側がそれについていくほど従順に意識改革を達成できたわけではない。
ここに政治をする側とされる側の軋轢が潜んでいたわけであるが、政治をする側というのは、如何なる状況下においても絶大なる権力を握っているわけで、自分の失敗とか失政というのはとことん隠蔽することが可能である。
そこで政治をされる側が常にその犠牲となるわけであるが、開かれた社会ではその犠牲が小さな内から是正、修正することが可能である。
ところがソビエットのスターリン体制のように、独裁者の君臨する固定化した社会では、国家プロジェクトとしての社会改革そのものが是正、修正きかないわけで、政治をされる側の犠牲がとことん行き着くところまで行かないことには、それが出来ないところが最大の欠点である。
その上、政治首脳者に諌言すれば、反革命だとか、反体制だとかで投獄されるような社会では、誰も政治首脳者に忠告をしないので、いつまでたってもその過ちが是正できないわけである。
人の諌言を聞き入れない人間というのは、知らず知らずのうちに猜疑心の塊になっているわけで、人が何を話していても、自分の悪口を言っているのではないか、という気持ちに陥りがちである。
事実、ソビエットのスターリンもそういう心境に陥っていたわけで、人と協調して事を運ぶということが全く出来なくなってしまったわけである。
そのことは人間の本質により近づいた、ということでもあるが、共産主義体制という状況の中では人間の本質に近づくということは大きな矛盾なわけである。
共産主義というのは、人間の本質を人間の理知と理念で克服する、というのが基調の発想なわけで、人が人の本能の赴くままに行動していては、共産主義というものを真っ向から否定するという事になる。
しかし、スターリンというのはそのジレンマに完全に陥ってしまったわけで、共産主義国家の最大最高の地位におりながら、最も人間の本質に近い行動、行為を成していたわけである。
戦争で自国の領土を拡張したい、自分の意見に反対するものは皆隔離したい、というのは人間の基本的な潜在意識のうちで尤も人間的な発想だと思う。
もともと、人間の本質というのは利己主義で、基本的に自分さえ良ければ後はどうなっても構わない、というものだと思う。
これをそのまま赤裸々に言うことは、人の理性と羞恥心に関わる問題であり、そのため人は人前ではそれをそのまま表現することを控え、人間の本質を如何にカモフラージュするかが文化であり、教養であり、知性である、といわれる所以である。
人間の本質を露骨に表せば、人はそれを野蛮と言う。
共産主義というのは、この人間の本質を、人間の理性と分別で克服しようとするもので、そこに最初から無理があると思われてならない。
よって共産主義という哲学そのものは、人間が人間の知恵と脳で考え出した崇高なものであるが、それでもって人を統治するという話しになると、また話は別の問題になるわけである。
一度握った権力はそう簡単には離さない、というのも人間の本質の一部でもあるわけで、その事から考えれば、人が人の知恵と脳で考え出した究極の思想にも大きな欠陥があったわけである。
一人の人間が約30年間も政権の座に固執するということは、自由主義陣営では考えられないことである。

政治を硬直化させる独裁

共産主義も我々の体制と同様、政治の民主化という同じ言葉を使っているが、この現実を見るにつけ、それは同じ政治の民主化という言葉ではあっても、その内容そのものには雲泥の差が潜んでいるということである。
あくまでも政治をする側が勝手に政治の民主化と思いこんでいるだけでのことで、実際にはまさに独裁政治であったわけである。
20世紀の100年の間の特に大きな世界戦争、第1次世界大戦も第2次世界大戦も、アメリカという国は渋々ながら巻き込まれたという感じがするが、その主とした舞台はいずれの場合もヨーロッパであったわけで、ヨーロッパにはそれだけ戦争になる要因が潜在的に存在していたわけである。
その大きな原因はやはり人種的偏見であるように思われる。
ドイツ人とユダヤ人という単純な図式では説明しきれない民族間の潜在意識がその裏には潜んでいるに違いない。
1999年におけるコソボ紛争においても、アルバニア系の住民とボスニア系の住民の軋轢が噴出したわけで、それは今まで約70年間も彼らの両民族の上にのしかかっていた共産主義という重石が無くなった途端に、彼らの民族的確執が芽を吹いただけのことである。
この紛争でも、結局のところ、国連軍とは称していても実質アメリカが空爆を実施して紛争を止めさせたわけで、こういうことが出来る国というのは、この地球上にアメリカしかないわけである。
ヨーロッパでは人類誕生以来人種間の確執が続き、その多民族の一つ一つが個人としてアメリカ大陸に渡って出来あがったアメリカ合衆国というのは、こういう人種間の確執が全く存在せず、彼らの先祖の国に対して極めて強力な支配力として存在するようになったわけである。
その意味からすれば、ソビエット連邦の領域も、古いヨーロッパの範疇に入れざるをえないが、この人間として長い歴史を携えているということは、人類の平和の発展に大きなマイナスの効果を発揮しているのではなかろうか。
極めて逆説的に聞こえるが、それは事実としてそういう風に見えてならない。
前にも述べたが、ヨーロッパにもソビエットの領域にも、人類は太古の時代から存在していたわけで、そういう風に古い時から人が各地域に住み分けていたとしたら、その地域毎、民族毎に、隣の領域との軋轢というのは自然発生的に出来あがるわけで、ある意味で、中国大陸というのが一つの主権国家としてまとまりにくいのと同じ理屈になるわけである。
それぞれの民族が、今までの自分の領域に固執して、それぞれに主権を主張したのが近代に入ってからのヨーロッパの現状であったと思う。
旧ソビエットの領域でも同じ事が言えていると思うし、中国大陸に至っても、戦後共産主義で統一されたということは、旧ソビエットと同じ道を歩んだわけである。
こういう事実から見れば、人が人種的偏見を持つことは極めて自然なことのはずであるが、人間の持つ理性というのはそれを許さないわけで、近代に至って人がますます文明化してくるようになると、人種的偏見は「悪」だという認識が広く世間に広まったわけである。
共産主義という発想もこれと似た部分を多く内包している。
つまり、人間の集団というものにとって、階級というのは自然発生的に出来あがるのが普遍的な人の姿であるのに対し、そういう自然発生的な階級を人間の意識で持って破壊し、人は人の理性と知性で以って、考え尽くした思考の元で生きなければならない、という思い込みにすぎない。
アメリカという国は、その建国の歴史は非常に新しいが、新しいが故に、歴史の軋轢というものを持たずに、人間の自然の発想をきちんと具現化することに抵抗がない国であり、一方人間の理想を具現化しようと躍起になっていた旧ソビエット連邦の方は、人間の自然の発想、生き様というものを悉く否定し、優れた共産党員が無垢な一般大衆を導く、という唯我独尊的で、なおかつ不遜で、神をも恐れぬ共産主義から脱却できないでいたわけである。
第2次世界大戦の終了というのは、このアメリカ合衆国とソビエット連邦という巨大国家が、その主導権、いな覇権を競い合った時代が到来したことを示したわけである。
第2次世界大戦というものは、ヨーロッパの先進性というものを悉く打ち砕いてしまったわけで、今までの歴史においてはヨーロッパの文化が一番先進性を持ち、文化的にここに住む人々というのは進んだ人々であったが、第2次世界大戦というものは、そういう文化をヨーロッパ人自身が破壊してしまったわけである。
モグラ叩きのゲームの様に、この地球上における文化の先進性が、ヨーロッパから消えた途端に、それに変わる地域として旧ロシアという広大な地域と、アメリカ合衆国という広大な地域がヨーロッパに変わって台頭してきたわけである。
人間が築き上げる文化というものにも当然栄華盛衰があるわけで、ヨーロッパのキリスト教文化というものは、20世紀の初頭から中期にかけての大混乱の中で衰退していったわけである。
20世紀の後半から21世紀にかけては、旧ソビエット連邦とアメリカ合衆国の文化が、この地球上を風靡していたわけである。
片一方は上からの統制経済で、国民には全く自由というものが認められず、人々は極度に虐げられていたにもかかわらず、井戸の中の蛙と同じで、他の情報から隔離されていたため、自分の置かれた状況に満足していたわけである。
もう一方は、自由主義経済で人々は自分の考えたことを考えた通りに実行に移すことが許された社会であり、それ故に、自らの政府に弓を引く行為も多々散見されたが、おおむね人々は自由闊達に発言し得る社会を維持してきた。
人が集団を形成すれば、そこには必ず統治される側とする側という対立・階級が生まれることは致し方ないが、この壁が低ければ低いほど、民主化が進んだ社会ということになる。
しかしスターリンのように、一人で29年間も政権の座に君臨してしまえば、そこには民主化の度合いを測ることさえ不可能なわけで、それこそ硬直した政治システムといわなければならない。
政治が硬直していてもいなくても、人々の生活には情報というものがある程度伝播されるわけで、人はその地域から外に出ることが全くなかったとしても、年々生活は少しずつ豊かになる。
生活が豊かになるということは、豊かになるように人々がそれそれの知恵や発想を巡らし、工夫をし、模倣をし、それに近づこうと努力するからであって、その前に、情報としてより良い生活というものを知らないことには、文化の前進はないわけである。
人々の生活というものを、そういう見方で見てみれば、旧ソビエット連邦の人々の生活も、中華人民共和国の人々の生活も、その主義主張とは無関係に、ある程度の生活の向上というのは必然的な成り行きであったに違いない。
そういう状況下で、旧ソビエット連邦というのがアメリカ合衆国と並んで科学の国となった事実というのは私、個人にとっては不思議でならない。
アメリカから武器を供与してもらわなければ自分の祖国も防衛できないほどの未工業化社会のソビエット、旧ロシアが、1957年、昭和32年にはスプートニック1号という人工衛星を世界に先駆けて打ち上げたときの我々の衝撃は筆舌に尽くしがたいほどのものがあった。
そのとき、我々の側、西側陣営のやっかみ半分の評論の中には、ロシアはドイツを占領したとき、ドイツのV-2号の開発に携わった科学者を全員抑留してしまって、彼らにロケットの開発を無理やりさせた、という言い方が成されたものである。
この話は全く根も葉もない作り話ではないと思う。
ロシアは広大な領土を擁しているので、国内に秘密都市の一つ二つあったところで何ら不思議ではないはずで、そう云う所に科学者を集めて研究すれば、不可能ではなかったかもしれない。
もちろん国家予算にけちをつける国民の存在というのも最初からいないわけで、金は無尽蔵に使うことが出来たに違いない、と考えれば全くの眉唾物の推論でもなさそうに聞こえる。
旧ソビエットの科学というものは、そのことごとくが軍備増強のための科学であったわけで、原爆の開発から水爆の開発、人工衛星の開発から、ICBMの開発に至るまで、そのことごとくが軍備に関するものである。
一方のアメリカというのは、この時点まではソビエットよりも1歩ずつ先を歩んでいたが、人工衛星のスプートニックにおいてはソビエットに先を越され、それがアメリカの権威の失墜になると同時に、国家プロジェクトとして国威発揚のきっかけにもなったわけで、ここに米ソの軍拡競争が開始されたわけである。
共産主義国家ソビエット連邦の悲劇というのは、この軍備拡張主義に現を抜かしていたあまり、民需品の生産に極度の遺漏をきたしたところにある。
富国強兵というのは基本的に帝國主義的な発想にもかかわらず、共産主義国家のソビエットの首脳、特にスターリンと言う男が、この自分達が瓦解させた帝國主義的発想から真に脱却できずに、その潜在意識の中に、その残滓を引きずっていたわけである。
労働者による労働者のための民主国家であるとすれば、それは基本的に民生品の生産に力を入れるべきで、それが自分達が倒したはずの帝國主義そのものの発想に陥ってしまっていた、と云うことは革命そのものが眉唾物であったわけである。
ただ単に、今まで世襲化してきた貴族に変わって、自分達の無産階級という立場も、それこそ世襲化していたわけであるが、その立場の人間が統治をする立場に成り代わりたい、という願望を実現させただけのことである。
そのためには共産党と云うものを足場にして、共産党に忠誠を尽くし、共産党のために身を粉にして働くことによって、党の評価を得なければならなかったわけである。
そこには、その土地に先祖代々生活していた生活者の立場、感情というものは一切考慮されることなく、そう云う人々はあくまでも共産党員を養うための奴隷に過ぎなかったわけである。
南北戦争前のアメリカの黒人奴隷というのは見るからに白人とは違っており、何処から見てもアフリカから連れてこられて人々だと云うことが一目瞭然であるが、ソビエットの奴隷というのは、もともとロシアの地に生活をしていた人々であったが故に、支配する者とされる者というのが外見からは区別しにくい状況であった。
それだらからこそ余計目に見えない軋轢が内在していたわけで、支配する側もされる側も、自国民を奴隷とは思っていなかった。
ところがこれは奴隷の支配とまったく同じだったわけである。

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