その5 独ソ戦の考察

独ソ戦の歴史的意義

1917年、レーニンによって種を蒔かれた革命の成果は、紆余曲折を経て曲がりなりにも近代化の端緒についたわけで、そのことはソビエット連邦という国家が、暴力と陰謀、そして独裁によって強権力を築いたことになる。
巨大な権力を得たとなると、それを国外に使って、試したくなる。
そうして出来あがったのが1939年、日本の年号で昭和14年、独ソ不可侵条約である。
この時のソビエット側の政治的首脳者はスターリンが国家主席、モロトフが外相を勤めていた。
ドイツ側は言わずと知れたヒットラーが政権を握っていたわけである。
この独ソ不可侵条約というものほど政治のいいかげんさ、人間の不信感を象徴するものは他にありえない。
条約締結の双方が、この条約を破ることを前提にして締結を結んでいるわけで、これほど人間を馬鹿にした条約も他に例がないのではないかと思う。
その意味からすれば、スターリンもヒットラーも、それこそ極悪人に等しいわけであるが、それが国家主権の名のもとに、国家の行為として、歴史にその足跡を残しているわけである。
スターリンもヒットラーも、ともに独裁者として人後に落ちないツワモノであるが、これら二人の行為も、人類の歴史から消えることはないに違いない。
双方が示し合わせてポーランドという主権国家を分捕り、分け合う、という行為が歴史上、又人間のする行為として許されるものではない。
ポーランドのみではなく、バルト3国も、ソビエットによって併合されてしまったわけで、それをドイツが不問に付すことで、ドイツはその見かえりとしてルーマニアで自分勝手な行動を許す、というスターリンとヒットラーの二人が手を組んで傍若無人に振舞っているような様を呈していたわけである。
共産主義国家・新生ソビエット連邦というのは、帝国主義国家に変わるものとして出現してきたところに共産主義の意義があったはずであるのに、その新生共産主義国家と言うものが、帝国主義に陥ってしまったとしたら、その意義を失ったに等しいわけである。
が、時の為政者にはそのことがわからなかったわけである。
自分が裸の王様になっているにもかかわらず、人が親切にアドバイスしてくれると、それを反革命だとか、反政府運動だとかいう風に決め付けて、牢屋に入れてしまえば、人は誰も忠告をしてくれなくなる。
裸の王様ということになれば、それは独裁者というほかに言いようがない。
共産主義国のソビエットと、ナチズムのドイツが不可侵条約を結んだという事に世界中が驚いたわけであるが、人々が驚いたその驚きの本質というのは、共産主義とナチズムというものは水と油の如く相容れるものではない、という認識が普遍化していたが故に、それに反する行為が成されたので、そういう驚きであったに違いない。
表向きには民族解放を叫ぶコミニズムと、偏狭な民族主義のナチズムが、ただ一つ共通の目的とするところは、自らの領地の拡大、支配地域の進展のみであり、そのことは帝国主義そのものである。
革命を成した筈のソビエットの側に立ってそれを見てみれば、帝国主義というミイラを盗りに行ったものが、自分も帝国主義にはまってしまったようなものである。
帝国主義の中にある、自分の領地を広げ、支配地域を拡大したい、という願望は主義主張を超えた人間の本質であったわけである。
他民族には民族の自決を声高に叫ぶソビエット連邦も、偏狭な民族主義でドイツ民族のみがこの世に生きる権利があると思いこんでいたナチスも、その人間の持つ本質的な願望を克服することは出来なかったわけである。
この両者、悪魔のような両者が、公の場で手を結んだのだから、世界が驚くのも無理ない話である。
この両者は公の場で手を結んだばかりでなく、裏でも手を結んでいたわけで、こういうところがスターリンとヒットラーの老獪なところである。
彼ら二人には、人間の倫理というものが存在していないかの如く見えるが、こういう二人が、政治の頂点にまで上り詰めると云う事は、それを押し上げた国民の側に、彼らに期待する何かがあったに違いない。
そうとでも思わなければ、こういう倫理的に不健康な二人が、国家の頂点に居座ることはありえない。
太平洋戦争の前の日本でも、鬼畜米英と戦うことは「善」であったわけで、それは政治家の世論操作でそうなったとばかりは言えず、国民の側にも、貧乏から脱出するには中国に進出して領地を拡大するほかに道はない、という発想に陥っていた節がある。
時の為政者というのは、その時の国民の総意を表現している、という点も多々あるようの思えてならない。
スターリンもヒットラーも、独裁者として、自分の部下を始め、自分に忠告をしてくれる臣下を逆恨みする傾向が顕著であったが、そこに達する過程で、その時と、その場の状況から、国民の願望を具現化する存在であったに違いない。
スターリンとヒットラーが手を結べば、その裏に何かがあるという事を、この時代の状況を良く理解している人には見えていたに違いない。
しかし、その背景がわからない人にとっては、それはただのニュースでしかないが、このニュースの裏の意味を知るということは、非常に大事なことにもかかわらず、我々はそこまで気が回らないのが普通である。
スターリンとヒットラーが手を結んでポーランドを分割し、バルト3国をソビエット領に組み込み、ルーマニアでドイツが自由勝手に振舞うということは、外交という政治的見地から見れば、これほど素晴らしい外交手腕の発揮というのも他にはありえない。
同時にそれを裏側から見れば、安全保障というものが如何に強国に翻弄されやすいものかということでもある。
戦後の日本は、如何なる理由によろうとも武力の行使をしない、と世間に披瀝してしまっているが、世が世ならば、このときのポーランドや、ルーマニアや、バルト3国と同じ運命に陥る可能性もあったわけである。
そうならなかったのは、日本がヨーロッパのような地続きの主権国家ではなく、海という要塞に囲まれ、日米安保という条約に守られていたからである。
そもそも主権国家の首脳部が相手を裏切ることを前提にして、手の空いているうちに欲しいものを全て自らに盗りこんでおいて、それが無くなると今度は相手そのものを侵略する、という発想は我々、日本人の発想の中にはありえない。
日本が日中戦争に嵌まり込んだ背景には、やはり当時の我々の生活が貧乏であった、ということがあるように思う。
我々はより良き生活を目指して、中国の地に新天地を見たわけで、この地を我々の手で何とかすれば、日中双方がより豊かな生活が出来るに違いない、と思ったわけである。
ところがこの地には太古より先住民としての中国の人々が居たわけで、東方の小さな島国の日本の思うようにはならなかったわけである。
この時の我々の発想の中には、中国の人々を全て殺してしまう、という発想は微塵も無かったに違いない。
あくまでも共存を考えていたが、中国の人々からすれば、自分たちが常日頃、卑下している民族と共存させられる事こそ苦痛であったわけで、それが民族的な抵抗運動を引き起こしたわけである。
この民族の底流に流れている根源的な思考を考慮に入れず、自分たちの思い込みだけでしかものを考えることが出来なかったということは、我々の側の思慮が足らなかった故の結果であって、こういうところが、日本民族の浅薄なところである。
この我々の浅薄さというのは、我が民族が四周を海で囲まれた比較的単一民族で、他民族との交流というか、軋轢というか、摩擦というものに未経験であったため、他民族を支配するという発想に欠陥があったからである。
台湾を支配下におき、朝鮮を併合してみると、彼らを自分達と同じ人間と見なし、自分達と同じ文化を押し付ければ、彼らは幸せと感じるに違いない、と思ったところに問題があったわけである。
ヨーロッパ人の考えている世界というのは、ヨーロッパ人だけの世界で、この地球上にはヨーロッパ人以外の人間も住んでいる、ということを無視した発想である。
だから彼等の他民族を見る目というのは、白人以外は人間の内に入っていないわけで、それだからこそ征服した他民族を殺しても彼等の良心が疼くことがなかったわけである。
彼等のアジアにおける植民地支配、アメリカ大陸の支配のし方を見ればそれは一目瞭然である。
それに較べると我々の他民族支配というのは如何に温情にあふれていたのか、と再考に値するにもかかわらず、世の人々というのは日本のみを極悪人に仕立てている。
そして日本人の中からでさえ、我々の過去に唾を吐いている輩がいる。
西洋人、特にヨーロッパの植民地支配というのは、こういうお人好しの発想はまったく存在しておらず、彼らはアジアの人々を動物並に扱い、決して自分達と同じ人間だとは思わない支配体制を敷いていたわけである。
この発想をヨーロッパ人は実に顕著に持ち合わせているわけで、ヒットラーにしろ、スターリンにしろ、相手を尊敬し合うということは全く無かったわけである。,br> 彼らの頭の中にあったことといえば、如何に金を使わず、労することなく、かつ効率的に相手を支配するか、ということだけである。
そこには相手を尊重し、相手の信義に報いるという発想は最初から存在していないわけで、力こそ法律であり、力の誇示こそ政治であり、裏切りこそ政治のテクニックであったわけである。
そこで、この二人は、お互いに相手の出方を封じ込めている間に既得権益を拡張する、という一点で利害が一致したわけである。
それは結果として歴史が証明しているわけで、利害が均衡し、もう盗るものがなくなれば、次に来るのは裏切りによる相手への侵略しかなかったわけである。
事がここに至れば、もう後はギャングの抗争と同じで、法も仁義も信義もあったものではない。
あるのは武力以外のなにものでもない。
この時、日本は何をしていたかといえば、満州でノモンハン事件が起きて日本は徹底的に敗北を帰していたわけである。
その片一方で、日独伊の三国同盟が懸案されつつあり、日本も大いに欧州の情勢には関心を寄せていたつもりであるが、その情勢判断は全く頼りにならず、砂上の楼閣を熱心に信仰していたわけである。
その後の歴史の展開を見ると、我々はこういう欧州の情勢を全く読み切れていなかった。
この相手の考えていることを読み切れなかった、ということは何時の時代にとっても反省材料である。
にもかかわらず、未だに我々は他の国の先行きを読むということに不慣れであるばかりでなく稚拙である。
相手のある事だから、相手の心の内を見極める、ということは誰にとって至難の技である事には違いはない。
けれども、それをしないことには国際社会では翻弄されるのみで、最終的にはその結果が国民の上にのしかかってくる事になる。
我々の20世紀前半、昭和の時代の歴史は全くその通りの軌跡を踏んできているわけで、相手の心の内を読み切れなかったが故の惨禍である。
ソビエットの侵略思想を理解し得ず、ドイツのハッタリには疑いも持たず、アメリカのデモクラシーを馬鹿にして、自分の無知蒙昧を棚に上げ、精神力で事が解決すると思い込んでいたわけで、これほど愚昧な民族も他にありえない。
その反省をしない戦後の我々・日本人というのは、ただただ念仏を唱えていれば災禍は我々を避けて通ってくれる、という他力本願で腑抜けな亡国の心だけが充満している。
他から何と言わようと、生きてさえおれれば我々は満足しているわけである。
20世紀の初頭のヨーロッパでは領土を広げる事が民族存立の根拠である、という思考が蔓延していたわけで、それはスターリンもヒットラーもイデオロギーを越えて同じ思考に嵌っていたといわなければならない。
そしてそれがバルバロッサ大作戦でヒットラーのソビエット領土内への侵攻であったわけである。
1941年、昭和16年、ドイツ軍がいきなりソビエット領内に侵入、独ソ戦の開始である。
この時、ドイツがソビエット領内のウクライナ地方に侵攻した祭、ウクライナの人々は、ドイツ軍を解放軍と見間違えたといわれている。
そのことはソビエットの支配が如何にウクライナの人々に人気が無かったかということの証明でもあったわけであるが、この時から第2次世界大戦が終了するまでの戦争を、ソビエット内では大祖国戦争と呼び習わしていた。
この名称はソビエット内に住む人々にとって、祖国とは一体なんであったのか、という大きな疑問を提起した。
ドイツ軍がレーニングラードを包囲して今にも陥落しそうになったとき、ソビエットの指導者スターリンは、レーニングラードの死守を命じたといわれている。
いわゆる、撤退を認めず、そこから中にはドイツ軍を入れるな、ということを命じたわけであるが、そのことはレーニングラードの市民に、「お前達はそこで死ね」といっているのと同じである。
これでは市民、国民は裏切られたと思うのは当然のことで、それだからこそ、我が祖国と言った場合、何が祖国か彼らには理解不可能であったに違いない。
そういう感情が国民の間に浸透していたからこそ、敵に攻められても、相手が解放軍に見えたのもうなづける行為である。
ドイツに攻められてフランスのパリが陥落したのは1940年、昭和15年のことで独ソ戦の前であるが、ここでもドイツ軍に協力的な勢力というのは存在していたわけで、それがビシー政権であった。

余談 ハンフリー・ボガード主演の名画『カサブランカ』ではこのビシー政権下のアフリカのカサブランカという町が舞台になっている。

これは主権国家と主権国家の攻めぎ合いという国際紛争の渦中にある人々にとっては、生きる為のやむを得ぬ選択の場合も多々ある。
侵入してくる敵に対して徹底交戦しようとする人と、相手に妥協して、その場を生き抜こうという人々の発想の違いであって、こういう場合の第2戦線の存在というのは致し方ない。
しかし、国家の首脳部が、敵の前に風前の灯に等しいような状態で、徹底交戦を自国の国民に要求する、ということは人命軽視の最たるものである。

「孫氏の兵法」を侮った結果

ソビエットの国家体制というのは共和制であって、その意味からすれば、アメリカの州制とよく似ているが、根本的に違う所は、地方自治が全く存在していないという点である。
共産主義体制と称する中央集権機構が、各共和国をがんじがらめに束縛しているわけで、地方の主権というものを全く認めていないところが独裁政治としての最大の欠陥である。
その頂点に立っているのがスターリンという人物で、彼の個人的希望としては、ドイツ軍の侵入をレーニングラードで食いとめておきたいが故に、そこを死守せよという理不尽な要求になったわけである。
結果的には、そこは死守され、ドイツ軍の侵攻はそこで阻止されたことになるが、それに対するソビエット側の損害ということを考慮すると、その犠牲はあまりにも大きかったといわなければならない。
尤もソビエットの共産主義体制というのは、国民の犠牲ということにはほとんど無関心で、国民がいくら死のうと、共産党の体制のみが安泰であれば、それは政治として成功していることになり、政治家の実績の向上ということになっていたのかもしれない。
そこでイギリス・BBCが企画上映したビデオを見ていて不思議に思うことは、ウクライナなどの地方では、ドイツ軍の侵攻を解放軍と呼んだぐらい反ソビエット感情が強いにもかかわらず、ロシアの人々というのは、あくまでもあの戦い、第2次世界大戦というものを祖国防衛の戦争であった、という認識を崩さないところである。
これまでも述べて来たように、少し政府に逆らうと、反逆罪であったり、反体制であったり、という理由で刑務所や収容所送りにされていたような人々が、祖国を愛する気持ちを失はず、嬉々として収容所の中で戦争協力している姿である。
ソビエット連邦というのものがアメリカと根本的に違うところは、土着の人々がいたという点ではないかと度々記述してきた。
アメリカ大陸にも土着の人々がいたことは承知しているが、彼らはアメリカの歴史にはほとんど登場してこない。
しかしロシアには連綿と庶民としてロシア人の歴史が続いていたわけである。
彼等は体制がどういう風に変わろうとも、自分たちがロシア人である、という民族としてのアイデンテイーを失わずに維持しつづけているわけである。
それに引き換え、我々は一度戦争に負けると、身も心の相手に売り渡してしまって、民族のアイデンテイーも何も一切合財喪失してしまったのとは大いに違う面がある。
ソビエットの飛行機にはアントノフとかイリュウシンとか云う名のものがあるが、これはいずれも設計者の人名を拝したものである。
ところがそう云う国家として貴重な設計者も、そのことごとくが収容所の囚人という立場で仕事をさせられていたわけで、その本人が囚人の立場という事をいささかも恨むことなく、偉大なる祖国・ロシアを愛している、ということのみで嬉々として収容所の中で押し付けられた仕事をするという感情は我々、日本人としてはいささか理解に苦しむところである。
国家の体制如何に関わらず祖国を愛するという信条は、我々、日本民族には存在し得ない民族的アイデンテイテーだと思う。
我々、日本民族にとっては、国家の体制と祖国愛というものは分離して存在しえず、祖国愛というものは、愛国精神と表裏一体を成しているわけで、国家体制は気に入らないが愛国心は持っている、ということは考えられなかった。
ところがロシアの人々は、自分が収容所送りにされても、そう云う処置をする祖国の体制を恨むことも無く、祖国に献身する態度というのは、我々には理解しがたいところである。
スターリンのソビエット連邦とヒットラーの第3帝国というものを見つめていると、主権国家とは何なのか、民族の自立とは何なのか、主権とか、国家とか、領土とか、民族とか、安全保障とか、そう云うものを深く深く考察しなければならないとつくづく思う。
我々は海で囲まれた環境に生息しつづけてきたので、そういうものを概念でしか知ることがないが、ヨーロッパからアジアに至る大陸に生きる諸民族では、日常生活の隣にそう云うものが存在しているわけで、その緊張感というのは、到底我々の理解し得るものではないと思う。
このヨーロッパの情勢を我々が理解し得ないことの一つに、独ソ戦における双方の大量の捕虜の扱い方にもそれが垣間見られる。
地続きの国同志の戦争であったので、大量の捕虜が出ることは致し方ないが、その捕虜の扱い方も、我々、日本人は実に不得手であった。
スターリン率いるソビエットでは、確保した捕虜というのは全て収容所送りを経て安価な労働者としてこき使ったが、ドイツ軍の方は、これを再び自分たちの軍隊の中に繰り込んでしまって、捕虜に自分の国を攻撃させたわけである。
こう云う発想は、我々には考えも及ばない発想で、我々は杓子定規に捕虜を匿い、軽度の作業は強いたかもしれないが、基本的には一定の場所で何もさせずに身柄を拘束するに留めようと努めた。
しかし、一般市民をはじめとする銃後の人間さえも食うや食わずの生活の中で、何もしない元敵国の捕虜に十分に食料を与えられなかったのは必然的なことであり、ある程度の犠牲が出ることは致し方ない問題であった。
その点、ソビエットやドイツというのは、我々の常識を破るような発想でもって、それぞれに捕虜を使って自国に有利にそれらを利用したといわなければならない。
独ソ戦の初期の段階で、ウクライナに攻め込んだドイツ軍には、大量のコサック兵が降服してきて、それが再度ドイツ軍の中に組み込まれ、ソビエットに向かって戦いを挑んだということであるが、こうなるとそれこそ民族の自決とか、国家とか、領土とか、主権などという概念がなんだか分からなくなってしまう。
尤も、ソビエットの自国内の統治の仕方に欠陥があったので、地方の反発がそう云う事態を引き起こした、ということは言えるが、もしそうだとすると、スターリンの血で血を洗う恐怖政治の締め付けがまだまだ甘かったと言わなければならない。
ドイツは確保したソビエット側の捕虜を自らの戦力に繰り込んで使ったか、ソビエットのスターリンは逆に、降服を一切認めず、捕虜になった兵隊はスパイと見なして、日本の戦陣訓で云うところの「生きて俘虜の辱めを受けず」以上のものであったといわれている。
こうなってくると我々の理解を超える思考といわなければならない。
ソビエットという巨大な帝国の中では、強制収容所内で世界的頭脳の持ち主が、囚人という身分でありながら、祖国ロシアを愛するが故に、祖国に貢献しようとしている人がいるかと思えば、ソビエットの周辺国家では、自分の国に弓を引く人々がいるわけで、共産革命というものが国家主権を常に攻撃するものである以上、現体制というのは常に攻撃にさらされる運命を持っているのかもしれない。
ソビエットの共産主義体制の国家とか、ヒットラーの第3帝国という国家体制というものを考えると、我々、四周を海で囲まれた単一民族としての国家というものを、これらと同一に考えることは出来ないように思う。
国家の命令でレーニングラードを死守せよと云う事は、我々には考えられないことで、沖縄がアメリカ軍に敵前上陸されて陥落したとき、もし天皇陛下が、「あれを死守せよ」といったとしたら、我々は今日如何なる思考に陥っているのか皆目見当もつかない。
沖縄の場合、誰一人「死守せよ」などとは言わなかったが、そこにいた人々は自ら祖先して生きる事をあきらめて、自害したり、降服したり、万歳を叫んで敵の標的になったりしたわけで、それを強制した人はいなかったわけである。
誰も強制していないにもかかわらず、死に急いだ、というのが真相ではなかったかと思うが、この死に急ぐというのが、我々、日本民族のある種の死生観につながっているところが問題なわけである。
大陸に住む人々の死生観というのは、こんな安直で、刹那的な発想ではないわけで、生きるために時には同胞を売り、売国奴とののしられても、個人の生存を何にもまして尊重していかねばならない、という確たる信念で貫かれている。
「人が死ぬから我も死ぬ」等という付和雷同的な生き方ではないわけで、生きるためには、恥も外聞もかなぐり捨てて、時の勢力に迎合してでも生きぬくという信条を貫く根性を持っている。
しかし、その根性なるが故に、それが又新たな悲劇を生み出している、ということもある。
ドイツの侵攻を解放軍と見間違えた人々は、ソビエットが再び体制を立ちなおした暁には、裏切り者として、新たな苦難の道を歩まねばならなかったわけで、それこそ強制収容所送りにされたわけである。
第2次世界大戦後、シベリアに抑留された人々は、それこそ捕虜収容所で苦難な生活を強いられたに違いないが、この時に日本人でありながら、彼らソビエットに迎合し、彼らに媚を売った輩がいた事は、それこそ歴史が証明している。
彼らを戦後の日本政府というのは、裏切り者として処遇したであろうか。
シベリアの酷寒の地で、毎日厳しい労働にさらされて、苦労されたことは理解出来るし、そういう環境の中で、共産主義の洗脳を受け、それに帰依してでも生きざるを得ない、という切羽詰った状況というのは、ある程度理解できるので、その事自体を責めるわけにはいかない。
そういう人々が生きて祖国に帰った時、ソビエットでは裏切り者としての烙印を押し、再び強制収所送りにしてしまったわけである。
それに引き換え、我が日本国政府というのは、そういう人々にも実に寛大で、彼らの洗脳をそのまま受け入れ、戦後の経済の混乱期に、彼ら共産主義者に大いに活躍の場を提供していたようなものである。
この違いを、民族性の違い、という言葉で一括りにしてしまうにはあまりにも問題が多すぎるように思う。
ソビエットという多民族国家というのは、異民族がたくさん内在すると言うことで、その事の裏側の意味は、太古より人々が連綿と生きてきた、という過去があるわけである。
いわば民族の歴史と伝統があるわけで、それは我々にも同じようにあるはずのものであるが、これが大陸という陸続きの地に生きてきた人々と、海という要塞に囲まれて生息してきた民族との歴史と伝統を全く違うものにしてしまったわけである。
歴史の違いというよりも、生き方そのものの違いを生んでいるように見える。
我々の戦いというのは、実に刹那的で、時の勢いによって勇猛果敢にもなれば、全く意気地なく、鉄砲を撃つとその音で反対に反撃を食うから、といって戦うための武器を有効に使うこともせず、みすみす敗北したこともあったわけで、こういう発想というのは、他民族による軋轢を経験したことがないための、自分自身の思い込みによる行動がそうならしめたに違いない。
太平洋戦争においても、各戦場における玉砕も、ある意味で、思い込みによる自暴自棄という面があったように思われる。
作戦に出る前の段階の敵情査察のときから、敗北の原因がわかっていたため、その作戦そのものが自暴自棄の結果である、と言う事がいえていると思う。
古い中国の孫氏の兵法でも「己を知り敵を知るものは百戦危うからず」といっているわけで、その戦いの基本の中の基本を疎かにするという点が、民族としての諦めの良い、非常に淡白な精神の持ち主ということになる。
恐らく仮に「レーニングラードを死守せよ」というような命令を受けたならば、我が日本民族ならば、如何に生き抜くかという事を考えるよりも、如何に死ぬかという発想に陥るに違いない。
大陸に生きる人々というのは、生きんが為に寝返り、裏切り、体制への迎合ということを日常茶飯事に行うので、それに対する新たな悲劇も同時に併せ持っているわけである。
独ソ戦における初期のドイツ側の勝利というのはある程度必然的なことで、ドイツは戦う前からそのための準備をしていたわけで、これは勝利して当たり前のことである。
ソビエットの側は初期の戦いにおいては撤退に撤退を重ねなければならなかったというのは当然の成り行きである。
問題はヒットラーが何処まで攻め込んだら戦いの矛先を変えるか、という点にあった。
彼にとっては過去の実績を研究する事を怠っていたに違いない。
ナポレオンと全く同じ轍を踏んだわけで、ナポレオンのモスクワ攻略というものをもっと謙虚に研究すれば同じ轍を踏むことはなかったに違いない。
ロシアという国土は奥行きが深い国で、奥へ奥へと攻め込めば、補給線が延びきってしまって、収拾がつかなくなるということを侮ったからナポレオンと同じ失敗をしでかしたといってもいいと思う。
それと季節的な判断も間違ったわけで、冬将軍が来る前に何らかの処置、つまり戦いを撤収することを考えるべきであった。
ドイツという国も、自らの民族の能力を過信していたわけで、ロシア人を侮っていた事は間違いないと思う。
ドイツ人からロシア人を見れば、侮りたくなる心情というのもなんとなく理解できそうであるが、これは我々、日本人が同じ失敗をしたのと軌を一つにしている。
他民族を侮った報いといってしまえばそれまでであるが、その根底には、自らの優越感がそういう感情を生起したものと思う。
ある意味でそれはうぬぼれに通ずるものである。
ドイツも日本もこういう失敗をしでかしたその根本のところには、他の民族の根源的な心情を理解することなく、その表層の部分のみを見て、知ったかぶりをしていたということだと思う。
我々も中国の戦線において、何処までも奥へ奥へとはまり込んでしまったので、最後には補給線が維持できず、収拾がつかなくなってしまったのと全く同じである。
基本的に敵国の奥に侵攻する戦いは不利である。
守る側が数段と有利なわけで、最初から不利な戦いであれば、早期に戦いを止める事に手を打つべきで、それを欲 張って、取れるものは何でも盗ってやろうという乞食根性を出すと痛い目にあうという教訓である。
我々の場合、己も知らず敵も知らずに、ただただ時の雰囲気に何となく迎合した、と言わなければならない。

目次に戻る

前の項に戻る

先に進む