その4 混乱からの脱却

平成11年6月26日 その4 混乱からの脱却

それでもロシアは強かった

今回の執筆に関し、遅れ馳せながらレーニンの「帝国主義」という本を読んでみた。
実に良く書けた本で今日の状況に即しても一向に見劣りするものではないが、如何せん、金持ちとか資本家というものを悉く悪人に見たてているところが少々奇異な感じがする。
この時代の状況として、金持ちがそのまま悪人になるということはやはり偏ったものの見方だと思うし、彼の論文の根底には人間の性悪説によってこの世の中が悉く穢れたものになるという発想があるように見えた。
しかし、彼による帝国主義の定義と言うものは5つの要点にまとめられている。
    1 生産と資本の集積
2 産業資本と金融資本の融合に伴う金融の寡占
3 商品および資本の輸出
4 国際的な資本家の世界分割
5 資本主義の強国による地球分割
これらが帝国主義の根本にあるといっているが、これはそのままその後のソビエット連邦の歩んで軌跡でもあるわけで、資本主義の自由主義経済諸国も同じ軌跡を歩んだわけで、それは歴史が証明している。
しかし、この論文がロシア革命の前に書かれたという点に大きな意義があると思う。
日本の明治維新の場合、大きな変革を経て日本は近代国家に脱皮することは出来たが、その前にこういう確たる信念を表した人物はいなかったわけで、我々は以心伝心の同一民族だから、こういうものは不用たった、と云う事は言えるかもしれないが、それにしても革命に際してこれだけのものを書いた後、革命を遂行するということは実に大したものである。
レーニンの掲げた最初の項目の「生産と資本の集積」ということは、彼の目の当たりにした世界がそれだけ後進的であったわけで、自分の身の回りが遅れているものだから、先進的な生産の集中と金融の集中に対して大きな危惧を抱いていたからこそ、こういう発想になったものと思う。
生産の集中にしろ金融の集中にしろ、イギリスやアメリカの状況から推察してこういう結論に達したものと思うが、これは資本主義というものが成熟する過程の現象で、何時までも何時まで未来永劫、集中しつづけるわけではなく、ある時期には平衡して、その後には下降線を辿るという経済の未来予測を見誤っている。
経済というものは、未来永劫右肩上がりの成長を続けるものではなく、その後には必ず揺り戻しが現れ、サイン・カーブを描くものである、と云うことを念頭に置かない方手落ちの論理である。
こういう失敗はなにもレーニンだけが犯したわけではなく、日本でもつい最近までバブル景気が何時かは破裂する、ということを信じない人々が大勢いたのと同じで、これは彼が間違っていたわけではないが、彼は金持ちや資本家を憎むあまり、こういう傾向を改めなければならないと考えるのも尤もな事である。
彼は帝国主義というものを頭から悪いものだという認定のもとに、彼の論理を展開しているが、これは人類の発展段階という視点からみれば過渡的な現象で、資本主義の成熟の過渡的な状況である、ということを否定したいが為にこういう論理をしているものと思う。
不思議なことに、彼の師と仰ぐマルクスは、「ロシアにおいては後進国であるが為、社会主義革命はなしえない」と云っていたわけで、そのマルクスの言に逆らような結果として、レーニンはロシアにおいて革命を成したわけである。
そして、それがその後、約75年間ソビエット連邦としてこの地球上に存在しつづけていたことは、マルクスの予言が正しかったのか、間違っていたのか、議論が分かれるところだと思う。
75年間の実験ともとれるが、実験にしてはあまりにも犠牲が大きかったのではないかと思う。
革命というのは自国民の血を流すことで、戦争というのは他国民の血を流すことではないかと思う。
レーニンもこれだけ立派な論文を書きながら、政治家というか、革命家というか、とにかく権力の虜になったという点では俗物政治家を批判できない。
階級闘争という言葉をもてあそんでいるに過ぎず、真のロシアの人々の為には決してならなかったわけである。
赤軍と白衛軍との内戦、革命と反革命、政府軍と農民の抗争、まさに混沌としたロシアにおいて、これを収拾したという意味ではレーニンの功績もたたえなければならないが、それはまさしくマルクスが指摘したように、資本主義が未発達なロシアでは、社会主義革命は実現し得ないだろうという予言を覆すことになったわけである。
しかし、それは今日の状況では言えているが、この当時の共産主義者、特にロシアの共産主義者にとってはまさに進行中の出来事であり、社会主義社会というものが実現に向かっているという認識のもとで生きていたわけである。
それが偉大なる実験に終わった、というのは今日、1999年、もうすぐ21世紀にさしかかろうという今日ではそう言う事が云えるが、この時のレーニンの時代には、それがユートピアの建設に向けて進行中のことであったので、その結果というものは、影も形も存在していなかったわけである。
妙なことに、レーニンの帝国主義の定義には、軍隊というものの意義が全く出てこないが、レーニンの言う5つの定義は、軍事力という背景があって始めて成り立つわけで、そのことにレーニンが気がついていない、ということは考えられない。
きっとそれは意識的に述べなかったに違いない。
レーニンが革命を起こし、ドイツとの講和をしてしまったことに対し、ロシア国民は大いに憤慨したわけであるが、レーニンは対外戦争というものが金の無駄使いという認識を持っていたのかもしれない。
そういうものの見方をすれば内戦であろうと、農民からの食料の略取にしたところで、ある意味で金の無駄使いでしかない。
彼の認識に立てば、第1次世界大戦というのは、時の為政者であるニコライU世が趣味で戦争をしたという捉え方をしていたのかもしれない。
だから革命後のレーニン達にしてみればそういう無駄な戦争で金を浪費することは許しがたい行為と受け取ったのかもしれない。
対外戦争が金の無駄使いということは古今東西普遍的な事で、帝國主義による領土拡張という発想は、その無駄を自国にとって利益あるものにする、という考え方で成り立っている。
少なくとも戦争を政治の延長と考えた場合、戦争をするということは、金のもっとも非効率な使いかたなわけで、一番効率的なものは外交という口先だけの、乃至は話し合いで相手を味方に変えることが出来れば、それが一番自国の国益に適う事である。
ところが相手にも自尊心があり、国益があり、民族の誇りがあれば、口先だけでは騙されず、抵抗することになるわけで、この抵抗は必然的に武力の行使という事になる。
これと同じ失敗を日本もしているわけで、それは中国の戦争であり、その戦争が金食い虫であったが故に、我々はアメリカとも戦わねばねばならないことになってしまったわけである。
しかし、私の個人的な主観からすれば、対戦中のドイツに対して勝手に講和を結べば、相手に見透かされて、領土的、乃至は国益的に大いなる妥協をしなければならないことは火を見るより明らかである。
それでもそれをしてしまうということはロシアの人民を見捨てるということに他ならないと思う。
この当時のことを写しているフイルムが残っているというのも実に不思議なことで、それを丹念に集めてイギリスのBBCが「赤い帝国」という番組にしてそれをNHKが放映していた。
平成3年のことで、ソビエトの崩壊を機に、ソビエットの過去をそれを体験した人に語らせるという企画で、実に良く出来た番組であるが、それにこの時代の光景が映し出されている。
ロシア革命が1917年で、1921年にはクロンシュタットという軍港で水兵の反乱が起きた。
この「クロンシュタットの反乱」というのは赤軍内部の反乱であるが、白衛軍と赤軍の抗争という性質のものではないところがミソである。
つまり、赤軍内部の共産主義体制の憤懣が噴出したということを表しているわけで、これを鎮圧したのが赤軍のトップであるトロッキーであったわけである。
この1917年から21年の間というのは、ロシア内部で白衛軍と赤軍の抗争、内戦が各地で展開していたわけで、これが私の言うところの同胞同志の血で血を洗う抗争であったわけである。
それが最後には赤軍同志の果たし合いになってしまったわけで、まさしく混沌そのものである。
そういう状況であれば、当然、諸外国も干渉に乗り出してくるわけで、日本のシベリア出兵ものこの時に起きているわけである。
ただし、これは戦後の日本の平和主義者が思っているように、日本だけが勝手にシベリアに出兵したわけではなく、西洋先進諸国というのはこぞってロシアの革命に干渉したわけであり、日本が軍国主義だったから日本だけがシベリアに行ったわけではない。
日本は西洋先進国と同じ行動をしようとしたに過ぎず、いわば「バスに乗り遅れるな!」という状況であった。
ところがこの派遣された日本軍というのは実に弱くて話にならない。
日本は日露戦争で勝利を収めたので、ロシア人をロスケなどと蔑視していたが、実のところ日本はそれ以降の対ロシア戦争では悉く敗北している。
1939年、昭和14年のノモンハンでも然りである。
一度勝利を収めるとそれがその後も続くものと、すぐに思いあがり、それが我々の浅はかなところであり、一度負けると、身も心も相手に屈服してしまい、敵愾心まで喪失してしまうところが日本民族の潜在的特性である。
我々、日本民族というのは歴史から教訓を学ぶということが非常に下手である。
このシベリア出兵にしろ、ノモンハン事件にしろ、我々はロシア、いやソビエットに負かされているにもかかわらず、その敗因の研究がおざなりであった。
物事を科学的な考察によって決する、ということをせずに精神力でカバーしようとするところが非常に稚拙である。
太平洋戦争に日本を引きずり込んだアメリカは、戦争の開始前から日本を研究していたわけで、日本の弱点を学問的に考察しており、それにそって日本を締め上げてきたわけである。
我々は日本の歴史の中で、有史以来仮想敵国でありつづけた中国やロシアについてその本質に迫る学術研究ということをしたであろうか。
我々は勝負の世界で、勝った原因や負けた原因を追求しない事が武人としての潔さ、という意識を持っている。
そういうこと言ったり考えることは「負け犬の遠吠え」という印象が強く、「負け惜しみ」という感覚を持っている。
だから勝った理由を研究したり、負けた原因を追求する事に非常に杜撰なわけである。
そういう心情が根底にあるものだから、責任追及が曖昧になってしまい、「勝負は時の運」ということで、責任者に対して徹底的に責任を追及するということをしない。
戦後の極東軍事裁判、いわゆる東京裁判にしても、あれは戦勝国が彼等の論理で太平洋戦争の日本側責任者とおぼしき人達を裁いただけで、我々、日本民族に中からあの戦争に対する責任を追求したものではない。
よって我々には歴史から学ぶということがほとんど無いに等しい。
戦後50年以上に及ぶ平和な時代というのは、我々の過去の歴史に対する真の反省の上に立った、民族の内部からフツフツと湧き上がる再生のエネルギーの上に構築されたものではない。
ただただアメリカの傘の下で無為徒食していたら、周囲の状況が今日の結果になってしまっただけのことで、我が民族の力でこういう結果を引き出したものではない。
我々はただただ念仏を唱えていただけ、米ソの二大大国が勝手に日本の潜在能力を利用し、勝手に崩壊し、我々は川の中の浮き草のように、あっちに行ったりこっちに行ったりしているうちに飽食の時代にたどり着いてしまったわけである。

グルジアのスターリン

ロシア革命の直後1918年にグルジアが独立を達成した。
レーニンの掲げる共産主義というものは、基本的に民族の独立を容認することを建前とはしていたが、これが文字通りに実施はされていなかった。
独立後のグルジアには共産党員が派遣されてきて行政を牛耳るようになった。
その実情がグルジア人の神経を逆なでしたので、それに対する不満は逐次モスクワに報告されていたが、それに対する処置の指揮を取ったのが同じグルジア出身のスターリンであった。
ところが、これら共産党員の行為というのは、同胞、いや正確には党員の悪行をカバーし合う方向にあったわけで、お互いの傷口をなめ合うに等しい事をしたわけである。
そのことは簡単に言ってしまえば、グルジアの民族自立を叫ぶ人々を全部殺してしまうということに他ならない。
事実はその方向に歩んだわけで、自分の気に入らない人間を片端から殺してしまうということは、最も安易な行政的指導権の発露に違いない。
共産党というものが革命を基本的理念としている以上、人命の軽視ということは潜在的にその思想の中に包含しているわけで、共産主義者が目指す社会主義国というユートピアは、人々の屍を越えなければ出来ない、完成されないわけである。
この一度は独立したグルジアを再び共産主義の傘下に強引に引き入れたということは、最も顕著な帝国主義的領土拡大に他ならない。
レーニンが革命の命題とした、帝国主義というものが、その足元から再び幽霊のごとく湧き上がったわけで、ドイツとの戦争を「帝国主義戦争だから」という理由で、大幅な妥協を以って停戦したと同じ理由で、今度はグルジアという若い独立国を蹂躙してしまったわけである。
これも共産主義の大きな矛盾であるが、こういう矛盾も、共産主義に掛かれば整合性を持ってしまうわけである。
それには国を上げての、いや共産党員の、夢に浮かれたデマゴーグやキャーンペーンでその矛盾を塗りつぶしてしまっているからである。
農民との食料調達の戦いにおいても、ロシアの農民というのは非常にしたたかで、盗られ放しではなかったわけであるが、基本的に彼らは戦うことで生きているのではないため、最終的には略奪に屈し飢えに苦しむという結果に至った。
農民というのは、ロシアにおいても、中国においても、日本においても、基本的に食料を生産する人々ならばこそ、行政の側としては大事にしなければならない。
ところが現実の農民の作業というのは、知的な行為には見えないので、どうしても蔑まれがちである。
事実、知的には教育というものに彼らは価値観を置かないので一見愚鈍に見えるが、彼等には経験から得た知恵というものがあり、その知恵で以って行政に精一杯抵抗したわけである。
それにもまして人間の集団には必然的に統治するものとされるもの、支配する側とされる側という階級が生まれるわけで、それは革命で倒したはずの旧体制においても、革命後の新体制においても立場が交代しただけで、農民にとっては真から開放されたわけではない。
農民が開放されるということは人類社会の中ではありえないわけで、食料を生産するという宿命を背負っている限り、常に誰かに管理されるのが農を営む人々の宿命でもある。
政治ということは、農を営む人、工業を営む人、商業を営む人達をいかに管理するかということである。
共産主義というのは、その理念の中に、農民を解放して、彼らから統治されるという意識、支配されているという意識を払拭するつもりであったに違いない。
しかし、そんなことが実現しうるはずが無く、それはあくまでも画餅に過ぎない。
理論的には出来ても、理論では人は生きていけれないわけで、現実には革命と反革命の渦巻く混沌とした世の中で、誰かが食料というものを生産しなければならないが、農業というのは自然の力が非常に大きく作用する生業で、人が理論的に考えただけでは生産の向上が図れるものではない。
地域の特性、土地の特性、そこに住む人々の生活環境・習慣等に非常に大きく左右されるもので、農業をしたこともない都会の人が、理論的に机上で考えても、その通りにはなかなか目標が達成される性質のものではない。
反革命に対抗しようとして作った赤軍でも、この組織を維持しようとすれば、必然的に食料の調達をしなければならず、行政システムが完備していれば、それはスムースに遂行されるであろうが、そういうシステムが機能していない以上、無理やり農民から調達するほかない。
事実その通りのことが行われ、反革命の鎮圧が農民からの食料略奪に衣替えしてしまったわけである。
レーニンにしてみれば、こんな状況をそう長く放置しておくわけに行かないことは当然で、さまざまな施策を打ち出しては見たものの、ロシア全土が革命と反革命に揺れ動いている間は何とも手のうちようが無かったに違いない。
人が人を統治するということは、権力を持つか持たないかの違いである。
統治する側というのは、人を管理する権力を持っているわけで、統治される側の農民とか一般大衆というのは、その権力を持たないわけであり、政治を行うということは、その権力を如何に保持し、相手から奪還し、継続して維持するか、という事である。
革命の前においてはロマノフ王朝・ニコライU世が全ロシアを維持管理、統治する権力を握ったいたわけであるが、彼が退位したことにより、それがボリシビキーという政党に移行し、それをレーニンはまたまた共産党に移行したわけである。
ところが共産党の内部で不満が鬱積し、仲間割れが生じたのが先に述べた「クロンシュタットの反乱」であり、グルジアの独立とその弾圧であり、その他諸々の反乱であったわけである。
この権力というものは実に不思議なもので、人間が作っている組織というものは上下の階級を必然的に作ってしまうが、これが自然に権力というものに昇華してしまうところが実に不思議である。
共産党内では階級というものを否定しているわけで、そのことは皆が公平に平等なはずであるが、党内においては明らか党員の間に上下の階級が存在しているかに見える。
上下の関係が強烈だからこそ、そこに巨大な権力が生まれてくるわけで、皆が一様に平等であれば、権力というものは一切存在しないに違いない。
赤軍内部では旧態勢の軍隊の様に、その組織内においては階級がなく、指揮官とそうでないもの、という2種類の階級しかなかったと言われているが、それならばそこには権力の介在する余地はないということにならなければならない。
ところが実際にはそうではなく、共産党員というものが非常に大きな殺生与奪の権力を持っていたわけで、穀物を提供しなかった農民は悉く殺されてしまったわけである。
こういう実績、「言うこと聞かなければ殺す」という実績が、またまた権力の再生に寄与しており、人々は共産党の言う事を聞かないと命を落としてしまう、という恐怖感で従順にならざるを得なかったに違いない。
それがまたまた権力というものを大きくして、共産党員が一言いえば、それに従わざるを得ないという状況を作り出したものと考える。
権力というものは、人間が社会的な組織として集団を形成する以上ついて回るもので、統治するものとされるものの階級に必然的に付属するものである。
権力に抗するということは、その反作用として、処罰とか、責任の追及とか、個人の重荷という形でフィード・バックしてくるものである。
それの恐ろしさ故に、人々は権力というものに反抗することなく、権力の命ずるまま行動をするわけである。
戦後の日本においては、この権力に歯向かうことが進歩的な行為だという風に思い違いの認識が広がってしまった。
その事に対して日本に知識人というのは一向に自覚をし、覚醒しようとしないのも不思議なことである。
政府とか行政に携わる人々の考えることはみな間違っており、それには反対することが進歩的なことだ、という思い込みに深く深く嵌りこんでいる。
政府とか行政サイドが計画するということは、その背景に国民、市民、地域住民の利益になるであろう、という思考に基づいてあらゆる施策が考えられているはずである。
ところがダム一つ作ればそれにともなうマイナスの影響は免れないし、橋一本作ればそれにともなう住民の利害得失が変化することは致し方ない。
その事を真摯に考えれば、そべての人が100%満足しなければ罷りならぬ、という発想はただ単なる思い込み過ぎない。
しかもこういう行政の施策を「権力の横暴」という捉え方をするのは、論理の飛躍以外のなにものでもない。
この時代のロシア・ソビエット連邦でいうところの権力というのは、こんな生易しいものではなく、力による国民、市民、一般大衆の弾圧そのもので、そういう状況が彼ら進歩的知識人の崇める共産主義国で行われている事も知らず、反政府運動に血道を上げていた彼ら進歩的知識人というのも実にお目出度い人々といわなければならない。
我々の歴史でも治安維持法があったときには人々はまことに権力に従順であったわけで、行政サイドの言う事には一言一句反抗しなかったけれど、世の中が逆転したら最後、掌を返したように反抗的になったわけである。
それが日本をリードすべき戦後の日本の知識人の姿である。
権力というものは、権力そのものが大きな力を持っているわけではないが、それに抗する時の反作用として、自分に降りかかってくる罰則に対して人々は恐れおののくわけである。
で、1918年かろうじて独立したグルジアにおいては、共産党中央から派遣されたマハラーゼという人物が、それこそ権力の横暴をきたしていたので、グルジアの共産党は中央に対して何度も抗議をしたが、逆にそれに対して、人民に対する弾圧のほうが強くなってしまい、共産党の掲げる民族自立が有名無実に陥ってしまったわけである。
この時、このグルジアの自治を踏みにじった最大の人物が、同じグルジア出身のスターリンであったわけで、レーニンはこのスターリンのことをもともと良くは思っていなかった。
特に、スターリンに権力が集中することを危惧していたわけであるが、その後の歴史は、その危惧が現実のものになったわけである。
レーニンは1924年1月21日この世を去ったが、この時点ではレーニンの意思を次ぐものは共産党内に事実上存在していなかった。
よって文字通り、挙党態勢で全員一致してことにあたらねばならない、という雰囲気であったが、その中で党の人事を司るセクションにいたスターリンが台頭してきた。
彼は、書記長に1922年に就任していたが今一つ目立った存在ではなかった。
そのスターリンがレーニンの椅子を独り占めしてしまったわけで、ここから暗黒政治が始まったわけである。
混沌の次の暗黒である。

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