その3 革命と反革命

人の自然の生き様

革命で旧の秩序を全否定して、統治するものとされるものが入れ替わったということは、この様相をもう一つ別の観点から見れば、人を統治する経験の無いものが、人を支配する立場になったということでもある。
この人を統治することの経験の有無ということは、非常に大きなポイントだと思う。
旧来の封建思想のもとでの領主とか、地主、貴族というのは、自分の隷下の人々を、生かさぬよう殺さぬよう管理するのがその支配のテクニックの妙であったわけである。
生かさぬよう殺さぬよう、絶妙のバランスで自分の隷下の人民を管理運営することが、こういう人々の処世のテクニックであったわけであるが、そういうものを一切否定してしまった以上、統治のテクニックそのものが存在しえない状況になってしまったわけである。
そういうテクニックを備えていない人間が、共産党員というだけで、人々の上に君臨したとすれば、円満な社会が出来るわけがない。
こういう状況で、それは革命の時期であり、過渡期の出来事であったから致し方ない、という言い訳は通用しない。
この当時のソビエットの政治家というのは、非常に宣伝が上手であった、ということは言えている。
例えば、レーニンの言った土地の国有化というのは、あの時代の農民にとってはこれ以上の夢物語はないわけで、今まで生かさぬよう殺さぬよう生死のぎりぎりの線でかろうじて生かされていた者が、自分の土地がもらえ、好きなようの耕作できるとなれば、奴隷解放にも等しい開放感に満ちた宣伝であったに違いない。
ここには土地を解放した後の作物の徴収ということには一言も触れていないわけで、共産党も、農民に土地を無償で分け与えるだけではなく、その後には、当然作物の徴収ということも考えていたに違いないが、そういうマイナスの部分は公言せずに、夢物語の部分のみ公言してはばからないので、無知な農民がその気になるのも致し方ない。
マルクスとエンゲルスが思考を巡らしていた時代、状況というのは、封建制度から近代の工業化された社会に移行する途中の時代であった、ということは言えるが、そういう状況の中で、金持ちと貧乏人の格差がこれから先ますますひどくなる、ということを想定した上での発想である。
ところが世の中というのは、そうそう予想した通りの軌跡を歩むことは少ないわけで、マルクスとエンゲルスが予想した社会というのは間違っていたわけである。
しかし、革命の渦中にいる限り、その予想が間違っているということは分からないわけで、こういう宣伝に躍らされた民衆、大衆というのは、いわば知性豊かな人達ではなかったわけである。
戦後の日本の左翼の人々は、こういう革命を成した諸国を理想郷のようなまなざしで見、語ったわけであるが、その背景の心理には、今自分のいる環境はこの先ますます金持ちと貧乏人の格差が大きくなるに違いないという妄想があったので、そういう理想郷への憧れとなったわけである。
ロシアばかりでなく、日本においても封建的な農村社会から近代化した工業社会に移行する過程においては、さまざまな軋轢を克服してきたわけであるが、私が旧ソビエット連邦を嫌悪する最大のポイントは、この過程において同胞を数限りなく死に追いやったという事実である。
日本の左翼の人々は、その過程を知らずに、社会主義国は理想郷のようなものだ、と思い違いをしているが、その内側では同胞による同胞の殺戮が数限りなく行われていたわけである。
同胞による同胞の殺戮というのは、ある意味で内政問題なわけで、他国が干渉する筋合いのものではない、と言ってしまえばそれまででであるが、人道的な見地に立てば許されることではない。
共産党および共産主義者というのは、こういう人道上の倫理よりも、自分達の主義主張を優先させ、党の確立、党の権力維持、党への忠誠心のほうを優先させるので、同胞による同胞の殺戮がまかり通るわけである。
世の中の旧来の因習、習慣、秩序というものを全部否定するということは、別の意味で、無政府状態を作るということに他ならず、それを支配できるのは暴力、銃器による威圧と強制、抑圧しかないわけである。
貧しい農民にとって「今までは地主の土地であったが、それをおまえ達に分配するから一生懸命働け」と号令を掛ければ、それはその農民を統治するのにまことに都合のいいキャンペーンになることは間違いない。
無知な農民や労働者はそういう甘言にいとも簡単に引っかかるのも致し方ない。
革命の主体は一般大衆だとか、農民だとか、労働者という言い方をしがちであるが、こういう大衆とか農民、労働者というのは、その前に「無知な」という冠詞がいるのである。
革命を語る側の人はいずれも有識者であって、無学文盲の大衆の側は決して革命を語ることはないわけである。
で、有識者の側からすれば、革命の主体が無学文盲の大衆であるにもかかわらず、そのことを声を大にしては言えないわけで、なんとなく大衆一般というものが理知的で聡明な人々であるかのような言い方をしているわけである。
マルクスも、エンゲルスも、レーニンも自分の演説を聞いている大衆に向かって「おまえ達は馬鹿でアホだ!」と云う事はいえないわけで、これは政治家たるもの誰もが同じであるが、統治する側としては統治される側に対して決してこういう言質は使えないが、心の中ではそう思っているわけである。
これは政治家たるもの全てがそうであって、政治をする側からすれば、選挙民乃至は一般大衆というのは「烏合の衆」でしかない。
問題は、その「烏合の衆}の方が演説をしている方を信用するかどうかである。
1917年のロシア革命というのはレーニンのアジテーション、つまりアジ演説をロシアの無学文盲の一般大衆、農民、労働者という人々が悉く信用してしまったわけである。
革命を語る人達が、その革命の主体である農民とか労働者に対して、無学文盲のという冠詞を省略ないしは故意に使わないので、それを聞く側としては、革命の主体は理知的で、倫理観にあふれた立派な紳士、淑女がプラカードを持って立ちあがったのか、という印象を受ける。
統治する側の人達が常に理知的で、有識者ばかりとは言えないが、一般大衆というのは無知で、利己的で、自分のことさえ良ければ人を押しのけてでも得をしたい、という人が多いのも確かなことである。
これが人間としての自然の姿であって、そのことを恥じる必要はないが、共産主義というものは、この今までの普遍的な人間の自然の姿を無理やり変更しようというものである。
19世紀までに、人間の本質の自然の帰結が、封建領主や大土地所有者や大商人の誕生を生んだわけで、いわばそういう階級というのは、この時期に至るまでの歴史の集大成でもあった訳である。
それを全面的に引っ繰り返して、新しい、理知的で、貧しい人々の天下にしようとしても、そこには人間の英知としての統治のテクニックが必要なわけで、そういうことを考えずに、ただただ貴族や土地所有者や大富豪を殺して、労働者や農民が統治する側に回ったところでそうそううまく行くものではない。
力で統治するためには、武力を背景とした軍隊が必要になったが、今度はその軍隊を食わすところまで知恵が回らず、力を持った軍隊は、その力を農民に向け、力づくで食料を略奪しなければならなかったわけでる。
この過程を今の時点で見るにつけ、この時のロシア人というのは、一体何を考えていたのであろうか、という不思議さを感じずにはおれない。
これは革命という大儀のもとにある共産主義というものが、如何に人命を軽視していたかという事に他ならない。
革命の前には農民の命などあって無きに等しかったわけでる。
後世の進歩的な知識人、特に日本の左翼系の有識者というのは、こういう歴史上の事実に目をつぶり、共産主義革命というのは万人に幸福をもたらすもの、という宣伝にこれ相努めたわけであるが、これも知識人なるが故に、こういう無知蒙昧な人々を現実の目で見ようとしなかったからであると思う。
大学教授や知識人が、自らの言葉で「奴らは馬鹿だから共産主義者にだまされている」という低俗な表現が出来ずに、難しい言葉を羅列して、さも高級そうな理論を振りまいていたに過ぎないわけである。
現実の人間の世界というのは、こ難しい言葉では論じきれないわけで、人間の考えることというのは、その経験以上のものはありえないと思う。
自然科学の分野においては真実は一つである。
しかし人間の動き、人間の心理に関する社会科学の分野においては、真実というものはありえず、過去の人間の歴史の繰り返しがあるに過ぎない。
だとすれば、過去の人間の経験に素直に順応したほうが平和な状態が継続するに違いないし、そのほうがこの世に生を受けている人間にとってより幸福なわけである。
人が自然に順応して生きているとそこには自然発生的に貧富の差というものが生じてくる。
社会が豊かになり、教養というものが普及してくると、貧富の差の存在に疑問を持つようになり、貧しい人々を何とか救済しなければならない、という思考に陥る事も極めて自然な人間の思考の帰結である。
人間の持っている自然な思考の中でもそれは英知に等しいと思うが、それは同時に人間の善意である。
そして人の善意というのは往々にして独善的な思い込みに陥りがちである。
「困っている人を助けなければ」という発想は、その人の心根がやさしいからそういう善意となって発露されているわけであるが、それは客観的な独り善がりな思考で、はたから見ればいかにも困っていそうで、何とかしてやりたいと思えたとしても、当人は一向にそれを困ったとは思っていなかったかもしれない。
後述するが、旧ソビエットが遊牧民を無理やり農耕民族にしたてようとして、ここでも無用な殺戮を繰り返した事がある。
同じソビエット内に住む人々でも、モスクワに近いヨーロッパ地域に住む人と、広大で牧歌的な地域で遊牧生活を送っている人々では、その生活感覚はまるっきり違うわけで、草の中でテントで生活をしている人を見て、家もなく困っていると勝手に思い込んで、無理やり移住させようとした。
遊牧民の方にして見れば、自分達は先祖代代こういう生活をしてきたので少しも困ってはいなかったが、ヨーロッパ人の感覚からすれば、さも困っているに違いないと思えたに相違ない。
よって、こういう惨劇が起きたわけである。
これは善意に名を借りた独善に過ぎない。
旧ソビエット連邦が自分のテリトリー内の遊牧民を無意味に殺戮した本当の理由は、共産主義に無理やり帰依させようとした、ということは論を待たない。

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