その3 革命と反革命

平成11年6月6日 共産主義・その3 革命と反革命

革命とは同胞の殺戮である

ニコライ2世が退位して、その後に臨時政府が樹立されたとは言うものの、この時点で、既に穏健派であるべきメンシビキーの方はボリシビキーに圧迫されていたわけである。
革命というものが同朋を殺してからでなければ成就し得ない性質のものである以上、こういう両派の確執は必然の成り行きには違いない。
特にレーニンという人物が革命ということを最優先にしている限り、ロシアの人々の、血で血を洗う抗争というのは必然的な成り行きであった。
社会主義社会を建設するという共通の目的を作るのに、片一方は議会制民主主義を経てそれを成すというのに、もう片一方は、そんな生ぬるいことでは達成できないので、血と暴力で一気に成し遂げなければならない、という主張は当時のロシアの人々にはある程度の共感を持って受け入れらたに違いない。
西洋人、ヨーロッパ人の発想というのは、アジア人、特に我々、日本人には理解し難い面が往々に見られる。
彼らは階級の差というものを天与のものとする感がある。
たとえば、貴族と農奴というものを比べた場合、その双方で、お互いを異星人と見ている節がある。
貴族側にしてみれば、農奴を見るとき、相手を人間としてみるのではなく、犬か猫並みの家畜としか見ていないし、農奴の側も、相手を人間ではなく、人の形をした宇宙人にぐらいにしか見ていなかったわけで、この双方にお互いを理解するという気持ちというのは全く無かったに違いない。
この部分を突いたのがマルクスとエンゲルスの「共産党宣言」であったわけで、レーニンも、従来の統治する立場にいた人々を人間として見ておらず、或る意味で、彼の同朋すらも自分の願望を成就する手段ぐらいにしか思っていなかったに違いない。
前にも述べたように、彼ら共産主義者というのは、同胞を救うとか、同朋の待遇改善を図る、という生半可な社会改革を目指していたわけではなく、あくまでも共産主義者による、共産主義者の革命を目指していたわけである。
そこには同朋に対する愛情とか、祖国に対する愛、主権国家の国益という、従来の価値観は何一つ無かったわけで、ロシア人がお互いに殺し合わなければならない状況を何一つ改善することは無かったわけである。
全く文字通りの無政府状態であったわけで、上は元貴族から下は農奴に至るまで、銃のみが法律であり、秩序であり、生存権であったわけである。
こう云う事は我々日本人には考えられないことで、日本でもこの時期、米騒動という暴動が起きているが、血にまみれた暴動とはいささか趣を異にしている。
ロシアの革命と日本の世直しの違いは、大衆に武器が出まわっているかどうかの違いではないかと思う。
この米騒動というのも、凶作の為に食うに食えない人たちが、ある意味で暴徒化したわけであるが、そこには武器が無かったので、それが革命のようなものに発展し得なかったわけである。
日本は豊臣秀吉の時代から刀狩と称して、庶民、武士以外の階級のものが武器を所持することは禁止されており、武器が市中に出回っていない世の中であった。
近代に入って、工業が発達した後になっても、飛行機とか戦艦というような巨大プロジェクトとしての武器の製造ということは国家を挙げて推進したが、銃のような小火器に関しては、作ろうと思えば工業的にいくらでも作ることが出来たにもかかわらず、国民が個々に銃を持つという発想が最初から無いものだからそう云う状況に至らなかった。
今日においてもそれは引き継がれているわけで、我々が「銃こそ個人の確立の基本である」という発想に陥っていたとしたら、60年代安保闘争や成田闘争の度毎に革命を行っていたに違いない。
しかし、西洋人、ヨーロッパ人の発想というのは、「個人の意思の確立は、銃という後ろ盾がなければあり得ない」という発想で以って、銃というものの扱いに非常に寛大なわけである。
近代工業の曙の時代におけるロシアでも、銃だけは豊富に出まわっていたと云う事は、我々の発想からは理解し難いことである。
我々には「気狂いに刃物」という差別用語というか、危ないことを象徴する俚諺があるが、この時代のロシアの状況というのは、まさしくその一語に尽きるわけである。
無学文盲の農民、農奴が、銃を持って、従来の社会秩序を破壊したわけで、傍観者として、この有様を見れば、「烏合の衆」がそれぞれに好き勝手なことをしていたということになる。
革命というものは基本的にこういうことではないかと思う。
政府の要人だけ殺せばそれで世の中が四方八方丸くなるとは到底思われない。
政府の要人だけを殺したところで、それまでのシステムを維持してきたもろもろの機構も破壊しつくさねば、新しいシステムが作れないわけで、それまで殺人を続けなければならないことになる。
ロシア革命の軌跡はその通りの事を実施してきているわけで、新しい理想のもとに、新しい国家建設をすると云う事は、自分の国の国民を際限もなく殺しつづけるということに他ならない。
革命と云う事はこう言う事で、それは中国においてもこれと同じ軌跡を描いている。
1917年、ロマノフ王朝が崩壊して、臨時政府が出来た時点で、ロシアの状況はまさしく無政府状態であったわけで、いくらなんでも、こういう状況は何とかしなければならないと思うのは誰しも同じであったに違いない。
その上、まだ戦争は継続しているわけであり、これも何とかしなければならなかった。
臨時政府としては、今までの行きがかり上、行政システムが機能していないとは言うものの、それを放り投げてしまうわけには行かなかった。
けれども、多数派を占めるレーニン率いるボリシビキーというのは、そう云う政府というか、統治する側というか、既成のシステムに対して真っ向から反対なわけで、ロシア国民の一部でありながら、ロシアの国益を自ら引き下ろそうとしていたわけである。
そして、その言い草は、今から見ると実に滑稽千万である。
レーニンが1917年4月に行った宣言の中に4月テーゼというものがある。その中の文言には
第1、 臨時政府の行っている戦争は帝国主義戦争である。
第2、 現在、革命はブルジョアジーが権力を握る最初の段階からプロタリアートの手に権力が移る第2の段階への過渡期である。
第3、 臨時政府を一切支持しないこと。
第4、 労働者代表ソビエットは唯一可能な革命政府の形態である。
第5、 「一切の権力をソビエットへ!」を宣伝せよ、
第6、 すべての土地を国有化する
というもので、まさしく共産主義そのものの具現化に他ならない。
この中で最初の項目の「帝国主義戦争だから今ただちに戦争を止めよ」という主張は一般大衆の支持を得やすい項目である。
戦後の日本でも同じ情況を呈したわけで、一般大衆というのは、戦争というものを非常に嫌悪するのが地球上の人類の普遍的な心情である。
にもかかわらず、地球上のあらゆる民族で、統治する側の号令によって、一般大衆なり、国民が、戦争に狩り出されるというのは、やはり祖国に対する忠誠の証として行政側に協力せざるを得ないからだと思う。
近代の主権国家というのは、大昔のように、自然の木の実を取ったり魚を採ったりして生きているわけではなく、社会という相互扶助のシステムの中で、協力し合って生きているわけで、農業をして食料を確保する人、侵入者を防ぐ人、着るものをこしらえる人、と社会的分業をしながらお互いに助け合って生きているわけである。
その中で行政を司る人が政治家なわけで、ロマノフ王朝というのは、ロシアという土地で代々行政を司る立場の人であったわけである。
戦争というのも、その行政の或る特定の状況下の形態なわけで、それが帝国主義的であろうと無かろうと、戦争を行為している人々、つまり兵隊、軍隊の組織の中の人としてはあづかり知らぬことで、彼らにしてみれば、ただただ勝つことのみを考えればいいわけである。
戦争に勝つということも確かに行政の一環であり、政治の延長線上のものである。
人を適材適所に有機的に配置して、全体として勝利の方向に導かなければならない。
つまり、システムとしていかに人を動かすかということに他ならない。
この時の第1次世界大戦というものが帝国主義戦争であったことは紛れもない事実であろうが、だからといって、後方にいながら、前線ではまだ同朋が戦っているにもかかわらず、嫌戦的なスローガンを掲げては、前線で戦っている同胞を裏切っているに等しい。
共産主義革命というのは、こういう裏切りを数限りなく行っているわけで、そこにある深層心理というのは、同胞を救うということよりも、革命の成就のほうが優先するわけで、同朋の命など最初から眼中に無いわけである。
帝国主義というものが、他国の民衆の圧迫の上に成り立っているものであるとすれば、共産主義革命というのは、同胞の裏切りによって築かれたものに他ならない。
共産主義者が帝国主義者を嫌悪する筋合いというのもおかしなもので、この両方が、武力というものを背景としながら、片一方は他国を侵し、もう一方は同胞を血祭りに上げているわけで、こういう見方をすれば、何が正しくて、何が間違っているのかさっぱり見当もつかなくなる。
その後の歴史の流れは、まさしくその混迷の通りのことが行われたわけで、革命に対して、反革命の勢力が起きてきたわけで、これは当然に成り行きである。
革命を遂行する側がいくら既存の行政システムを攻略して政府の主要施設を確保した所で、それはあくまで点の存在でしかないわけで、それが面の存在に至るまでには相当の血が流されたわけである。
革命軍にいくら兵隊が混ざっていようとも、軍隊の組織が一朝一夕に消滅するものでもなく、旧体制の残滓としての抵抗というのはあるのが当然である。
その上、ロシアというのは広大な領地があるわけで、革命が伝播していくのにも時間が掛かる。

力の根源としての軍隊

革命を遂行する側としては、占領した行政システムを一刻も早く回復して、自らの施政方針を打ち出さねばならず、そのためには軍のシステムを構築して、力、武力、軍事力を自らの同朋に向けざるを得ず、銃による抑圧以外にこういう激動の時期に人々を押さえ込む手法はありえなかった。
革命を遂行する側としてのレーニンは、首謀者として崇め奉られているが、言葉で民衆を説得することは出来なかったわけで、そのために彼はまず最初に軍隊というものを創設しなければならなかった。
前線で戦ったいる軍隊というのはあくまでも旧体制の軍隊であるので、それとは全く別のものが必要であったわけで、それが赤軍の創設ということになったわけである。
この辺りの変遷をわかりやすく要約してみると、1917年二コライ皇帝が退位したので、ロマノフ王朝は消滅し、臨時政府が出来た。
この臨時政府はまだ第1次世界大戦を継続中であったので、通常の理解では、ロシア軍はまだドイツと交戦中であったため、臨時政府の中のボリシビキーは、その戦争を終結させることに勢力を集中させた。
しかしそれは従来のロシアの国益とは真正面から対峙するものであった。
歴史の流れは、勢力を得たボリシビキーが戦争を集結させてしまったので、ロシアの国益は大幅に減じてしまった。
第1次世界大戦そのものが帝国主義戦争であったので、勝った側は何かしらの国益、領土の拡張、権益の確保は至上命令・命題であったわけである。
臨時政府の中のボリシビキーが、ロシアの国益をあっさり放棄してしまったのは、国内の事情がきちんと定まらず、各地で反革命の動きがあったので、国益よりも国内の平定の方を優先させたわけである。
ロシアの国内を平定するためには何といっても軍事力が必要なわけで、そのために徴兵制をしき、人々を狩り集めて軍隊らしきのもを作ったけれども、これが未経験者ばかりで一向に埒があかず、軍隊の体を成していなかった。
革命をしでかした労働者や下級兵士を寄せ集めてきたところで、精鋭な軍隊が一夜にして出来るわけもないが、この時点の共産党員にしてみれば、そんなことは言っておれず、急遽赤軍というものを作ったわけである。
考えてみれば、政党としての共産党が軍隊を持つということもおかしな事である。
その反面、ソビエットという単語は、その中に兵士の存在というものを内包した言葉でもあるわけで、軍隊の無い共産主義というのもありえないということも言える。
しかし、今の時点で、特に日本の政治状況から見て、臨時政府というものが、既存の軍隊とは別に、新たに軍隊を持つということの不思議さというのもおかしなものである。
こういう状況は大雑把に言って、無政府状態というのが一番適切な表現ではないかと思う。
こういう状況をとにもかくにも平定するには、武力以外ないわけで、その意味からして、赤軍の創設というのは、必要不可欠の成り行きであったのかもしれない。
だとすれば、既存の軍隊と新しく創設された赤軍との間で主導権争いというのものが必然的に起きてくるのも致し方ない。
これは軍隊の間だけの問題ではなく、あらゆる社会的状況の中で、旧体制と新体制の間で軋轢が生まれるわけで、その後の状況は当然の成り行きとして、その軌跡を歩むことになったわけである。
赤軍のトップにはトロッキーがおさまり、精鋭的な軍隊にしようと努力をしたが、しょせん集まってきた人々というのは、旧体制では食い詰めた人々、いわゆる無産階級、労働者階級の人々で、教養も、知識も、技能も何もない連中であったので、秩序そのものが成り立たなかった。
それも当然といえば当然の成り行きで、既存の秩序を維持しなくてもいい、という発想が根底にある以上、新体制においても秩序そのものが確立できないのも致し方ない。
いわゆる無法地帯であり、無秩序状態であるので、人々を管理することが不可能な状況であったわけである。
その上、共産主義の基本とする、万人がみな平等という意識を植え付けられれば、人を管理するということを頭から否定しているわけで、従来の秩序を否定し、その上人は皆平等であるとすれば、人をまとめて秩序正しい社会を作る、という目的を成就する事は最初から成り立たないわけである。
ただ単なる「烏合の衆」が集まって、無秩序の中で暴力のみが横行するという情況を呈するのも致し方ない。
これは革命に対する反革命という状況を呈したわけで、こうして駆り集めた赤軍は、当初機能的な組織になり得なかったが、時の経過と共に、旧秩序の中の経験者、いわゆる元の軍人を採用して指揮命令するようにせざるを得なかった。
赤軍の創設によって、新たに採用した有象無象の兵隊を管理するために、旧体制の経験者を雇い入れたはいいが、今度はその連中を管理監督する必要が生まれ、そのために取り入れられたシステムが軍事人民委員会という制度で、これは赤軍内の管理監督するものを監視するシステムであったわけである。
これがその後の悪名高いKGBの発端である。
いわゆる秘密警察というもので、その後のソビエット連邦の影の支配者になるわけである。
今の日本の状況から考えれば実に陳腐な政治システムであったわけで、こういう発想は、我々の中からは思いもつかないところである。
戦争に負けた日本は、一度は戦争放棄したけれど、朝鮮戦争という外的要因で自衛隊というものを作らざるを得ない状況に陥り、そういう選択を迫られたが、その自衛隊に旧の軍人が多く入ったので、それを監視する機関を作ったというようなものである。
激動の時代の中で、一度作ったシステムが、それぞれの組織の思惑で、勝手に自己増殖したのが旧のソビエット連邦の政治システムであったわけである。
赤軍が出来、それを監視するシステムが出来たとはいうものの、そういう人々に食を与えることが必然的に必要になった来るわけである。
けれども軍隊というのは何一つ食料というものを生産する場ではないわけで、革命によって行政システムが機能していない以上、食料というのは各自で確保する以外に道は無かったわけである。
こういう状況下で、人殺しのシステムとしての赤軍というのは、食料の確保に出向かなければならなかったが、社会が混乱状況に陥り、自らが無政府状態を作っている以上、整合性のある食料の徴収が出来るわけがない。
となれば無理やり力で徴収するほか無いわけである。
事実それを実行したわけで、このロシア革命の本質というのは、共産主義革命である以上、旧秩序の破壊と称する大義名分のもと、農民の新しい搾取と相なった次第である。
革命の過渡期という言い逃れは通用しないと思う。
そこにあるのは共産主義というものの人命軽視以外の何物でもない。
党の利益の前には、人の命など一銭五厘のはがきほどの値打ちも無かったわけである。
政権確立とその維持のために軍隊を作ったはいいが、それらの人々を食わすことには考えが及ばず、行政システムが機能していれば差ほどのこともなかろうが、それが機能していないものだから結局自分たちで現地調達するほかなかった。
つまり、農民から直接徴収するわけで、そのことは革命の前と後では徴収の主体が代わっただけのことであり、農民の搾取という点では全く変わらなかったわけである。
共産党のレーニンの4月テーゼでも言っているように、土地というものは国有化して、農民に平等に分配する、というのが共産主義の基本的理念であるが、こういう理念というのは、そう簡単に実行に移せるものではない。
土地所有の形態というのは、人間の営々とした歴史上の経験に基づいているわけで、その経験の結果として、この時代に至るまで封建的な土地所有というのは継続していたのであり、軍隊というものはそれに反し、何時の時代においても、非生産的なものであることに代わりはないわけである。
従来の統治者というのは、従来の土地所有の形態の中で、この非生産的な人々を飼う余裕を持ちつづけていたわけである。
ところが共産主義革命によって、世の中をいくら転覆して見たところで、この非生産的な人間の集団を維持する手法に至るまでは人間の知恵が作用しなかったわけである。
赤軍を作り、それを指揮監督するセクションを作ったところで、彼らは食料を生産するわけではないので、何処までいっても、ただただ食料を消費する側にいるわけである。
食料を自ら徴収すると云う事は、農家に行って略奪するということに他ならない。
何しろ革命直後で、そこには食料調達に関する法的基準というものは旧体制のものはともかくとして、そういうものを全否定している以上、新しい基準というものは全く存在していなかったわけである。
その状況というのは、山賊や夜盗が農村を襲い、食料を無理やり略奪する図と全く変わらなかったわけである。
これが革命というものの本当の恐ろしさである。
なにしろ今までの世の中を管理し、規範となっていた旧の秩序というものを全部否定し、労働者と農民を主体とした無産階級のものが、土地の所有も、富の集積も、人権も、事ごとくが皆平等にしなければならないという思考で、右往左往しているわけで、人を統率すると言う事を頭から否定している以上、その人間の集団というのは、なにも管理統率できていない「烏合の衆」と同じと言う事である。
まさに無政府状態で、そこから抜け出そうと思えば、武力を持って、暴力で人々を押さえるほかない。
その上、この革命というのも、挙国一致のうえの革命ではないわけで、広いロシアの国土では時間差があったわけである。
日本の明治維新でも一夜にして成し得たわけではなく、どうしてもそれが全国に一様に広がるためには時間差がある。
その間の国内というのは、まさに無政府状態で、新しい行政システムが確立するためにはある程度の時間が必要なことは何処の国においても当たり前のことである。
主権国家の再生には人々の血がある程度流されることもこれまた当然のことといってしまえば実も蓋もないが、その間の犠牲者のことを思えば、そうそう喜んでばかりはおれないのではないかと思う。
過渡期だから人々の犠牲もある程度致し方ないという弁解は、歴史の評価としては、自分よがりな思考だと思う。
こういう考え方をすれば、あらゆる従来の価値判断を許容してしまうことになり、今までと何ら変わることがない、と言わなければならない。
共産主義というものは、農民と労働者を取り込もうとして、そういう人々に受け入れやすい主題をちらつかせているが、人が人を統治し、治め、秩序ある社会を造ろうとすれば、どうしてもそこに力の作用がいるわけで、今までの封建主義社会ではそれが封建領主の土地支配の権力、経済力というものがその根底にあり、そういうものが一切否定された革命の後の時期というのは、どうしても従来の権力に変わるものを作り上げるまで混乱が続くことは致し方ない。
ところが、その混乱を平定するのもまた軍事力であり、武力という暴力であったわけで、「ソビエット」というものが農民と兵隊を中核とする社会であってみれば、この両者の戦いは熾烈にならざるを得ない。
農民は食料を確保しているが、兵士というのが一切食料の確保には貢献しえない立場である以上、この両者の間には確執が生まれるのは至極当然なことである。
平和なときであれば、その間に行政システムが機能して、力づくで農民から食料を徴収するなどということは起こりえないが、革命という大混乱の中で、旧体制を全否定するという時であってみれば、農民の方も政府の保護に期待できるわけもなく、生んが為に一切食料を手放さないように腐心するのも致し方ない。
問題は、武器を持っている軍隊が、農民から食料を力づくで取る、ということの倫理的な考察が必要なわけである。
太平洋戦争中、中国の南京を占領した大日本帝国軍が、南京の市民を何十万単位で殺害したという事が戦後問題視された。
又それとは逆に、同じ戦争中にアメリカは日本に対して原子爆弾を使用して、それこそ罪のない、非戦闘員の市民を、何十万単位で殺害した。
こういうケースと、ロシア人の軍隊が、自国の農民から力づくで食料を略取する行為を比べた場合、その罪の深さはどちらに軍配が上がるのであろうか?
倫理の面からすれば南京大虐殺も原子爆弾の使用も、一応交戦国同志の戦闘行為の延長と見ることが出来るが、自国民同志の食料の取り合いの殺戮というのは、納得できるものではない。
激動の時期だからといって許容出来る行為ではないと思う。
倫理的に見ても決して許されることではないと思う。
同胞を殺してでも政権を取らねばならない、という共産党の思考、乃至は共産主義というものの本質が基本的に問題なのではないかと思う。
政党というものがある程度政治的思考を同じくする人の集まりということは理解できるが、その政治的思考の中に、同胞を殺すことを容認する政党というのも不穏当極まりない。
最初からそういうことを標榜してはばからない政党が、既存の為政者から嫌われるのは致し方ないし、仮に政権を取ったところで、人を殺すことが容認されている以上、手を変え品を変え、同胞の殺戮というのは容認されつづけるに違いない。
その後のソビエット連邦の経緯はまさにその通りの道を歩んだわけで、こういう状況下で、人々を治めるには、武器による血の粛清で以って、人々を震え上がらせる恐怖政治しかこの無政府状態から脱出する手法は残っていないわけである。
武器による血の粛清で以って一応人々を押さえつけたとしても、それは革命によって支配するものとされるものの中身が変わっただけで、その政治、統治による人々の階級、階層の消滅につながったわけではない。
統治する人される人の階級、階層の消滅にはならなかったが、統治する側の人が入れ替わっただけのことで、統治される側の人は相変わらず無学文盲の農民や労働者を主体とする一般大衆であったわけである。
なお悪いことに、この時、革命で武器で以って人々を押さえつけて統治する側になった人々というのは、もともと人を統治する経験に乏しい人々であったわけで、革命ということを大義名分にはしているが、その基本の部分には、自己の欲望をもろに政治に反映させる、という面が散見され、それを指摘すると反革命という烙印を押されてしまうという状況であった。

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