その2 ロシア革命

革命というものの本旨

マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を書いた背景について、以上のような考察をしたわけであるが、この思想が何故にロシアに渡り、ロシアで革命が起きのたかという点が、不可解である。
「共産党宣言」が書かれた時が1848年であり、ロシア革命というのは1917年なわけで、その間69年間という間隔がある。
この69年間という年代の開きというか、時代の相違というか、時間的空白の時期というのは非常に大きな歴史的要因を内在しているのかもしれない。
つまり、ロシア革命というのは、時代遅れの思想によって引き起こされ、それがその後のソビエット社会を呪縛していたのかもしれない。
革命の最初から1990年のソビエット連邦の崩壊に至らしめた年月というのは73年間であったわけで、それとほぼ同じ年月、時間、が掛かっていたわけである。
70年前の思想で、新たな国家建設の夢を追い求めたものが、それと全く同じ約70年間しか持たなかったわけである。
日本でも激動の時代というのは数多経験しているが、例えば、1960年代の安保反対の思考、反政府、反体制の思考のままで70年間もそのままの政治姿勢を維持しているとしたら、平成42年、2030年までその状態でいるということになり、我々には考えられないことである。
こういう時間をかけて、ロシアに革命の機運が醸成されていった、ということかもしれないが、それにしても革命の本質と共産主義というのは、この時点ではつながっていなかったのかもしれない。
ロシアにおいてロマノフ王朝が倒れたとき、革命の大義名分がなかったので、共産主義というものが利用された、と言ったほうが正しいのかもしれない。
革命というものは暴力で既成政権を奪還する事であり、革命という字が着くと何か良い事のような印象を受けやすいが、所詮、暴動に過ぎない。
日本においても60年代の安保闘争の時、国会議事堂に侵入した全学連の人々がいたが、あれをもう少しスケール・アップすれば、それこそ革命であったわけである。
日本であの革命が成し得なかった背景には、日本の治安当局がしっかりしていたわけで、学生達を強権力で排除できたからである。
それでその後あの学生達、所謂、全学連がその後も革命を引き継いで世直しに血道を上げたかといえば、彼らはあれ以来あっさりと挫折してしまった。
ならばあの騒動は何であったか?と問い直せば、彼等の思い上がった遊びの延長でしかなかったわけである。
あの時あの騒動を煽った指導者の間に、革命を目指した組織だった命令系統があったか、といえばノーである。
所詮は烏合の衆でしかなかったわけである。
革命というものは突き詰めれば烏合の衆の暴動に過ぎず、革命が成就するということは、その後に整合性が後からついてくるものである。
所謂、革命の本旨は後から状況に合わせて作られるものである。
革命を指導したレーニンはそのとき、ドイツかスイスにいたわけで、大衆が蜂起するやいなや急遽そこにやって来る、という手はずは用意周到な計画性のある革命とは言い切れない。
ある意味で、行き当たりばったりで、革命をリードする人、指導するべき人というのは当初は存在していなかったのかもしれない。
「共産党宣言」が書かれた1848年からロシア革命の起きた1917年までの間、ヨーロッパにおいては、さまざまな新しい思想が次から次へと誕生していたわけで、そのことは一種の知的革命といったほうが良いかもしれない。
言葉を変えて言えば、そういう思想が次から次と湧き上がってくるということは、知識とか思索をもてあそぶ類の人間が生まれ出てきたということでもある。
自然科学には自然の真理というものが存在するが、人間の頭の中を錯綜する哲学とか思想の類のことは、いわば頭の中の遊びみたいなもので、真理の探求という事柄と比較すると実に曖昧で、いいかげんで、時の無駄使いぐらいでしかない。
まさしく精神の自慰行為に他ならないが、これとても人々がある程度豊かになったから出来ることで、人が食うや食わずの状態ではこういうゲームを楽しむゆとりはありえない。
そのことは、ヨーロッパにおける近代化の波がいよいよ身近に押し寄せてきたことをあらわしているわけで、近代化という技術革新が、人々の身近な存在になってきた証拠でもある。
人々が豊かになる状況というのは、技術革新と人間の豊かさというものが車の両輪のように連結しているのと同じで、どちらか一方のみが先に行ってしまう、ということはありえない。
今流に言えば、技術革新が新しい雇用が生み出すわけで、ジョージ・ワットが蒸気機関を発明したことにより、石炭の需要が出来、その石炭をより効率よく掘るためには、ますます蒸気機関が必要になり、その蒸気機関が紡績の機械を同時に多量に稼動させるようになれば、原料の確保から輸送に至るまで、新たな雇用が創設されたわけである。
そして人々が徐々にではあるが豊かになることによって、知的な遊戯にふけることが可能な人達をも創設されるようになったに違いない。
社会が豊かになれば人々は知的好奇心を満たすことに興味を持ち、教育に金をかけるゆとりが出来てくることは必然である。
毎日が食べることだけで精一杯の人間には、教育に関心を寄せるゆとりなど最初からあきらめなければならないが、人々が豊かになれば、心の満足を得るようになり、それが嵩じると、ものを考えることを遊びではなく哲学と称して、より崇高なものと考えるようになったわけである。
この間にアメリカは南北戦争を経験し、奴隷解放を経験し、大陸横断鉄道が開通したわけであり、フランスではフランス共和国が誕生し、イギリスではカナダが自治領として独立し、労働組合法が成立し、8時間労働法が成立していたわけである。
日本の状況といえば、明治維新を経験し、日清戦争を経験し、日露戦争を経験したわけである。
こういう状況というのは、地球規模で帝国主義、植民地獲得競争が罷り通っていたわけで、今から思うと、人間の信ずべき正義というものが今とは価値観を異にしていたわけである。
フランス革命の自由、平等、博愛などという言葉は、絵空事で、世の中というのは、強い者勝ちの時代であったわけである。
その一方で、労働者のような虐げられた人々を救わなければならない、という博愛の精神も芽生えていたことも事実であろうが、こういうものは所詮サロンの話題でしかなかったわけである。
地球規模で近代化が進み、工場というものが世界各地に出来ると、その工場の進出した土地では、労働者の存在が大きくクローズ・アップしてくるわけで、個々の人間は虐げられていても、それがマス(大衆)として塊となると、非常に大きな力にを持つようになり、数の上では支配する側を圧倒してしまうことになる。
労働者が大きな力を持つということは、彼らが固まって力を結集したときにそういう力が出るわけで、それこそ共産主義の唱える「万国の労働者よ立ち上がれ」という掛け声のもとに、それが具現化したわけである。
それと忘れてはならないことは、この時期の帝国主義、いわゆる植民地獲得競争というのは、武力を背景にしているわけで、この武力というものをよくよく見てみると、これも無産階級に他ならないのである。
どういうわけか、有産階級というのは、軍隊の組織内においても管理する側に回ってしまい、軍隊として手足となって走り回る役目は無産階級の出身者になってしまう。
これは地球規模で共通する現象で、それは教養とか教育というものが、人を管理する手段として一般に広範に認められていたからに違いない。
よって、団結して立ち上がった大衆、民衆、労働者に対して、対抗する勢力としては同じような無産階級からなる軍隊が正面に立たざるを得ない状況に陥る。
ここにマルクスとエンゲルスが言うところの階級闘争の本質が潜んでいるわけで、統治する側も、統治される側も、無産階級と有産階級でその生き方が180度転換してしまうわけである。
こういう階級の開きというのは、19世紀の半ばころから20世紀の初頭にかけて、ますます大きくなり、それは当時の知識人の目には永久に続くものとして写ったに違いない。
そして、そういう状況から脱却するには、有産階級というものをこの世から抹消しなければならない、という思い込みが人々の間に広がったのもある面では致し方ない。
面白いことに、1904年、日露戦争が起きた時、ロシアは中国の青島(チントウ)の旅順要塞を死守していた。
それを攻める日本側は、この要塞の堅牢なことに手を焼いて、屍を累々と重ねてもなお持ちこたえる相手に対してほとほと困り果てていた。
が、あろう事か、相手が一挙に崩れ去ったことがあった。
これは内部において共産主義者が氾濫を起こし、自らを敗北に至らしめたと言う事である。
ここにロシアの将軍ステッセルは乃木希典の軍門に下り、日本に勝利を導いたと、我々の歴史ではなっているが、この時に共産主義者が内部から自らを崩壊せしめた、ということは案外知られていない。
ロシア帝国が崩壊する過程には、こういう現象がままあったわけで、ニコライ皇帝を退位に至らしめる過程でも、軍隊の内部で氾濫まがいのことが起きて、命令権者の言う事を拒否する行為が往々にして見られる。
ロシア革命に関して言えば、これの萌芽は既に5年前のシベリアのレナ金鉱で労働争議の際に労働者と軍隊の衝突があって、そのときから労働者、一般大衆、民衆の間には、現行の治世者に対する反発がわだかまっていたわけであり、革命の下地が出来ていたわけである。
ロシア革命というのは1917年の出来事として歴史上は認知されているが、もうこの時期になると、ロシアにおいて、人々は既成の統治者の存在にはほとほと嫌気がさしていたわけで、何時でも世の中の転覆を歓迎する下地が醸成されていたわけである。
これはある意味で、近代化が一般大衆の意識にまで浸透してきたことの証でもあったわけで、労働者が不平不満をストライキの形で表明するという現象は、日常茶飯事のこととして定着してしまったわけである。
無産階級の労働者がストライキをするということは、ある意味で無責任な行為であり、無産階級でなければ出来ない事であった。
いくらストライキをしたたころで無産階級であれば何も失うものは無いが、資産家や有産階級のものはそうは行かないはずである。
失うものがあるとすれば、そうなってはならないという意思が働くが、失うものが何一つ無ければ、したい放題のことが出来るわけで、ある意味でストライキというのは無責任な行為である。
しかし、そうでもしなければ息がつってしまいそうな雰囲気というのも、その時代のロシアにはあったに違いない。
そういう間隙に共産主義が取り入っていたわけで、デモやストの背景には必ず共産主義者が見え隠れしていたわけである。
あの旅順の陥落にさえ、共産主義者が内部から崩壊を誘引したとなれば、その後の日本にとってはそのことは有利に作用しているが、ロシア人の同胞から見れば、これほどの裏切りも無いわけで、こういう事をしでかすロシア人の器量というものには、いささか驚かざるを得ない。
この状況を大きな目で俯瞰してみれば、この時代、20世紀の初頭において、ロシアのロマノフ王朝、ニコライ2世の政治体制というのは、極限にまで組織疲労が蔓延してしまって、もう救いようのない状況であったと見なさなければならない。

ロシア革命の経緯

1914年に始まった第1次世界大戦の震源地は、今も混乱が続いているコソボの近くのサラエボであったが、この時ロシアはドイツに対して開戦し、ニコライ皇帝は叔父を総司令官として現地に派遣していた。
しかし、戦況が思わしくないので、自分で指揮を取るつもりで、その総司令官を更迭し、自分がそれになりかわった。
つまり、こういう激動のときに、自分で政治をすべきところを、自分が前線に出てしまったので、後方の政治は空白になってしまったわけである。
ここにロシア皇帝零落の大きな原因があった。
その前に、皇帝の家族の間に大きな心配事があり、それに対して祈祷師のようないかさま氏が介在したことも皇室が零落する大きな理由になっている。
自分の息子が白血病であったことは皇帝家族の宿命であって、その治癒を願うあまり、近代科学を信仰せずに、祈祷師のいかさまを信ずるようになれば、普通の家族とても零落しかねない。
このラスプーチンといういかさま祈祷師を、皇后が精神のよりどころにする、というところに既に民衆から捨てられる要因があったわけである。
それで、皇帝が前線に出ている間に、このラスプーチンは殺され、後方に残された家族にしてみれば、混乱のきわみに達していたわけで、これでは前線にいてもまともな指揮はありえないのもむべなるかなである。
しかし、その前に問題とすべきは、もう既にこの時点で、軍隊の指揮は皇帝の指揮から外れ、軍隊の忠誠心が皇帝から離脱していたとみなさなければならない。
考えてみれば、軍隊の中でもその大部分を占める兵卒というのは、将校と違ってもともと無産階級の出身者で占められているわけで、皇帝とか皇族に忠誠を尽くす義理は最初から微塵も無かったわけである。
自分の息子が白血病であれば、神にもすがりたい気持ちで祈祷師を重用するというのも極めて人間的で暖かい心情であるが、やはり皇帝ともなれば、凡人と同じレベルの発想では駄目なわけで、そういう威厳が失われていたからこそ、一般大衆というのは徹底的に反抗に出たわけである。
乃木希典が旅順の要塞を攻め倦んでいるとき、部下の兵卒が全部敵に尻を向けて攻撃をせず、踵を返して引き上げてしまったようなものである。
こんな馬鹿なことは、いくら組織疲労したロシア軍でも、信じられないことで、軍隊の内部から組織が崩壊するなんてことは、我々には考えられないことであるが、こういうことがロシアでは現実に起きているのである。
「売国奴」という言葉があり、これは金で祖国を売り、自己の利益につなげるということであるが、まさしく「売国奴」そのものである。
こういう人間は日本人には数が少ないが全くいなかったわけではない。
1941年、昭和16年、ゾルゲ事件に連座した尾崎秀実は、当時、近衛首相のブレ‐ン(その前は朝日新聞の記者)でありながら、職務上知り得た情報をソビエットのスパイであったところのゾルゲに渡していたわけで、押しも押されもせぬ立派な「売国奴」であったわけである。
共産主義者には通常の倫理というものが通用しないところが一般の常識とかけはなれたところである。
それもある意味で無理のない面があるわけで、彼らにしてみれば、既存の秩序よりも、共産主義としての使命のほうが優先するわけで、祖国とか、自分の属する民族とか、自分が恩恵をこうむっている政治主体というものを一切信用していないわけで、共産主義、共産党にのみ忠誠を尽くせば、それで彼らの生存の意義が満たされているのである。
だから、祖国とか、恩義を受けている国家体制というものには何一つ報いる信念がないわけである。
よって旅順の要塞を死守しているときに、内部から総崩れになったり、前線に出ている皇帝の軍隊が、総司令官のいう事を聞かなくなったりするわけである。
20世紀も末期に近い今の時点で、この時の皇帝の在り方を論じても詮無いことではあるが、皇帝の統治の仕方にもマズイ点が多々あったにしても、それに従軍している軍隊が全く言う事を聞かない状況というのは理解に苦しむ。
統治者の人望がたとえ如何に地に落ちていたとしても、総司令官の言う事を聞かない軍隊というのも全く信じられない。
こうなるともう既にこの時点で、統治する者とされる者という区分けは成り立たないわけで、「烏合の衆」としか言い様が無いわけである。
こういう状況に立たされたニコライ2世・皇帝としては、前線で退位をするというか、誰も言う事を聞いてくれなければ、退位というか、皇帝とは名ばかりというか、なんとも致し方のない立場に置かれたわけである。
もともとソビエットという言葉は、兵士と労働者の評議会という意味で、ロシアの兵士というのは、基本的に無産階級で成り立っていたわけである。
この両者が言わずもがなとして連結していたわけであり、皇族とか貴族、その他あらゆる有産階級に対して正面から敵愾心を持っていたといわなければならない。
ニコライ皇帝が前線に出るということは、そういう敵の中に、一人で乗り込んでしまったと言うことになったわけで、彼の敵は、前方のドイツ軍ではなく、後方の味方であるべき同胞であったわけである。
で、彼は前線で「裸の王様」のように、全く孤独の状態に置かれ、当時のロシアの首都ぺテルスブルグにもどる途中に退位を余儀なくさせられ、戻れば戻ったで、首都ぺテルスブルグは革命の渦が沸き起こっていたわけである。
この辺りの事は、いろいろなことが同時に起きているので、とても私の稚拙な筆力では書き表せない。
時系列の整理さえも出来かねる。
いくらロシアといえども、ニコライ皇帝が退位したからといって、国家の顔としての体裁もあることで、政府に変わるものを即時に作らねばならなったわけで、臨時政府が急遽作られた。
ロシア革命を語るとき、メンシビキーとボリシビキーという言葉の定義をしない事には、理解が先に進まない。
本来ならばこういう言葉の定義はそういう方面の専門書から入るべきであろうが、幸いなことに日本の「広辞苑」にも詳しく一般論として乗っている。
「広辞苑」の述べるメンシビキーというのは、ロシア社会民主労働党右派、ブレハーノフ、マルトフらによって指導された、となっている。
1903年、ボリシビキーと決裂、社会主義への道は議会制民主主義の実現を経て至るとする。
2月革命後、臨時政府の指導勢力となったが10月革命で打倒された、とも記されている。
一方、ボリシビキーの方は1903年、ロシア社会民主労働党内にできたレーニンの一派。
マルトフ派と組織路線上の対立から生まれたが1912年別党となり、10月革命後、ロシア共産党と改称のちソビエット共産党となる。
革命的左翼、模範的な共産主義者の意となっている。
この解説でも理解できるように、ロマノフ王朝の最後には、ロシアの民衆が現実の政治に嫌気が差して、ロシア社会民主労働党を既に第1次世界大戦の前に結成していたわけで、そこの中で既にレーニンは地歩を固めていたわけである。
そして戦争中はどう云うわけかレーニンはロシアの国外に出ていたわけで、スイスだかドイツだかに逃げ隠れていたわけである。
で、その彼がロマノフ王朝の終焉、ニコライ皇帝の退位という状況下で再び首都としてのぺテルスブルグに戻ってきたわけである。
この時、封印列車で戻ったとされているが、この意味が今一つ理解しがたい。
封印列車とはいかなるものか、という点が不可解である。
私の得意とする推測、憶測を巡らして考えてみると、これは当時の状況の中で、ロシアとドイツは交戦国同士であり、ドイツ側がロシア側をより弱体化するために、亡命中のレーニンを何が何でもぺテルスブルグに送り届けて、反乱を助長させ、ロシアの戦意を萎縮させる目的で送り届けた策略ではなかったかと思う。
レーニンにしてみれば、自分の祖国というものには全く未練が無いわけで、彼の目的は、共産主義革命が最優先の課題であったわけで、それが達成されれば、いかなる労苦もいとわなかったわけである。
ニコライ皇帝が退位した後には臨時政府が出来たが、この時点ではまだ議会制民主主義を信奉するメンシビキーが指導力を維持できていた。
これがボリシビキーに権力を奪還されてしまったので、後は共産党の天下になってしまったわけである。
この権力奪還闘争がいわゆる10月革命で、これはこれで一遍の物語になってしまう。
ニコライ皇帝が退位したからといって、いままでのすべての政府機関、行政システムが一夜にして無に帰したわけではなく、臨時政府というのは、それを引き継ぎ、曲がりなりにも機能しつづけていたに違いない。
しかしこの時、革命を起こす側にしてみれば、当然そういうものも全面否定しなければならないわけで、そのためには同朋が同朋を攻撃するという悪夢がそこに展開したわけである。
ところが革命を遂行する側とすれば、旧体制の同朋は同胞であらず、ただ単なる革命の敵、ただ殺すべき対象でしかない。
その上、革命の主たる担い手は軍隊・兵士、兵卒になりがちで、これは当然といえば当然の成り行きであり、一般大衆がいくら革命を叫んだところで、鎌や包丁では武器になり得ず、やはり相手を殺してまで革命を成就させようとすれば、そこには当然武器弾薬が必要になり、それを現実に所有しているのは軍隊でしかない。
力・武力の行使しか革命の原動力たり得ない。
革命というのは、革命をする側にしてみればこれほど面白いことも他にありえないに違いない。
とにかく現行体制を全面否定して良いのだから、理論的には何をしても許される、ということになる。
人を殺そうが、物を盗もうが、それが革命のためということであれば、今までの倫理も道徳も秩序も何一つ考慮することなく、何でも好きなことが出来たわけである。
事実レーニンはそれを実行しているわけで、臨時政府の議会の傍聴席に、自分の子飼いの兵士を完全武装のまま傍聴させて、力をちらつかせて議事を妨害したりしていたわけで、これではおよそ民主的とは正反対のことを実行していたわけである。
権謀術策という言葉があるが、レーニンのしたことというのは、こんな生やさしいものではなく、暴力そのものである。
これも革命の本質であれば致し方ないが、我々は傍観者であるからこそ、致し方ないと言っておれるが、当事者であるロシアの人々からは、当然こういう行為に対する反省があってもしかるべきである。
ロシア革命というのは、当時の首都としてのぺテルスブルグとモスクワというその他の都市の間では時間差があった。
これは国土の広さを勘案すると致し方ないとしても、その両都市で「ソビエット」というものが結成されたという事は、人々の心が既に既存の体制を全く信用していなかったという事に他ならず、今までの体制を見限っていたということである。
こういう状況というのは、一般市民の側にも一抹の原因があるわけで、その原因の一つは、大衆が無知であったということだと思う。
世の知識人は大衆が無知という事を声高には叫ばない。
普通に考えれば、その大衆、民衆、労働者達を馬鹿と言うに等しいので、こういう言葉は極力使わないようにするのが知識人としての倫理でもあった。
だから奇麗事で言葉を綴るものだから、真実が歪曲されがちになる。
もっと端的に、直截な表現すれば、ロシアの人民が愚昧で、無学文盲が多かった、といえばわかりやすいが、そういう表現を避けて記述するものだから、如何にもデモやストライキを起こす人々が、今の日本の学生や知識人の行動と同じものだ、という錯覚に陥ってしまう。
亡命していたレーニンが何故にぺテルスブルグに現れたのか、という問題は大きな疑問であるが、ドイツの策略であったかもしれない、となると歴史への興味が一段と深まる。
ぺテルスブルグに戻ってきたレーニンは、早速、反対勢力、メンシビキーを攻撃する仕儀に至るわけであるが、この時点で、まだドイツとの戦争は継続中であるにもかかわらず、一方的に戦闘行為を止めるようなことをしている。
ロシア民族内の内輪もめ、という見方も出来ると思うが、ここでも散見できる考え方として、共産主義者にとって、自国の主権とか、国益というものには全く価値を置かず、ただただ共産主義にのみ奉仕するという現象である。
国家が崩壊しようが、同朋同志が相対峙して鉄砲を撃ち合おうが、とにもかくにも共産主義の主導権を確保することが最優先である、という思考である。
主義主張がもうここまで来ると、これは既に宗教の領域で、政治の底辺に横たわる思想、主義、行政のシステムとしての思考とはあいいれないものといわなければならない。
最近の日本で問題となっているオウム真理教と同じで、既存のシステムからはみ出した思考であり、これは人間の人知ではコントロール不能に陥ったといわなければならない。
革命を許したロシアの人民は無知蒙昧な民族だと口の先まで出掛かっているが、こういう状況を冷静に見てみると、もうこれは人間の英知とか、理性とか、人知とか、学問とか、教養とか、教育などというもので管理しきれない状況に陥っていたといわなければならない。
あるのは人間の赤裸々な欲望と、剥き出しの力の行使しかなかったわけで、この状況を制するのは、銃しかなかったに違いない。
アメリカの西部劇と同じで、銃こそ正義であり、法律であり、秩序であったわけである。
私がこのくだらない雑文をしたためているのは、時間つぶしの遊びに過ぎないが、戦後の日本の知識人というのは、真剣になってこの歴史を探った。
しかし、彼らとて現場に居たわけではないので、文献に頼るしかなかったわけで、その意味からすれば、私の遊びの領域と大して変わらない。
そして彼らはインテリなるが故に、露骨な表現は極力避けて通ろうとするので、共産主義革命が銃によって下支えされている、という現実を見ようとしない。
「ソビエット」という言葉自体、きな臭い雰囲気を持っているわけで、これは「労働者と兵士、兵隊の連帯を示す」言葉で、革命というのは何も武器らしきものを持たない労働者のみでは成し得ず、兵士・兵隊という武器を背景にしないことには成り立たない、と言う事を如実に語っているのである。
相手の同胞を殺すにも、無手勝つ流では成し得ず、草の根の運動では、革命は成就しないということの立派な証明である。
革命と言う事は、同胞の血を見ない事にはありえないわけで、そうそう安易に使うべき言葉ではないように思う。

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