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よしおか あらた

吉岡荒太

よしおか あらた

1867(明治1)〜 1921(大正11)

明治・大正期の教育家

埋葬場所: 8区 1種 7側 9番

 佐賀県出身。東松浦郡一漁村で代々医業をしていた長男。 19歳の時に医を志して上京、第一高等中学校(後の第一高等学校)に入学したが病気で退学し、独学で内務省の前期開業試験に合格したが、そこへ田舎から弟二人が上京してきたため、三人分の生活費をかせぐため医者を断念し、得意であったドイツ語の塾を開いた。
 一方弥生は済生学舎を卒業し女医となったのが22歳。一度、故郷の静岡へ帰り父の下で田舎医者をしていたが、向学心に溢れ更なる勉強をするために再び上京した。 その時の弥生はドイツへの医学修業の夢があり、ドイツ語を学び始める。このドイツ語塾が至誠学院であり校長は吉岡荒太であった。
 荒太は無口であったが、弥生とは国家の理想などを論じ合うなど意気投合。弥生が25歳の時、荒太が28歳の時1895(M28)荒太は学院の事務や生活一般を取り仕切っていた弟の松造を通じて弥生に求婚し結婚した。 至誠学院はドイツ語の他に英語、漢文、数学の三課目を加え、高等予備校にし大所帯とした。弥生はドイツ語を学ぶ傍ら学院の事務関係も受け持ち、夜は開業医として患者を観た。 荒太が経営する至誠学院は大掛りになっていくのとは裏腹に赤字は増え続け、弥生も一時医者を辞め経営に努力しり、学院の向かいに借家して、産婦人科の東京至誠医院を開業し収入を補おうとしたが、超人的な労働を余儀なくされていた荒太が、1899(M32)過労に加えて重い糖尿病に倒れてしまった。翌年、やむなく学院を閉鎖することになった。
 同時期に弥生が学んだ済生学舎が風紀の乱れを理由に女学生の入学を不許可とし、半年後には在学中の女学生も閉め出す事件がおきた。 女学生に医学への一切の門戸が閉ざされた現状を知った弥生は、一年の療養で健康を取り戻しつつあった荒太に女医学校設立を相談し、すぐさま賛成を得、資金さえない状況で、無謀とも言える大事業に吉岡夫婦は果敢に挑み、産婦人科の開業をしていた至誠医院の一室6畳一間に机と椅子を置いて教室とし、二人は1900(M33)日本で最初の女医養成機関である東京女医学校(東京女子医科大学)を創設した。弥生が校長となる。 荒太は物理と化学を教え、弥生は生理と解剖を教えた。最初の入学者は4人であった。翌年弥生は妊娠し、長男の博人(同墓)が誕生するが、その際、弥生自身のお産を教材とした。 徐々に生徒が増え、学校は全寮制とし荒太が舎監として住み込み、生徒たちから「大(おお)先生」と呼ばれしたわれた。 夫婦の真剣さと努力が報われ、1904に私立学校としての認可を受け、1908には弥生が校長認可を受けるまでとなった。
 日露戦争の戦勝によって企業ブームと社会思想の台頭が女子の高等教育を広め、女子の職業として女医を認識させたことで生徒数が二百人を超えるまでとなった。 また第一次世界大戦で漁夫の利を得た日本経済は異常な好景気に見舞われ、企業の要求によって多くの分野に婦人が進出するようになり「職業婦人」が増大した。 その際、女医は職業婦人のトップに位置付けられ、学校への志願者を増加させた。これらの好景気で今まで排他的に文部省が認知していなかった女子医学学校が女子医専昇格を得、国家が認める学校とまでなった。 学校の発展の裏で尽力していた荒太は45歳の若さで没した。以後も亡き荒太の志を胸に、弥生と長男の博人は学校を大きく発展させていった。

<日本史人物「女たちの物語」?(講談社)>
<明治・大正を生きた15人の女たち(別冊歴史読本)>


墓誌

*正面右側に墓誌碑建つ。東京女子医科大学発祥の地碑は九段下建つ。


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