茨木県出身。同郷の縁で国民教育授業料全廃や未成年者の飲酒喫煙の禁止法で尽力した政治家の根本正の書生となり、早稲田大学を卒業。
卒業後は、主に煙草専売法に則り、岩谷天狗煙草の葉煙草の買い付けからたばこ屋への販売を行っていた。しかし、専売法で私営の業者が全部国有化されることになり転職せざるを得なくなる。
友達の紹介で、日本橋蛎殻町(にほんばしかきがらちょう:東京都中央区)にて商品相場の場況を時事新報に書き原稿料もらうアルバイトを始める。相場解説がわかりやすく、よく当たると評判になる。その噂を知った山文証券の野口清三郎に引き抜かれ、同社の調査部として場況日報のレポートを書く仕事を行う。レポートを出す度にひいきの客がつき応援者が増えたことで、野口清三郎の世話を受け、「山十」という株式現物店という小さなお店を開店した。しかし、うまくいかず失敗し、一時中国の大連に渡る。その後再び戻って、遠山芳三商店で歩合外務員として勤務した。
'24(T13)頃に独立し、「安商店」という名の現物店を開業。'33.4 (S8) 株式取引員の免許取得の準備をはじめる。'36.7.21 東京朝日新聞が「当所株上場を廃し、実株本位へ統制、政府当局の立案成る」と題し、「投機株の存在が経済界に害を流し非常時に際しての諸政策に背反するの憂いあり。政府の意図する戦時統制の整備という見地からもまず投機株の上場を廃止・・・」の記事が報じられた。その記事を読み信じた株主が混乱。これは「誤報」であったが、冷静に対応した安常三郎はこの誤報事件で巨万の富をつかんだ。
'38 安商店を現物商「十字屋商店」(十字屋証券)に改称。クリスチャンであり信仰にちなみ「十字屋」と命名した。'40.4(S15) 主務大臣より有価証券業の免許を受け、同.7 東京株式取引所取引員の認可を受ける。これに伴い、店主を息子の安弘一郎(同墓)として東株の実物取引員になった。公社債現物売買を営む投資家、相場師として活動。
この頃は戦時体制に入って行く時代であり政治的な混乱や事件が多発していたが、大口顧客(大地主や政治家、地場筋)を中心としたブローカー業務は好調で儲けを出し戦前は裕福であった。終戦直後に逝去。享年61歳。
*墓石は「安家之墓」、裏面「昭和十年六月 安常三郎 建之」と刻む。右側に十字を刻む墓誌が建つ。墓誌は18才で早死した安日出子(1915.11.14-1933.6.13)から刻まれる。次に常三郎、妻の志那(1891.8.23-1956.1.21)、十字屋証券を継いだ長男の安弘一郎、妻の登志(1917.11.26-2007.5.3)。
*安常三郎の娘の千代子(1909-1997.11.3)は、出雲母里藩10代目最後の藩主・子爵の松平直哉(10-2-16-8)の孫で実業家の松平直一(10-2-16-8)に嫁いだ。
*十字屋証券は、孫で3代目社長の安陽太郎が、時代の変化による証券仲介業の限界とリーマン・ショック(2012.3)後の株価低迷で証券業としては廃業を決め、金融庁の金融商品取引業の登録を取り消し、証券業を自主廃業させた。現在は十字屋ホールディングスという名称で投資顧問業へ鞍替えした。