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やす こういちろう

安 弘一郎

やす こういちろう

1912.2.7(明治45)〜 1986.7.17(昭和61)

昭和期の相場師(十字屋証券)

埋葬場所: 10区 2種 13側

 東京出身。父は十字屋商店(十字屋証券)創業者の安常三郎、志那(共に同墓)の長男として生まれる。
 父に相場を学び、現物商「十字屋商店」(十字屋証券)前身の安商店に勤める。1940.4(S15) 主務大臣より有価証券業の免許を受け、同.7 東京株式取引所取引員の認可を受ける。これに伴い、十字屋証券の安弘一郎商店店主になる。創業者の父の常三郎と二人三脚で大口顧客(大地主や政治家、地場筋)を中心としたブローカー業務の成功で発展させた。
 戦時体制の混乱時の株は好調で儲けたが、終戦のどさくさで財産を没収され、戦災で焼失した浜町の土地と、鵠沼の居住地のみからの再スタートとなる。この間、'45.9.7 父の常三郎が死去。
 '48.4 資本金100万円で十字屋証券株式会社に組織変更し社長に就任。'49.4 東京証券取引所設立と同時に正会員となる。戦前に引き続き、大口顧客を中心としたブローカー業務を行うとともに、もう一方の収益源であった自己売買は、兜町の地場証券では珍しく裁定取引を中心に行った。
 特にさや取り商いといい、昔は増資する場合、額面割当であったため、親株と新株に分けて考えた。親株は信用取引が出来て流動性が高く、配当の差は10円しかなかったのに、流動性があるということで親株が30円も40円も高く買われ、新株の方が安かった。よって新株を買って親株を売りつなぎ、決算が終わると新株も親株も一緒になるので、新株として品渡しをするという形の裁定取引を行った。こうしたブローカー業務の大口顧客集中は、欧米のプライベートバンクやマーチャントバンクをモデルに、経営が行われてきたことに起因している。
 '59 日本生産性本部が主催する欧米証券視察団に加わり、ヨーロッパとアメリカを40日間視察。昭和30年代の日本の証券市場がこれからどういう方向で発展していくのか未知であったが、視察を通じて証券会社というのは、ヨーロッパスタイルのプライベートバンクやイギリスのマーチャントバンクのような一般大衆を顧客にするのではなく、富裕層や金融機関といったプロ集団を相手にした商売をするべきだと感じたという。
 '68(S43) 大蔵省は証券会社に対して今までの登録制を廃し免許制導入を打ち出す。「ブローカー業務中心」の経営モデルへの転換と「大口顧客依存の是正」は、大口顧客に取引が集中していた十字屋証券にとっては、免許基準に適合するビジネスへの転換をせざるを得なくなり激震が走った。早々に経営収支率や資本構成(顧客の拡大・営業収益の大口からの是正)を指摘される。また当時は弘一郎が会社の株を100%所有していたが公共性がないとい理由で資本を分配するように通達された。そこで親しくしていた大和証券や住友銀行に出資(十字屋の株を各5%保有。後に富士銀行・三井信託・朝日生命が株主になる)してもらう。
 十字屋証券では免許基準に合うように見直しを行い、従来の大口顧客だけでなく、機関投資家の注文獲得にも注力。そのため機関投資家からの出資受け入れや、一方で投資アドバイザリーを証券業の本流と捉え、投資顧問会社の設立、専用投信の販売などを行う。こうして個人投資家との取引に依存しない経営体質の構築が目指された。富士銀行から出仕を受け、国際部の新設や新宿支店をつくり業務拡大も図る。
 '82.12 弘一郎の息子の安陽太郎が3代目十字屋証券社長に就任するに伴い会長に退いた。'86.5 自伝『かたつむりの記』刊行。同年逝去。享年74歳。

<兜町の重鎮に聞く「十字屋証券の創業と戦前期の経営」など
日本証券経済研究所(証券レビュー 第55巻第2号)など>


墓所

*墓石は「安家之墓」、裏面「昭和十年六月 安常三郎 建之」と刻む。右側に十字を刻む墓誌が建つ。墓誌は18才で早死した安日出子(1915.11.14-1933.6.13)から刻まれる。次に常三郎、妻の志那(1891.8.23-1956.1.21)、十字屋証券を継いだ長男の安弘一郎、妻の登志(1917.11.26-2007.5.3)。

*安常三郎の娘で弘一郎の姉の千代子(1909-1997.11.3)は、出雲母里藩10代目最後の藩主・子爵の松平直哉(10-2-16-8)の孫で実業家の松平直一(10-2-16-8)に嫁いだ。


【3代目社長の安陽太郎と十字屋証券廃業まで】
 安 陽太郎(やす ようたろう)東京出身。1941.1.29(昭和16)生。祖父は十字屋証券創業者の安常三郎、父は2代目社長の安弘一郎。
 1963(S38)早稲田大学商学部卒業。卒業後、山一証券に入社。山一証券の仕事スタイルはお客様の利益よりも会社のノルマ重視で、手数料稼ぎで想像もない現状で法律に触れなければ何でもありという体質であった。証券会社の理想と現実のギャップに愕然しつつも自分の信条まで曲げなかった。例えば月間100万円の手数料を上げろと言われれば、それは上げますと。ただ、自分のやり方で上げますと言って、マイペースでやったそうだ。当時、山一證券が運用していたオープン投信は、お客様にそれなりにリターンが返ってくるシステムで、非常に良い商品と思い一生懸命に売り、社長表彰を受けた。しかし、現場を理想よりも目標売上を求められ、違うと強く感じる現況は変わらず。父の安弘一郎に相談をして、山一證券を退職し、アメリカに留学を考えた。
 '65.3 山一証券を退職。辞めた二か月後に山一証券の株価が下がり日銀特融を受けるまでに証券界が混乱した。十字屋証券のお客様まで余波が出たため、留学を取りやめ、家業の十字屋証券にて父の下で歩合外務員として働くことになった。十字屋証券では理想である自分自身の収益とお客様の利益を一致させて、お客様を儲けさせること(コミッションブローカー)の実現に向けて活動する。
 '70.11 同社取締役、'73.11 同社常務取締役、'78.12 同社専務取締役、'82.12 同社代表取締役社長(3代目)に就任。'86.7.17 父で会長の弘一郎逝去。
 昭和六十年代のバブル期で証券会社が大繁盛した時期も、各地に支店を持たない十字屋証券は従来通りの特定顧客へのサービス特化に従事。ただ個別に投資相談などに乗っていたところ、大蔵省より社長自らがやるべきではないと指摘されたことも要因となり、'82特金営業を中止。'86.12 十字屋投資顧問を設立。投資アドバイザリーとなる。
 '87.10.19 ブラックマンデーで株価が暴落した一週間前に、ブラジル渡航に際して集合場所のニューヨークにいた。知人何人かと会った際に、アメリカのマーケットがおかしいぞと直感し、すぐに日本に電話を入れ、危険な状態であると伝え会社の手持ちの株を全部売る命令を出した。帰国した翌日、朝起きたら世界的株価大暴落が起きた。株屋として事件が起こる前には、これは何かおかしいぞという臭いがあると回想している。
 '88.1 日本証券業協会東京地区評議員(〜'91.6)、'88.2 日本証券経済研究所理事(〜'89.7)、'91.7 東京証券取引所会員理事(〜'94.6)、'95.7 日本証券業協会理事(〜'98.6)、'94.7 同協会研修委員会委員長(〜'95.6)、'95.7 同協会店頭登録委員会委員長(〜'96.6)、'96.7 同協会業務委員会委員長(〜'97.6)、'96.7 同協会政策委員会経済法規委員会委員長(〜'97.6)、'97.7 日本証券業協会会員委員会委員長(〜'98.6)、'97.7 同協会会員委員会証券業経理委員会委員長(〜'98.7)などを歴任後、業務の電子化委員会副委員長や規律委員会、自主規制委員会、東京地区評議員会評議員として活躍。'99.7 東京証券取引所理事会副議長(〜2001.10)、2000東京証券取引所組織形態のあり方に関する特別委員会に携わり座長を務めた。2001.11 東京証券取引所社外取締役(〜平成16年10月)、2006.7 日本証券経済研究所監事(〜2008.7)などを務め、証券界の重鎮として尽力した。
 2012.3 時代の変化による証券仲介業の限界とリーマン・ショック後の株価低迷で証券業としては廃業を決め、金融庁の金融商品取引業の登録を取り消し、証券業を自主廃業させた。これにより、約80年の歴史を持つ老舗証券会社であった「十字屋証券」はその幕を下ろした。同.4 十字屋ホールディングスという名称で投資顧問業へ鞍替えし、同社代表取締役社長に就任。

<兜町の重鎮に聞く「十字屋証券の創業と戦前期の経営」など
日本証券経済研究所(証券レビュー 第55巻第2号)など>


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