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やなぎ そうたろう

柳 荘太郎

やなぎ そうたろう

1861(文久1)〜 1938.11.21(昭和13)

明治・大正・昭和期の実業家、三井財閥の知己

埋葬場所: 12区 1種 17側 12番

 柳八十喜・千代子(共に同墓)の長男として生まれる。号は榴窓。
 1885(M18)慶応義塾大学に入学。慶応大学のシンボルであるペンの徽章の考案者の一人でもある。 学生時代に柳荘太郎含む高田源治郎、小田久太郎ら八名の生徒らが大枚六円を投じて服と外套を作り、着用して街を歩いたら、タイの留学生と間違えられたので徽章を作ろうとなり、「ペンは剣より強し」を書生の印しにしようと帽子につけたのが始まりである。 たちまち学生間で広まり、塾当局も塾章として認めて正式(1940)となった。1889卒業し、時事新報社に入って編集を補佐。
 1891(M24)三井銀行で取付け騒ぎが起こり、長州藩の井上馨に抜擢された福澤諭吉の甥の中上川彦次郎が三井改革の任を持って送り込まれ、大番頭の座に就いた。 中上川は三井組と呼ばれた時代からの手代を追い出して、柳荘太郎、藤山雷太(11-1-2-2 後に大日本精糖社長)、池田成彬(後に鐘淵紡績社長)、朝吹英二(後に王子製紙会長)、武藤山治(後に日本の紡績王)、藤原銀次郎(後に王子製紙社長)たちが抜擢された。 1894(M27)三井銀行に入行。三井家の再興及び三井銀行の基礎を築き、“三井財閥の知己”と称された。
 1917(T6)第一火災海上保険会社を設立し社長となる。'23関東大震災や金融恐慌の打撃もあり、'27(S2)帝国海上と合併。 その後、'44帝国海上は東京火災、第一機関汽罐と合併し安田火災海上となり、現在の損害保険ジャパン(2002)につながる。なお、戦後にできた第一火災海上保険(現在の三井住友海上火災保険)とは無関係。享年77歳。


墓所

*墓石は和型「柳家之墓」。右側に墓誌があり、戒名は喜壽院荘譽秀月松堂居士。

*妻の春和(すわ)の父は陸軍中将の大築尚志。尚志には五男九女の子供がおり、春和は七女。姉で六女の寿天(すて)の夫は田中義一(6-1-16-14)である。また、弟で四男の大築佛郎は麹町女学校を創立した教育者。荘太郎と春和の長男の柳満珠雄(同墓)は銀行家。なお、荘太郎の孫は三井財閥の中心人物の一人で、王子製紙(初代)の社長を務め「製紙王」といわれた藤原銀次郎の養子となった。


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