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やまのうち なおまる

山内直丸

やまのうち なおまる

1866.8.24(慶応2.7.15)〜 1956.6.4(昭和31)

明治・大正・昭和期の基督教伝道者、
ルーテル教会牧師

埋葬場所: 22区 1種 66側

 紀伊国(和歌山県)出身。実家の本性は穂積。のち鈴木氏と称した紀伊藩士。前名は鈴木直丸。先祖は鉄砲術を善くし、島原の乱で切支丹と交戦して戦死したという。
 1872(M5)7歳の時に父を亡くし、母の手によって育てられたが、旧制中学校に通っていた頃、家財が傾いて遂に破産した。1882(M15)17歳の時、尋常小学校の教師となる。この頃、ギリシア正教会に触れ、のち一致教会(日本基督和歌山教会)に転向し、1885 ヘール宣教師の手によって洗礼を受ける。
 1889 福音の伝道に献身することを決意する。1891 明治学院神学部に入学。1895 卒業後、日本のルーテル教会初代牧師の山内量平の招聘によって、日本ルーテル教会の最初の教会となる佐賀十字教会(日本福音ルーテル佐賀教会)に就任。教会での献身的な活動が、山内量平の信頼へとつながり、1896.9 ジェームス・シェーラーの司式により、山内量平の実姪で後に養女となっていた綾子と結婚。この時、山内量平の婿養子となり、山内の姓に改めた。
 1898 熊本に移って開拓伝道を行ない、熊本ルーテル教会、路帖神学校、九州学院の設立に貢献した。1899 義父の山内量平とともに按手礼を受けて、日本福音ルーテル教会の最初の牧師になった。1905 熊本ルーテル教会の教会堂を新築する。その後、福岡県小倉へ赴任し、のち東京ルーテル教会設立のために上京した。東京では「聴声学舎」を創設して学生教育に尽力した。
 '19.12.21(T8)教会全体を指導する立場である教会年会議長に任ぜられた。'21 東京ルーテル教会を辞す。'45 太平洋戦争激化により東京を離れ、金沢に疎開し、その地で終戦を迎えた。戦後、東京に戻り、A.J.アワルトらと日曜学校を補佐して余生を過ごした。享年89歳。

<日本キリスト教歴史大事典>
<日本「キリスト教」総覧>


墓所

*墓石は洋型「山内家之墓」、裏面「昭和十七年六月九日 建之」。左右に墓誌が建つ。右側の墓誌には「累代之尊霊奉齋」と刻み、山内憲〇(ネ+喜:S16.4.9歿・行年40歳)から刻みが始まり医学博士と刻む。その次に山内直丸、直丸の妻の山内綾子(S43.11.5歿・行年95歳)。長男の山内光和(H9.8.22歿・行年97歳)、光和の妻の綾子(S55.8.16歿・行年73歳)。左側の墓誌は富永忠利(H13.8.15・行年67歳)が刻む。

*山内直丸の妻の山内綾子は楠本熊子の長女で、伯父で福音ルーテル教会の初めての牧師の山内量平の養女となった。養母も福音ルーテル教会婦人伝道師の山内幹枝(旧姓は川瀬)。山内量平の妹は教育者の植村季野(1-1-1-8)、季野の夫はキリスト教伝道者の植村正久(1-1-1-8)、二人の娘の婦人運動家の植村環(1-1-1-8)。なお、山内量平の先祖の歴代墓は和歌山県日高郡みなべ町の新福寺にあり、祖父・父の墓は法伝寺にある。

*ルーテル教会とはマルティン・ルターによりドイツに始まるキリスト教の教派または教団。ルター派とも呼ばれる。プロテスタントの一つ。「ルーテル」という日本語名は、マルティン・ルター (Martin Luther) の舞台ドイツ語とよばれる発音の読みに由来する。日本におけるルター派の伝道は1892年、アメリカの宣教師によって始まった。現在、日本では日本福音ルーテル教会(アメリカ福音ルーテル教会などに由来)、日本ルーテル教団(アメリカのルーテル・ミズーリ・シノッドに由来)、西日本福音ルーテル教会(ノルウェー、フィンランドのルーテル教会などに由来)、近畿福音ルーテル教会(ノルウェー伝道会、ノルウェー・ルーテル自由教会に由来)の4団体。


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