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やまのい せいけい

山井清溪

やまのい せいけい

1846(弘化3.2.25)〜 1907.5.28(明治40)

幕末・明治期の漢学者、儒家

埋葬場所: 3区 1種 9側 19番

 武藏國澁谷村出身。山城淀藩士の内田半右衛門(成允)の次男。のち漢学者の山井介堂(璞輔:同墓)の養嗣子となる。名は重章、通称は幹六、字は善甫。清溪は号。
 幼い時から山井介堂に学び育つ。安井息軒、鹽谷箕山らに入門し、漢や唐の注疏(ちゅうそ:「注」は経を解釈したもの、「疏」は注をさらに解釈したもの)に精通。伊予(愛媛県)西条藩の藩校の択善堂の学頭をつとめた。
 廃藩置県後は、東京に出て養正塾で教える。1883(M16)群馬県県立中学校教授となり、同県の師範学校教授を務める。また学習院講師を経て、1896(M29)第一高等学校教授に任じられ漢学を教授した。著書に『群書治要考異』などがある。出版物は山井幹六の名義の刊行が多い。正6位。享年61歳。
 妻の山井道子(同墓)も儒家・教育者として活動した。漢学者の塩谷時敏(青山)、山井介堂の娘の子である山井良(同墓)を養嗣子として迎えている。良の長男である中国思想学者の山井湧(同墓)も同墓に眠る。

<講談社日本人名大辞典>
<東京掃苔録 藤波和子>
<人事興信録など>


墓地 墓地

*山井家墓所には7基の墓が建つ。正面「山井氏墓」。左に並んで山井道子の墓石で正面「智澄院山井道子之墓」、右面「明治三拾五年五月拾六日歿 山井幹六 継配」、左面「女 大地家榮 建之」。道子の墓石の向かい墓所左側に山井介堂の墓石で正面「介堂山井先生之墓」。その左隣の墓石は山井介堂の妻の千恵子の墓石で正面「幽貞儒人之墓」、左面「介堂先生 配 川井氏 諱 千恵子 明治四十三年七月一日歿 享年七十有九」。「山井氏墓」の右に並んで「賢達院山井鈴子之墓」、裏面に没年月日。その向かい墓所右側は山井清渓の墓石で正面「清渓山井先生之墓」、左面「嗣子 良 建」、右面「明治四十年五月廿八日歿」。その右隣の墓石は正面「貞窓院山井華子之墓」。その他、墓誌などはなく、山井良は清渓の墓石の建立者として名前が刻むが、山井湧を含む以降の刻みはない。

*碑石形像「山井清溪記念碑」が多磨霊園正面入口からバス通りにつながる道沿い(2区1種6側沿いのバス通り角地)に建つ。



第320回 儒家一家 山井清溪 山井道子 山井介堂 お墓ツアー
多磨霊園開園100周年


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