メイン » » » 山井介堂
やまのい かいどう

山井介堂

やまのい かいどう

1822(文政5)〜 1862.3.10(文久2)

江戸後期の儒家

埋葬場所: 3区 1種 9側 19番

 名は璞輔(はくすけ)、旧姓は渡邊。松崎慊堂(まつざき こうどう)の門人となり朱子学を学ぶ。足利学校で古典籍を比較考証した。
 松崎慊堂の薦めで、長らく断絶していた江戸時代の儒学者で考証学の第一人者である山井崑崙(こんろん)の家名を再興。伊予 西條藩に仕え、藩校拓善堂の教授とる。
 山井清溪(同墓)を幼い頃から指導し、のち養嗣子とした。享年41歳。なお、山井清溪と妻の道子(同墓)は漢学者の塩谷時敏(青山)と介堂の娘との間の子で、介堂の孫にあたる山井良(同墓)を養嗣子として迎えている。良の長男である中国思想学者の山井湧(同墓)は曾孫にあたる。

<講談社日本人名大辞典>
<日本医史学雑誌「知られざる医史学者・渡辺奎輔」町泉寿郎>
<東京掃苔録 藤波和子 など>


墓地

*山井家墓所には7基の墓が建つ。正面「山井氏墓」。左に並んで山井道子の墓石で正面「智澄院山井道子之墓」、右面「明治三拾五年五月拾六日歿 山井幹六 継配」、左面「女 大地家榮 建之」。道子の墓石の向かい墓所左側に山井介堂の墓石で正面「介堂山井先生之墓」。その左隣の墓石は山井介堂の妻の千恵子の墓石で正面「幽貞儒人之墓」、左面「介堂先生 配 川井氏 諱 千恵子 明治四十三年七月一日歿 享年七十有九」。「山井氏墓」の右に並んで「賢達院山井鈴子之墓」、裏面に没年月日。その向かい墓所右側は山井清渓の墓石で正面「清渓山井先生之墓」、左面「嗣子 良 建」、右面「明治四十年五月廿八日歿」。その右隣の墓石は正面「貞窓院山井華子之墓」。その他、墓誌などはなく、山井良は清渓の墓石の建立者として名前が刻むが、山井湧を含む以降の刻みはない。



第320回 儒家一家 山井清溪 山井道子 山井介堂 お墓ツアー
多磨霊園開園100周年


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・や行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。