フィンランドのソルダバラ出身。学校教師の父のアンティ・ピッカネンの5女1男の次女として生まれる。
ソルダバラの町は昔からルーテル派教会の多いところであり、シーリの一家も熱心なクリスチャンであった。
国立音楽学校で声楽を学ぶ。1908(M41)日本から牧師になるために留学をしていた神学生の渡辺忠雄(同墓)と結婚。
この時、シーリは18歳、忠雄は20歳であった。'10日本に旅立ち、二年ほど英米のルーテル教会を巡り、長野県長池村の忠雄の父の八十助の住む生家へ着いた。
ここで、忠雄の父は外国生まれのシーリが日本の嫁にふさわしいふるまいや言葉づかい、客のもてなしなどを身につけることを望んだようである。
シーリにとって何もかも新しい体験であり、畳の上での正座、馴れない食事、挨拶など厳しい日々を送ったと推察される。
そこで第一子エィミーが生まれるが、ジフテリアで死去。通夜の席での親戚縁者のもてなしもフィンランドにはない風習であり、辛いものとなった。'15(T4)第二子の忠恕(同墓)が生まれる。
'19忠雄が初めて牧師として東京巣鴨ルーテル教会に赴任と共に東京の地へ赴く。シーリは教会でオルガニストとしても活動。
教会の暮らしを「まるで人生の曙に出会ったような気がした」との気持ちから、同年生まれた第三子に暁雄(あけお)と名付けた。この頃より、ピアノを教え始める。
'20.3.28市川房枝に誘われ、上野精養軒で行われた新婦人協会発会式に出席、祝辞の冒頭に「日本に国籍を有し九年、其間日本婦人の地位に就いて潜かに憂へてゐたのが今回の運動を聞いて心から賛成して参加した」と述べ、続いて「フィンランドでは女性の参政権があり、立候補もできます。代議士や裁判官もいます」と男女平等の現状を話し評判を呼ぶ。
'21日本で生活を初めて10年目にして忠恕、暁雄を伴いフィンランドに里帰りをした。日頃の無理がたたってか片方の腎臓を切除する大病を患う。
入学期の忠恕はソルダバラの小学校に入学し、後からシーリの体を案じて夫の忠雄もフィンランドに入り、日本に帰国する'24まで一家はフィンランドで暮らす。
日本に戻ってからは請われるままに自宅や友人宅でピアノ教授をしていたが、'25自由教育を掲げた西村伊作の文化学院女学部に迎えられ、音楽・声楽の教鞭をとる。
'35同じ学院で教鞭をとっていた与謝野晶子(11-1-10-14)は退職するシーリに、「王朝の物語りにあるごとく、我が紅海のおとろへにけり」という自筆の色紙と西村伊作の絵など10氏の色紙を揃え、表紙に「麗陽集」と手書きでしたため贈った。
同年.12.8JOAKのシベリウス70歳の記念番組でシベリウス作品「黒薔薇」などを歌う。
音楽学校受験に熱中する暁雄の健康を案じ軽井沢に山荘を借り、そこでフィンランドや英国の留学生の世話もした。
戦中は外国人の手伝いなどをして山荘での冬の厳しい暮らしを切り拓きながら忠雄と二人で生活をしていたが、'44夫の忠雄と死別。
戦争が終わり、'45暁雄が東京都フィルハーモニー管弦楽団第1回定期演奏会で弱冠26歳にして指揮者デビューをした。
同年、シーリも忠恕と共に「フィンランドの夕べ」を開き、フィンランドの音楽を紹介している。
軽井沢で独り暮らしをしていたが、台所を掃除している最中に脳溢血で倒れ入院し療養していたが、忠恕夫妻、暁雄の妻に看取られながら逝去。享年60歳。
危篤の知らせで、ジャーナリストとして東京ローズ裁判に関連し渡米中であった忠恕は入院中に帰国ができたが、米国ジュリアード音楽院に入学したばかりであった暁雄は、苦労して送り出してくれた母の気持ちを無駄にせぬために帰国しなかった。
なお、ジュリアードを卒業した暁雄は、'58国内外での演奏活動とシベリウスおよびフィンランド音楽紹介の功により、フィンランド政府より二度にわたり勲章を贈られている。
シーリと忠雄のあいだにとりかわされたという恋の書簡を基に執筆された『さくらの咲く季節 渡邉忠雄とシーリ』が、シーリの妹マイヤの次男のイルマリ・ヴェステリネンによって出版されている。