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わたなべ ただお

渡辺忠雄

わたなべ ただお

1888.11(明治21)〜 1944.6.28(昭和19)

大正・昭和期の牧師(ルーテル派)

埋葬場所: 15区 1種 13側

 長野県長池村(岡谷市)出身。地主の渡辺八十助の子として生まれる。 下諏訪の地はフィンランドの宣教師が伝道をしていたこともあり、当時村に伝道に来ていた宣教師の影響で熱心なクリスチャンとなり、牧師になって伝道することを夢みるようになる。
 父の反対を押し切ってフィンランドに留学。ラムステッド公使の活動を助けた。留学先で声楽家のシーリと出会い結婚。 忠雄は20歳、シーリは18歳であった。1910(M43)帰国後、二年ほど英米のルーテル教会を巡り長野県長池村の生家へ帰る。 そこで第一子エィミーが生まれるが、ジフテリアで死去。'15(T4)第二子の忠恕(同墓)が生まれる。
 '19(T8)初めて牧師として東京巣鴨ルーテル教会(日本福音ルーテル東京池袋教会)に着任。同年、第三子の暁雄が誕生。 '21子供たちを連れて里帰りしていたシーリが腎臓を切除する大病を患った報を聞き、休業してフィンランドへ入り、日本に帰国する'24まで一家はフィンランドで暮らす。 日本に戻ってからは牧師に復帰した。晩年は東京都大田区の日本福音ルーテル大岡山教会の牧師。'40(S15)軽井沢に疎開。 山荘での冬の厳しい暮らしを切り拓きながらシーリと二人で生活をしたが没す。享年55歳。長男の忠恕はジャーナリスト、次男の暁雄は指揮者として活躍した。

<新婦人協会の人びとなど>


墓所

*元来は「渡邉」の漢字であるが、墓石には「渡辺」と刻むため、「渡辺」で統一した。

*墓所内には三基の洋型の墓が建ち、長男の渡辺忠恕と妻の華子(1916-1999)の墓、渡辺忠雄の墓、妻の渡辺シーリの墓がそれぞれ右から順に建つ。


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