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わたなべ ちゅうじょ

渡辺忠恕

わたなべ ちゅうじょ

1915.3.13(大正4)〜 1994.3.31(平成6)

昭和・平成期のジャーナリスト、
フィンランド民謡の訳詩家

埋葬場所: 15区 1種 13側

 長野県長池村(岡谷市)出身。父は牧師の渡辺忠雄、母はフィンランド人で声楽家の渡辺シーリ(共に同墓)。 三人兄弟の長男として生まれる。姉のエィミーは早死。弟の渡辺暁雄は日本を代表する指揮者。
 4歳の時に父が東京巣鴨ルーテル教会に赴任したのを機に一家で上京する。 1921(T10)母のシーリが里帰りのために故郷フィンランドのソルダバラに赴く際、弟の暁雄と共に着いていく。 現地にて、母が腎臓を切除する大病を患ったため、後から駆けつけた父の忠雄も含め、日本に帰国する'24まで一家はフィンランドで暮らす。そのため、入学期の忠恕はソルダバラの小学校に入学した。 フィンランド語が堪能になったのはこの時の経緯による。
 '42(S18)同盟通信に入社。ジャーナリストの傍ら、母のシーリと共に「フィンランドの夕べ」を開き、フィンランドの音楽を紹介している。 共同通信欧米部次長として、東京ローズ裁判に関連した取材など海外各国で活動。ロンドン支局(ロイター出向)、ローマ支局長、海外部長、国際局長、'68常務理事、'73顧問、日本新聞協会参与、欧米駐在代表を歴任。 '81帰国した。
 晩年は、フィンランド民謡の訳詩家として活動し、『フィンランド国家 わが祖国』、『スオミのうた』、『夏の夕べ』、『バラード(雪の北国)』などの訳詩をした。 また『ヨーロッパの新聞』を江尻進、阪田秀らと共著した。'84J・シベリウスの音楽やその生涯、またその他の北欧の音楽に興味のある方々のために、弟の暁雄と共に「日本シベリウス協会」を設立。 社団法人日本フィンランド協会(JAPANI-SUOMI YHDISTYS)理事長も務めた。享年79歳。没後、日本フィンランド協会は「渡邉忠恕記念奨学金基金」を設立。

<新婦人協会の人びと>
<物故者事典など>
<森光俊様より情報提供>


墓所

*元来は「渡邉」の漢字であるが、墓石には「渡辺」と刻むため、「渡辺」で統一した。

*墓所内には三基の洋型の墓が建ち、渡辺忠恕と妻の華子(1916-1999)の墓、父の渡辺忠雄の墓、母の渡辺シーリの墓がそれぞれ右から順に建つ。


渡辺暁雄 わたなべ あけお
1919.6.5(大正8)〜 1990.6.22(平成2)
昭和期の指揮者
谷中霊園(乙2-10)
 東京出身。1942(S17)東京音楽学校研究科修了。ローゼンシュトックの門下。 初めバイオリン奏者として活動後、指揮に転じ、'48〜'54東京フィルハーモニー初代専属指揮者として活躍。 在任中、'50〜'52ジュリアード音楽学校指揮科に留学し、ジャン=モレルに師事。'56日本フィルハーモニー交響楽団の創立に参画し、'68まで初代専属指揮者。 '70〜'72京都市響常任指揮者、'72〜'78東京都響音楽監督(後、名誉指揮者)を歴任。'78再び日本フィルハーモニー音楽監督を務めたが、'84辞任して、広島交響楽団の音楽監督に就任(後、名誉音楽監督)。
 一方で、'49以来、東京芸術大学で教え、'80より客員教授(名誉教授)。'82作陽音楽大学音楽部部長。シベリウスの指揮は特に定評があった。 この間、'58フィンランド第一級獅子勲章、'60フランス芸術文化勲章、'66日本芸術院賞、'76フィンランド白バラ勲章コマンダー章、'78毎日芸術賞、同年、日本芸術院会員、'82第12回モービス音楽賞を受賞。 他に、日本演奏連盟理事、日本オペラ協会評議員、スター・ダンサーズ・バレエ団理事長。著書に『トスカニーニの生涯』など。享年71歳。'92(H4)渡辺暁雄音楽賞が設立された。
 妻は首相を務めた鳩山一郎の五女の信子。長男の渡辺康雄、次男の渡辺規久雄は共にピアニスト。規久雄の妻の寺田悦子もピアニスト。

<コンサイス日本人名事典>
<芸能人物事典>


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