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つちや ちくう

土屋竹雨

つちや ちくう

1887.4.10(明治24)〜 1958.11.5(昭和33)

大正・昭和期の漢詩人、漢学者

埋葬場所: 6区 2種 3側

 山形県鶴岡市出身。庄内藩士の土屋久国の長男として生まれる。名は久泰(ひさやす)、字は子健(しけん)、竹雨は号。幼少の頃から祖父のもとで漢詩の手ほどきを受け、7歳の時にすでに詩をつくっていた。
 1906(M39)荘内中学校を卒業し、仙台の旧制第二高等学校を経て、'14(T3)東京帝国大学法学部を卒業。その間、詩を大須賀筠軒(おおすが いんけん)、岩渓裳川(いわたに しょうせん)に学ぶ。卒業後は伊那電鉄会社に入社し、働きながら国分青厓(13-1-50)に学んだ。
 '23 財団法人大東文化協会が設立され幹事となり、機関紙「大東文化」の主幹となる。また田辺碧堂(7-1-2)、石田東陵、久保天随(11-1-3-3)らと忘年の交わりを結んだ。'28(S3)大倉財閥2代目総帥・男爵の大倉喜七郎の後援で芸文杜を創設し、漢詩文雑誌「東華」を発刊。
 '31 大東文化学院の講師、'35 教授となる。'39 朝鮮や中国を巡る。'44 文学報国会派遣委員として南京に赴く。'45 終戦後は郷里の鶴岡に戻り、漢詩の指導にあたった。'49 日本芸術院会員に推挙される。同年、大東文化学院専門学校の第14代校長に就任。学校が大学に昇格し、'51 東京文政大学の初代学長に就任した。この学校は4年後、'53より校名を改称して現在の大東文化大学となる。'50 郷里の鶴岡に設立した致道(ちどう)博物館の前身の以文会(いぶんかい)の顧問に就任。その他に、余香吟社などの詩社を指導した。
 '57 古稀に当り、自選詩集『猗廬詩稿(いろしこう)』二冊を刊行した。ここに掲載された『原爆行(こう)』『水爆行(こう)』などは英訳され世界各地に贈られた。この「原爆行」は歌行体の七言古詩で吟じられた反戦詩である。広島の原爆資料館に展示されていたが、今は同じく平和公園内の平和記念館二階展示場入口に掲げられている。この詩は、亡くなる直前、広島・長崎における無差別大量殺戮を行った核兵器が、全人類の滅亡につながるのを慨くあまり、其の惨禍をまざまざと長詩に詠じたもので、世に不朽の傑作といわれた。またこの詩は、'58(S33) 原水爆禁止世界大会広島大会で吟詠されて、参加者に大きな感銘をあたえた。その際、外国代表に英訳して配られ、英訳された詩はロンドン、ストックホルム、ジュネーブなどの国際集会でも発表された。
 国分青厓のあと漢詩壇の第一人者として活躍し、現代最高の詩人と称された。病気にて逝去。享年71歳。没後、'61『土屋竹雨遺墨集』が刊行された。従4位に叙せられ、勲4等が追贈された。

<日本人名大事典>
<庄内人名事典>
<「庄内の美術家たち」鶴岡アートフォーラム>


*墓石は和型「土屋家之墓」。右面が墓誌となっており戒名は芸文院泰山竹雨居士。

*郷里の山形県鶴岡市の総穏寺に「土屋竹雨墓」が建つ。多磨霊園は分骨という形で眠っている。


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