東京下谷区(台東区)出身。本名は得二。はじめ春琴、後に天随と号した。別号は兜城山人や秋碧吟廬主人がある。父は信州高遠藩士の譲次(同墓)。17歳の時に父が亡くなり、旧藩主の内藤頼直の命によって、父方の藁科(わらしな)姓ではなく、母方の久保姓を継ぐこととなった。
18歳頃から漢詩を作り始める。なお「天随」の号は『荘子』在宥篇「神動(しんどう)而(すなわち)天随」の句から、久保が十四、五歳の時、自ら選んだものである。
1899(M32)東京帝国大学漢文科卒業。久保は吃音のため社交を避け、拘束されることを嫌ったため、卒業後、約20年間定職に就かなかった。当時のことを本人は「繁忙にして或は無意味に近い売文生活」と言っている。幅広い分野の著作を出し、売文生活と称した時代だけでも約70冊の本を出版した。
初期は「帝国文学」に、紀行、随筆、中国文学や文芸の評論などを発表。赤門文士の一人として文壇に知られるようになる。当時、新しい鉄道を敷設していた鉄道省は、観光客を招くために、久保ら若手文士たちに全国どこでもいける優待券を配り、美しい紀行文を書くことを依頼していた。
後に中国戯曲の研究、作詩、著述、翻訳にも傾倒。『東洋通史』『四書新釈』『文書軌範精義』などを著した。特に翻訳はスイスの教育家であるペスタロッチの『酔人の妻』、プラハ大学教授オットー・ウィルマンの『教授新論』などの他、江戸時代から「三国志」や「水滸伝」などは通俗として多くの人に読まれた作品を、改めて新訳として翻訳しなおしている。
'15(T4)注釈や新訳の活躍から、大礼記録編纂委員会の嘱託となる。'17より漢詩専門誌で西廂記(せいそうき)に関する連載を持ち、'20 宮内省図書寮(ずしょりょう)編修官となった。宮内省で働くことで、内閣文庫に所蔵されている蔵書を自由に閲覧することができ、膨大な中国文学の原始資料に触れることができたことが、中国戯曲方面の研究をするきっかけとなり、久保の人生の転機となった。'24夏、満州に旅行し詩集を執筆し、翌年「西廂記の研究」で学位を申請、'27.11.7(S2)文学博士を得た。
'27 随鴎吟社の主事を務める。'28 台北帝国大学が設立され、翌年より教授に就任し、文政学部東洋文学科で中国文学講座を担当し中国文学史などを教えた。台湾では、澎湖諸島や琉球を旅して紀行文と漢詩を多く残した。また同地の日本人と台湾人の漢詩人らと「南雅社」という詩社を結成し、詩人としても活躍した。主な作品に『山水美論』『白露集』『支那戯曲集』等が多数ある。
'34.6.1 病で寝込んでいたところ、近くで落雷があり、雷の大音響の衝撃が原因で脳溢血を起こして、台北の地で逝去。享年58歳。
*墓石は和型「久保家墓塋」。左右に墓誌が建つ。久保天随は右側の墓誌に刻むが、本名の久保得二の名で刻む。名の横に「號 天随」と刻み、没年月日と行年は60歳と刻む。
*没月日を多くの人名事典は6月2日としているが、墓誌には6月1日と刻むため、そちらを優先する。
*墓誌は久保天随の祖父の久保尚友(文久2.8.5歿)から刻みが始まる。次に天随の父の久保譲次(M34.7.18歿・66才)が刻む。久保譲次は高遠藩士だった東京府士族。慶應義塾在学中に、1870(M3)明治政府による貢進生の招集に高遠藩から唯一推挙されたが、年齢が行き過ぎているという理由で不合格となり(代わりに伊沢修二が選ばれた)、翌年に旧藩校進徳館に新設された洋学科の教師となった。その後、松本の筑摩県学(旧松本藩校、のちの開智学校)の洋学舎長となった。この間、1874『世界の地球儀用法』を翻訳している。天随の母の まさ は長野県出身、中島喜野太夫這季の4女。
*同墓には天随の弟の久保正夫(1894-1929)も眠る。正夫は聖フランチェスコの関連書を多く訳し、特に『フィヒテの哲学』の翻訳で知られ、友人の倉田百三(23-1-26-2)とともに大正時代の宗教文学ブームの先駆けを作った。正夫は哲学者の谷川徹三の姉の鯉江もと子の入婿となったが2年程で急逝した。天随には4人の男子の子息がおり、全員同墓に眠る。長男の久保舜一(1908-1992)は教育学者で文部省所轄研究所国立教育研究所室長を務めた。二男の久保昌二(1911-1994)は物理化学者で名古屋大学名誉教授。三男の久保啓三は水産学研究者で農林省水産局員を経て水産庁資料館館長を務めた。四男の久保亮五は物理学者で文化勲章受章者で元号制定委員として「平成」の制定に立ち会った。
*多磨霊園のパンフレットには久保天随の墓所番地を「11区1種3側3番」と紹介しているが、墓所は4番目にあるため、正しくは「11区1種3側4番」であると思われる。ここでは「4番」と紹介します。