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くぼ てんずい

久保天随

くぼ てんずい

1875.7.23(明治7)〜 1934.6.1(昭和9)

明治・大正・昭和期の漢詩人

埋葬場所: 11区 1種 3側 3番

 東京下谷区(台東区)出身。本名は得二。はじめ春琴、後に天随と号し、別号は兜城山人・秋碧吟廬主人。父は信州高遠藩士の譲次(同墓)。17歳の時に父が亡くなり、旧藩主の内藤頼直の命によって母方の久保氏を継ぐこととなった。
 18歳頃から漢詩を作り始める。1899(M32)東京帝国大学漢文科卒業。卒業後、帝国文学に紀行、随筆、中国文学評論などを発表。のち中国戯曲の研究、作詩、著述、翻訳に傾倒し、『東洋通史』『四書新釈』『文書軌範精義』などを著わす。また翻訳『酔人の妻』『教授新論』などがある。
 '15(T4)大礼記録編纂委員会の嘱託となる。'17より漢詩専門誌で西廂記に関する連載を持ち、'20宮内省図書寮編修官となった。'24夏、満州に旅行し詩集を執筆し、翌年「西廂記の研究」で学位を申請、'27.11.7(S2)文学博士。
 '27随鴎吟社の主事。'28台北帝国大学が設立され、翌.4.11教授に就任し、文政学部東洋文学科で中国文学講座を担当し中国文学史などを教えた。主な作品に『山水美論』『白露集』『支那戯曲集』等がある。また澎湖諸島や琉球を旅して紀行文を残した。台北で病臥中に近くで落雷があり、その衝撃で脳溢血を起こして逝去。享年58歳。

<コンサイス日本人名事典>
<日本近現代人名辞典など>


*墓石は和型「久保家墓塋」。左右に墓誌が建つ。久保天随は右側の墓誌に刻むが、本名の久保得二の名で刻む。名の横に「號 天随」と刻み、没年月日と行年は60歳と刻む。

*没月日を多くの人名事典は6月2日としているが、墓誌には6月1日と刻むため、そちらを優先する。

*息子に物理化学者の久保昌二(同墓)、物理学者の久保亮五(同墓)。


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