東京府駒込出身。父は漢詩人の久保天随(同墓)、5人目の子(4男)として生まれる。兄に物理化学者の久保昌二(同墓)がいる。
11歳の時に父が台北帝国大学教授に就任したことで、台湾台北市に転居。'32台北高等学校尋常科に入学するも、'34父の死去に伴い駒込に戻り、東京府立第5中学校に編入。'39第一高等学校理科甲類卒業を経て、'41東京帝国大学物理学部物理学科卒業。
'43同大学理学部助手となる。戦後、'46上條千鶴子(同墓 H26.7.21 92歿)と結婚。'48同大理学部助教授に昇進。ゴムの分子的理論を研究し、河出書房から出版した『ゴム弾性』で毎日文化賞を受賞('48)。'50理学博士。'51〜'53シカゴ大学金属研究所に研究員として単身渡米。'54東京大学教授となる。冨田和久と線形応答理論に基づいたフーリエ変換NMRの基礎理論を提唱。'57『非可逆過程の統計力学』の研究により仁科記念賞を受賞。
'63シカゴ大学、ペンシルベニア大学で客員教授を務め、一家で渡米。翌年帰国。'64財団法人松永記念科学振興財団が、優れた研究発見をした若い技術者・科学者に研究費として賞金を贈る松永賞を受賞。同年、日本物理学会会長に就任(〜'65)。またパリ大学客員教授として渡仏した。'68大学紛争下で東京大学理学部長に就任(〜'71)。
'69『非可逆過程の統計力学における線型応答理論』で恩賜賞を受賞。日本学士院賞。'70『物性基礎論とくに統計力学および確率過程論に関する研究』で藤原賞を受賞。'72ニューヨーク州立大学客員教授として渡米。IUPAP副会長に就任(〜'78)、学術審議会委員(〜'82)、物理学研究連絡委員会委員(〜'91、'73以降委員長)となる。
ゴム弾性の統計力学、磁気共鳴吸収についての研究など、統計物理学、物性物理学の分野で国際的に知られた。特に「久保理論」といわれる非可逆過程の線形応答理論を確立した。これらの功績により、'73文化勲章受章、文化功労者として表彰される。
'74全米科学アカデミー名誉会員。'75国際学術交流委員会(ICSU小委員会)委員(〜'78)。'77熱力学や統計力学に関連する新しい成果を生み出した物理学者に授与される権威ある賞のボルツマン賞を受賞。'78シカゴ大学より名誉学位を贈られる。国際学術交流会(ICSU分科会)委員長(〜'85)。'79仁科記念財団の理事長に就任。'80東京大学停年退官(名誉教授)、京都大学基礎物理学研究所教授となる。'81京都大学停年退官、慶應義塾大学理工学部の教授となる。'82日本学術会議の会長に就く(〜'83)。日本学士院会員。'84フランス科学アカデミーの名誉会員。IUPAP副会長に就任(〜'87)。'85第六常置委員会(ICSU分科会)委員となる(〜'91)。'86理化学研究所国際フロンティア研究システム長に就任(〜'91)。
'89(H1)1月7日に元号制定委員として「平成」の制定に立ち会った。世界平和アピール七人委員会の委員となる。また岩波書店にて小田稔との二人画展開催。'91井上科学振興財団理事長に就任。'92皇居において御進講「自然界における秩序の形成」。慶応義塾大学退官。'93勲一等瑞宝章を受章。'94画文集 『山河燦燦』上梓、おとわ画廊にて画展を行った。享年75歳。没後、従3位を追贈。'97生前の業績を記念して井上科学振興財団が「久保亮五記念賞」が創設された。
*墓石は和型「久保家墓塋」。左右に墓誌が建つ。久保亮五は右側の墓誌に刻む。妻は千鶴子。
*妻の千鶴子と共訳で『エンリコ・フェルミ伝 ―原子の火を点じた人』(みすず書房:1976)がある。エンリコ・フェルミ(1901-1954)という人物とは、20世紀初頭のイタリアに一大学派を築き、素粒子論と原子核物理に多大な貢献を果たした天才であり、原子爆弾開発プロジェクトであるマンハッタン計画でも中心的な役割を演じ、世界初の原子炉を創った人物である。ノーベル物理学賞受賞者で、原子番号100の元素はフェルミウム (Fermium)は彼から命名されている。また、10のマイナス15乗メートルは1フェルミとされた。小惑星の一つもフェルミと名付けられた。
*東京都文京区の日輪寺にも墓があり、そちらには久保亮五の功績が書かれたステンレス製の銘板が据えられている。