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としみつ つるまつ

利光鶴松

としみつ つるまつ

1863(文久3.12.29)〜 1945.7.4(昭和20)

大正・昭和期の実業家(小田急)

埋葬場所: 9区 1種 2側 7番

 大分県大分郡植田村出身。農家の利光市松の長男として生まれる。1879(M12)父が亡くなったことから実家の農家を継ぐ。傍ら、中国古代の史書の勉強会に参加したり独学で勉学に励んだ。1881実家を去り、隣町の涵江書塾に入門し、頭成学校の助教員になる。その後も大分県内の私塾にて勉学を励む。
 1884(M17)上京し、五日市小学校(勧能学校)教員を務めたのち、1886明治法律学校に進学、翌年、代言人(弁護士)試験を1番の成績で合格し、同年末に事務所を開設した。1889大同団結運動に参加するなど政治活動をはじめ、翌年、立憲自由党に入党、大分県代表・東京支部幹事に就任した。
 1896(M29)東京深川の市会議員に立候補し当選。1898(M31)第5回衆議院議員議員総選挙に東京第5区より出馬し当選し、憲政党幹事となる。第6回衆議院議員総選挙でも連続当選するも、1900に起きた東京市参事会収賄事件により収賄幇助罪に問われ、'02判決により議員資格が消滅した。
 この間、1899東京市街鉄道敷設の出願に参画していたことから、以降、実業界に転じ、'05同社取締役に就任する。'06東京市街鉄道・東京電車鉄道・東京電気鉄道のいわゆる三電会社の電車賃は市民に評判が悪く、東京市電値上反対事件を契機に3社合併により東京鉄道が発足し、重役に就任した。 また、日光で鉱山業を計画したことで鬼怒川流域の開発に目をつけ、1910.10.1鬼怒川水力電気を興し、社長に就任した。更に、'11京成電気軌道(京成電鉄)会長、千代田瓦斯社長にも就任した。
 大正時代に入り、郊外鉄道の将来性に着目し、東京市内の地下鉄網「東京高速鉄道」・山手線を外周する「東京山手急行電鉄」・城西地区の開発を目的とした「渋谷急行電鉄」などを次々と企画した。'23.5.1(T12)自身が経営していた鬼怒川水力電気を親会社とし、小田原急行鉄道を設立し社長となる。 '26.10.4高座郡大野村駅−高座郡藤沢町駅間で鉄道免許状下付。'27.1.15(S2)小田原急行土地(株)を合併し、同.4.1一部単線で新宿駅−小田原駅間を一気に開通させ、全線開業(初乗旅客運賃は大人5銭、小児3銭。当時の駅数は38駅。同時に向ヶ丘遊園地を開園)。企画構想が実現したのは小田急線と井の頭線(渋谷急行計画の後身)だけであったが、後に企画したものは五島慶太らの手により実現した。
 小田原急行鉄道の飛躍は目覚ましく、'29.4.1(S4)江ノ島線全線開業(当時の駅数は13駅)、'35新宿−小田原間ノンストップの週末温泉特急運行開始、'38バス事業開始、'40帝都電鉄(京王井の頭線)を合併と着々と事業拡大が行われていたように思えたが、'41(S16)電力国家管理に伴う日本発送電への統合で、基幹事業の電力部門を奪われた鬼怒川水力電気は小田急を合併し、小田急電鉄と改称。 中国・山東半島での金鉱開発事業失敗が同社の経営を圧迫、自身の高齢も伴い、経営権を東京横浜電鉄の五島慶太に社長の座を禅譲し全ての役職より引退した。小田急は吸収合併により東京急行電鉄(いわゆる大東急)となった。
 '40紺綬褒章を受章。享年83歳。没後、'55小田急電鉄が営業を行っていた向ヶ丘遊園内に「利光鶴松翁の頌徳碑」が建之され、'65.4.10銅像も建之された。また、教員として働いた五日市の古民家は、'56「松鶴庵」として向ヶ丘遊園に移築され蕎麦屋として営業された。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<小田急電鉄の歴史関連書籍など>


墓所 利光家之墓
利光鶴松像1 利光鶴松像2

*広大な墓域に墓石は正面二基。正面に十字架を刻んで「利光鶴松翁之墓」。左側に十字架を刻んで「利光家之墓」が建つ。墓所右手側に利光鶴松像が建つ。 「利光鶴松翁之墓」の裏面には「利光鶴松翁略歴」と題して略歴が刻み、「小田急電鉄株式会社取締役社長 安藤楢六 撰」、「元 同右 五島慶太 書」とある。 小田急電鉄開業二十五周年に当たり、翁の偉業、遺徳を偲び建立する旨の刻みが見れる。昭和二十七年四月建之。「利光家之墓」の裏面は墓誌となっている。鶴松は霊名をヨゼフ。妻はトヨ。松男は霊名をアロイジオ。

*長男の利光松男(同墓)は日本航空社長を務めた人物。長女の伊東静江(16-1-1)は大和学園創立者である。



第243回 小田急 小田原急行鉄道創業者 利光鶴松 お墓ツアー


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