東京出身。小田急電鉄創業者の利光鶴松(同墓)の長女で大和学園創立者の伊東静江と大蔵官僚の伊東亮一(共に16-1-1)の二男として生まれる。旧姓は伊東。姉の伊東千鶴子は大和学園の2代目理事長。利光鶴松の養子となり、利光姓になる。
1947(S22) 上智大学経済学部経済学科卒業。貿易会社の営業マンを経て、'51.8.1日本航空の第一期生として入社。主に旅客営業畑を歩む。
販売促進課長時代に日本企業の海外駐在員が赴任地に家族を呼び寄せる際に提供する「ファミリー・サービス」を発案したり、「有名人と行く海外ツアー」といった新商品から、ホノルルマラソンの仕掛け、パラオ諸島の開発事業、リゾートブランド「リゾッチャ」の立ち上げなどアイデアを生み出していった。
この背景には、常に部下の声にも耳を傾けるボトムアップと、現場の重要性を説く。「夜の整備工場でも空港支店でも現場を見ると経営のヒントがある。その現場重視の先にミラーボール経営という流通重視の考え方がある。
ミラーボールは周囲の光があってはじめて光り輝ける。企業経営も顧客や取引先、社員があってこそ成り立ち、光を放てる。したがって、主役は経営者ではなく社員であり、お客様だ」という哲学を終始一貫して持ち続けた。
海外パックツアーの先がけ「ジャルパック」の開発に携わり、発売を見届けた後、'66メキシコ支店長として赴任、'69帰国。旅行開発(ジャルパック)に出向し、代表取締役専務に就任した。ここで“品質のジャルパック”の基礎を築く。
品質管理におけるツアーコンダクター教育の重要性に着目し、業界初の本格的ツアーコンダクター養成に乗り出した。一方で、急増する海外旅行需要から、遠からずツアコン不足が深刻化すると見抜き、特に旅行客が多かったハワイではノンエスコート構想を打ち上げた。
羽田空港までのセンディングさえ賄えば、搭乗手続きは日本航空の地上職員、機内では客室乗務員が対応できる。残る現地での受け入れ体制は、現地法人の設立で万全を期す。
こう考え、'70ハワイ現地法人パシフィコ・クリエイティブ・サービスを設立する。こうしてノンエスコートツアーを実現することで、ツアーの毎日催行と経費の削減を両立させ、ジャルパックの販売は大きく拡大した。
'71日本航空営業本部国際旅客部長、'75アジア地区支配人兼香港支店長を経て、'77日本航空取締役、'81日本航空常務取締役に就く。'83ジャルパック社長、'85.6日航商事社長(JALUX)に転出するも、同.8御巣鷹山事故の後、危機に直面した日本航空の舵取り役として抜擢され、社長就任を打診されるも固辞し、同.12日本航空代表取締役副社長として新経営陣の一人として復帰した。
特殊法人時代から一貫して民営化を唱えており、経済界から起用された伊藤淳二、総務庁出身の山地進のトロイカ体制で危機を脱し、ついに、'87民営化を実現した。
'90(H2)日本航空代表取締役社長に就任。しかし、バブル崩壊と湾岸戦争の影響で、'91完全民営化後初の赤字に転落したのを受け、人員削減などのリストラを進めた。その後、客室乗務員のアルバイト採用では当時の亀井運輸相と対立した。
副社長・社長在任の10年間に重大事故がなく、構造改革を進めながら安全面も両立した経営者として評価が高い。座右の銘は元日本航空社長の松尾静麿の「引き返す勇気を持て」という言葉を常に胸に刻んでいたという。
また「黒字で事故を起こすくらいなら、赤字で無事故を選ぶ。赤字は翌年挽回できるが、航空会社にとって信用失墜は許されない」と述べている。
'95相談役に退き、'99常任顧問となり、この年に自宅に短銃の銃弾が撃ち込まれる事件が発生した(総会屋絡み)。2001日本航空システム名誉顧問。同年、勲二等旭日重光章受章。
この間、'99(H11)囲碁が好きだったこともあり、日本棋院理事長に就任。累積赤字で悩む棋院の財政を立て直すため、コスト削減などを断行し「囲碁界のカルロス・ゴーン」と呼ばれた。棋院創立80周年事業として囲碁殿堂資料館の設立も主導したが、運営方針をめぐる激しい対立から2004.4(H16)任期途中で辞任した。
同.11.8(H16)夜、都内の自宅で首を吊っているのを家族がみつけ、近くの病院に運ばれたが、9日未明に心不全で死亡が確認された。享年80歳。葬儀は近親者のみで行われた。喪主は長男の松太朗氏。24日に日航による葬儀が東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行われた。
遺書はなく、自殺のはっきりとした理由は不明だが、ある日本棋院関係者は「心当たる原因とすれば、あの紛争しかない」と明かす。紛争とは、日本棋院が対局ソフトを開発する際の提供企業の選定をめぐって生じた理事会内の対立のことである(日本棋院が「パンダネット」から韓国の「世界サイバー棋院」に切り替えた問題)。
辞任前から持病の不整脈に加え、不眠などを訴えており、棋士と財界人の間で板ばさみになり、心身ともに疲れ切っていた。その心労が癒えず、自殺につながったとの声もあり波紋が広がっている。
2008(H20)第2回日本国際ツーリズム殿堂入りを果たす。