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とみおか もりひこ

富岡盛彦

とみおか もりひこ

1892.1.3(明治25)〜 1974.9.9(昭和49)

昭和期の神職(富岡八幡宮第18代宮司)

埋葬場所: 5区 1種 7側

 福岡県築上郡八津田村東八田(築上町)出身。澤渡敬吉の二男。旧姓は澤渡。國學院大学を卒業後、川面凡児(6-1-13-14)の推薦で富岡八幡宮宮司の富岡宣永(同墓)の娘の好子(同墓)と結婚し、婿養子となった。
 1927(S2)札幌神社(北海道神宮)の宮司に就任。'32 鹿島神宮宮司となる。'43『聖戦と天佑神助』を編纂した。戦後は神社本庁と茨城県神社庁の設立に奔走した。'49.12.26 義父の富岡宣永の死去に伴い、富岡八幡宮第18代宮司に就任。
 '58 反共国民戦線を標榜する右翼団体「新日本協議会」の設立に関与。'68 新日本協議会東京都連の結成に加わる。この間、'59〜'62 神社本庁事務総長を務め、神道復興に力を入れた。また國學院大学理事長も務めた。なお、氏神・産土神の神学的研究により哲学博士、文学博士。
 '74.4.2 明治記念館において「日本を守る会」が設立され代表委員になる。この団体の結成は保守系宗教団体運動の合同化の先駆けだとされる。しかし、設立 5か月後に逝去。享年82歳。没後、二男の富岡興永(同墓)が富岡八幡宮宮司を継いだ。

<神道人名辞典>
<人事興信録>


*墓石は和型「吉岡家之墓」、裏面「昭和三十五年七月 富岡盛彦 建之」。左側に「石井慎吾墓」も建つ。右側に墓誌が建つ。富岡八幡宮第16代宮司の富岡有永(M28.6.26歿・58才)から刻む。有永の妻は烏子(M36.9.9歿)。富岡宣永と富岡盛彦は「養子」と刻む。富岡興永は「盛彦次男」、富永長子は「興永長女」と刻む。20代宮司の興永の長男の富岡茂永の刻みはないため埋葬されていない可能性あり。

*富岡宣永の妻はトヨ子(M10-S35.3.22:同墓)。二人の間に3女を儲ける。長女は好子(M30-S54.9.5:同墓)で沢渡盛彦と結婚し婿養子とする。富岡盛彦(同墓)が富岡八幡宮第18代宮司となる。盛彦と好子の間には2男2女を儲ける。長男の富岡邦臣(T15-S41.1.20:同墓)は早稲田大学卒業。'46.10.15 富岡八幡宮禰宜を務めていた際に、宮司を務めていた祖父の宣永と共に、浅沼稲次郎(18-1-3-12)宛の社務所書簡の作成者となる。しかし、邦臣は精神に異常をきたし富岡八幡宮の境内にある家でガス自殺した。長女は美枝(T12生)、二女は昌子(S6生)。二男の富岡興永(S3-H24.7.20:同墓)が富岡八幡宮第19代宮司となる。興永の妻は聰子(S5.4.20生)で籠神社宮司の海部穀玄の長女。墓誌には富岡八幡宮第21代宮司で興永の長女の富永長子(ながこ:1959-2017.12.7:同墓)も刻む。

*20代宮司の興永の長男の富岡茂永(1961-2017.12.7)が姉の富永長子を殺害し自身も自殺を遂げた「富岡八幡宮殺人事件」に関しては富岡興永の頁へ。


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