東京出身。母方祖父は富岡八幡宮第17代宮司の富岡宣永(同墓)。父は富岡八幡宮第18代宮司の富岡盛彦、好子(共に同墓)の二男として生まれる。兄の富岡邦臣(同墓)も神職をしていたが早世。
1950(S25)國學院大学の旧制哲学科を卒業。卒業後に電通に入社。'59 京都府宮津市にある籠神社の禰宜となる。同神社宮司の海部穀玄の長女の聰子と結婚した。'60 東京に戻り富岡八幡宮の禰宜になる。
'74.9.9 父の富岡盛彦の死去に伴い、富岡八幡宮第19代宮司に就任。國學院大学評議員なども務めた。『回天の聖者−大巡典経日本語訳』を著した(編集は李祥昊:1994.7)。'94.10(H6)体調不良のため宮司を退任し、'95.3 長男の富岡茂長が20代目宮司に就任し、自身は名誉宮司となる。
2001.5 茂永が素行の悪さを理由に宮司を解任され、自身が宮司に再任した。2010.10 再び体調を崩し宮司を退任。2011.1.25 名誉宮司となった。後継者に長女の富岡長子(同墓)を指名。富岡八幡宮の責任役員会が神社本庁に長子の宮司就任を具申するが認められず、以降、計4回具申するも許可されなかった。2012 宮司不在のまま逝去。享年84歳。
興永没後、長子が宮司代務者となる。引き続き長子の宮司昇進を求める具申や、氏子総代・神輿総代連合会は要望書や嘆願書を神社本庁に提出したが認められなかった。2017.5.29 富岡八幡宮は責任役員会を開き、神社本庁からの離脱を決議。これにより、同.9.28 正式離脱。同.10 単立神社として再出発し、富永長子は富岡八幡宮第21代宮司に就任した。しかし、同.12.7 長子は弟の茂長に殺害される「富岡八幡宮殺人事件」が起きる。
*墓石は和型「吉岡家之墓」、裏面「昭和三十五年七月 富岡盛彦 建之」。左側に「石井慎吾墓」も建つ。右側に墓誌が建つ。富岡八幡宮第16代宮司の富岡有永(M28.6.26歿・58才)から刻む。有永の妻は烏子(M36.9.9歿)。富岡宣永と富岡盛彦は「養子」と刻む。富岡興永は「盛彦次男」、富永長子は「興永長女」と刻む。20代宮司の興永の長男の富岡茂永の刻みはないため埋葬されていない可能性あり。
*富岡宣永の妻はトヨ子(M10-S35.3.22:同墓)。二人の間に3女を儲ける。長女は好子(M30-S54.9.5:同墓)で沢渡盛彦と結婚し婿養子とする。富岡盛彦(同墓)が富岡八幡宮第18代宮司となる。盛彦と好子の間には2男2女を儲ける。長男の富岡邦臣(T15-S41.1.20:同墓)は早稲田大学卒業。'46.10.15 富岡八幡宮禰宜を務めていた際に、宮司を務めていた祖父の宣永と共に、浅沼稲次郎(18-1-3-12)宛の社務所書簡の作成者となる。しかし、邦臣は精神に異常をきたし富岡八幡宮の境内にある家でガス自殺した。長女は美枝(T12生)、二女は昌子(S6生)。二男の富岡興永(S3-H24.7.20:同墓)が富岡八幡宮第19代宮司となる。興永の妻は聰子(S5.4.20生)で籠神社宮司の海部穀玄の長女。墓誌には富岡八幡宮第21代宮司で興永の長女の富永長子(ながこ:1959-2017.12.7:同墓)も刻む。
【富岡八幡宮殺人事件】
歴史ある富岡八幡宮の代々宮司を務める家で弟が姉を殺害する事件が起きた。加害者は富岡八幡宮第20代宮司を務め、富岡興永と聰子の長男の富岡茂永(1961-2017.12.7)であり、殺害されたのは富岡八幡宮第21代宮司で富岡興永と聰子の長女の富永長子(1959-2017.12.7)である。
1994.10(H6)富永興永が体調を崩し宮司を退任。'95.3 父の後を継ぎ、富岡茂永が富岡八幡宮第20代宮司に就任した。同年、神道青年全国協議会理事になり、'99 東京都神道青年会(都神青)の会長に就任。神社本庁参与、國學院大学協議員なども務めた。しかし、茂永は金遣いの荒さや女癖の悪さなどが問題視され、2001.5 宮司を解任させられた。茂永には1億2千万円の退職金とともに月額30万円の年金が支給され、妻とともに福岡県宗像市に移り住み悠々自適の生活を送った。茂永の退任後は父の興永が富岡八幡宮の宮司を再任。
2006.1 富岡八幡宮の禰宜を務めていた姉の長子に対して茂永は「必ず今年中に決着をつけてやる。覚悟しておけ」「積年の恨み。地獄へ送る」などと記したはがきを送付したとして脅迫罪で逮捕された。起訴され、罰金刑が確定している。
2010.10 興永が体調を崩し、宮司を再び退任。後継者に長子を指名し、責任役員会が神社本庁に長子の宮司就任を具申するが認められず、以降、計4回具申するも許可されなかった。2012.7.20 興永が亡くなる。長子が宮司代務者となる。その後も神社本庁に長子の宮司昇進を具申するが認めらないため、2017.5.29 富岡八幡宮は責任役員会を開き、神社本庁からの離脱を決議。これにより、同.9.28 正式離脱。同.10 単立神社として再出発し、富永長子は富岡八幡宮第21代宮司に就任した。
この間、同.6.20 茂永は長子の自宅を見渡せる部屋を借り監視を始め、神社の氏子に電話をして長子を中傷した。これに対して、長子は迷惑行為を続けるのであれば経済的支援を打ち切る内容の警告文書を送付。これにより茂永の迷惑行為は一時停止した。
同.12.7夕方、長子と運転手(禰宜も務める)の男性は、JR亀戸駅近くで開かれた地元の警察署幹部と会社経営者などが集まる懇親会に出席。20時過ぎに車で富岡八幡宮に戻ると、境内北東の通用門付近で待ち伏せしていた茂永と茂永の妻の真里子は長子らを日本刀で襲い、長子は死亡した。茂永の妻の真里子は運転手を追いかけ重傷を負わせた。茂永は長子の自宅前で妻の真里子を斬り殺した直後、左胸を刺して自殺した。なお事件前に茂永は関係各所に遺書ともとれる怪文書を配布しており、それによると犯行動機は長年の恨みの他、妻に対しての結婚差別発言などである。
事件の2日後の12月9日、富岡八幡宮は緊急の責任役員会議を開催し、宮司の補佐や代理を務めていた権宮司の丸山聡一を宮司代務者にすることに決めた。2018.1.24 富岡八幡宮近くの富岡斎場で殺害された富岡長子の神社葬が行われ、神職や氏子ら約300人が参列した。喪主は事件の加害者と被害者の母親である聰子が務めたが参列しなかった。二人の妹(聰子の二女)の小林千歳(1968生)夫妻が参列した。同日に死去した茂永と真里子は神社葬は行わないこととなった(墓誌に刻みもないため同じ墓には入れていない可能性あり)。
聰子は長年務めていた富岡八幡宮の責任役員を退任。代わりに娘の小林千歳が責任役員に就任した。富岡家のお家騒動の事件に対する宗教法人富岡八幡宮としての対応は、この神社葬がひとつの区切りとした。同.6.28 丸山聡一が第22代宮司に就任した。
第507回 弟が姉を刺殺 富岡八幡宮殺人事件 被害者と加害者 お墓ツアー
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