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かわつら ぼんじ

川面凡児

かわつら ぼんじ

1862(文久2)〜 1929.2.23(昭和4)

明治・大正期の神道家、稜威会創始者

埋葬場所: 6区 1種 13側 14番

 豊後国宇佐郡小坂村(大分県宇佐市院内町)出身。川面仁左衛門の次男として生まれる。名は恒次。
 1876(M9)15歳の時、故郷の馬城山に入り山岳修行を積む。1878 鴛海涵養塾で漢学を修める。1882 熊本県益城郡隈庄町に稚竜同盟谷を開き子弟を教育。1885 上京し、仏教研究、古典を研究を行う。1896「自由党党報」を主宰、「長野新聞」「紀州熊野新報」の主筆も務めた。
 1901 この頃より専心大日本世界教発表の準備に着手。'06(M39) 45歳の時に東京市下谷区三崎町(台東区谷中)にて「稜威会(みいずかい)」を設立し、大日本世界教を宣布する。
 日本神道を研究し理論化、体系化したものを「祖神の垂示(そしんのすいじ)」と名付ける。「祖神の垂示」は神観、霊魂観、世界観、国家観、人生観など様々な面を持つ。祖神の垂示によれば、人間は神の子であり究極的には神そのものである。それは、人間の本体が直霊(なおひ)と呼ばれる神の分霊であるからである。しかし、単に本を読んだり講演を聴いたりするだけではなく、禊(みそぎ)の行を実践することによって人間として進歩・成長し直霊の開いた人になっていくと説いた。
 川面が提唱した「祖神垂示」の教えに基づいた禊行事は全国的隆盛を見た。このようなカリスマ的な活動から「神道界の巨人」と称される。'14(T3)古典攻究会設立。'21 稜威会を社団法人化させた(1998 稜威会は宗教法人となる)。享年67歳。

<新潮日本人名辞典>
<稜威会HPなど>


墓所 碑

*墓所は鳥居があり、墳墓に丸い球が三つ連なる。入口右側に「川面凡児先生奥津城」と刻む標石が建つ。

稜威會同人奥都城

*川面凡児が創始した稜威会の墓所は、川面凡児の墓の真裏にあるため、同じ 6区1種13側。正面「稜威會同人奥都城」(裏面「平成五年十一月二十日改修」)という石柱が建つ。


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