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たなか きみえ

田中君枝

たなか きみえ

1908.2.17(明治41)〜 1987.9.2(昭和62)

昭和期の画家

埋葬場所: 19区 1種 31側

 清国(中国)福建省出身。本籍は愛知県名古屋市。本名は善美子。画家名は最初に田中君子、のちに田中君枝。真宗大谷派本願寺の布教師で教育者の田中善立、サダ(共に同墓)の三女。父が福建省泉州布教所駐在員として布教活動をいていた時に生まれたが、出生届は父の戸籍がある名古屋市中川区に出された。1911(M44)帰国し、鎌倉大町に住む。翌年より父は衆議院議員になる。
 幼児期の事故で強度の聴覚障害者となるが、その後も家人以外知る人はほとんどなく、静かな性格でもあり、人との交流は苦手であった。鎌倉高等女学校在学中に大和絵の大家の松岡映丘(10-1-13-19)に絵画を習い始める。1927(S2)愛知県立第一高等女学校専攻科卒業後、本格的に松岡映丘に師事した。
 '30(S5) 松岡映丘の門下生七人による子木(しぼく)社 第1回展に出品。続いて、第10回新興大和絵展で『庭』が新興大和絵賞を受賞。'32 第12回帝展にも『椿山荘茶屋』が入選するなどその技量が認められた。
 しかし、'33 洋画に転向を志して、二科会目黒デッサン研究所に通う。ここで熊谷守一(26-1-2)、岡田三郎助、藤田嗣治、東郷青児らの教えを受ける。'35より「田中君子」の名で出品を始める(1970までの画名)。'38『烏龍』は初入選。以後も毎年出品を続ける。'70「田中君枝」の名に変える。
 題材は仏典や聖書、インドやギリシャの神話、民話に動植物など多岐にわたり、無意識世界を多彩で、ときに奇怪に幻想的に描く。絵の具の厚みが五センチにもなる立体画のような激しい表現は、どの師風とも異なるが、惜しみない讃辞を贈られている。画題にもこだわり推敲を重ねた。
 戦前は二科会の前衛的若手画家の「九室会」に参加。戦後は、'47 女流画家協会を三岸節子、桂ゆき、桜井浜江らとともに創立して、'55 委員になり、第1回展から第41回展まで生涯出品を続けた。二科会では第35回展で35周年記念展賞を受賞。'80 評議員にも推挙された。
 '48 東京の調布町国領(調布市)に転居し、啓明学園の美術講師となる。調布町絵画協会創立に参加し、主宰する絵画教室では子どもたちに描く楽しさを教えた。
 二科展と女流画家協会展へ毎年大作を出品し続けていたが、売る絵を描く必要がなかったことから一般に知られることが少なく、画歴に比べて「見落とされた宝物」と言われる。また独特の宗教的な自然観と重厚で多彩な油彩表現による画風で、小さな生きものたちの世界から祈りに満ちた高大な宇宙まで描いて「孤高の女流画家」とも称された。東郷青児は田中君枝の作品を「一筆たりともおろそかな気配を感じさせない」と評された。君枝は画に偶然はないと構想に時間をかけ、絵の具を厚く重ねていく手法のため「厚塗りの表現主義画家」とも言われた。享年79歳。
 没後、2004(H16) 鎌倉の旧湯浅邸に続いて、2006 調布市で回顧展が開催された。また、2008 名古屋市美術館で生誕100年記念「田中君枝展」が開催された。それを機に同館に『熊』『化粧』『花』『夜』『サラスバティ』が収蔵された。

<日本女性人名辞典>
<「時代を拓いた女たち 第興検弭昌評嫉辧椹砲硫顱
<生誕100年記念「田中君枝展」パンフレット(名古屋市美術館)>


*墓石は正面「田中善立家之墓」、裏面は父の田中善立の略歴が刻む。左側に十字架が刻む墓誌がある。母はサダ(M13.12.20-S38.2.23:鈴木半兵衞の長女)。田中君枝は本名の「田中喜美子」と刻む。姉(二女)のトミ(M38.8-H4.7.5)も同墓に眠る。


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