愛知県愛知郡(名古屋市中川区)出身。豪農の田中平八、タキの二男として生まれる。1910(M43)家督を相続す。
熱心な真宗信徒の父が中学進学を認めなかったため、13歳で出家得度し真宗大谷派名古屋別院内の普通学校に入学し、校長の南条文雄の薫陶を受けた。1891.12(M24)上京し、東京英語学校に入り、1892夏に東京哲学館に転じ、1895 東京哲学館卒業。インド哲学を研究した後、1896.10 母校の大谷派普通学校に教員として赴任した。1897.8 真宗東京中学校に転任。1899.3 真宗大谷派本願寺の清国(中国)福建省泉州布教所駐在員として赴き、布教師として布教活動にたずさわった。1901.4 泉州に彰化学堂が開設され、その責任者となり、地元の中流以上の子弟の教育を行い布教に従事した。'11,2 帰国。この間、台湾総督府嘱託となる。
'12.5.15 第11回衆議院議員総選挙に愛知県郡部から立憲政友会公認で出馬して初当選。'13.12.19 大正政変後の第1次山本内閣への参加に反発して立憲政友会を離党した議員が結成した中正会に属す。'14.4.16(T3)第2次大隈内閣に中正会の尾崎行雄が司法大臣として入閣をしたことで海軍副参政官に任ぜられた。'15.3.25 第12回衆議院議員総選挙には愛知県郡部から中正会公認で出馬し当選(2回目)。中正会はこの選挙で33名が当選したが、'16.10.10 憲政会結成に中正会のほとんどが参加することになり準じた。
'17.4.20 第13回衆議院議員総選挙には愛知県郡部から憲政会公認で出馬し当選(3回目)。'20.5.10 大選挙区制から小選挙区制に移行して初めての選挙となった第14回衆議院議員総選挙には愛知県4区から憲政会公認で出馬し当選(4回目)。'24.5.10 第15回衆議院議員総選挙には愛知県1区に変えて憲政会公認で出馬で当選(5回目)。'26.1.30 第1次若槻内閣の文部政務次官を務めた。この間他に、鉄道会議議員、憲政会総務、東洋大学講師、愛知県中央鉄道会社取締役社長を務めた。
'27.6.1(S2)憲政会と政友本党が合併して立憲民政党が誕生し属す。'28.2.20(S3)第16回衆議院議員総選挙(第1回普通選挙)に愛知県1区から立憲民政党公認で出馬し当選(連続6回目)。
民政党は対外硬派諸党の流れを汲んだ政党であり、中国に対しても強硬的な政策を求める議員を多数抱えていた。ところが、若槻禮次郎・濱口雄幸総裁のもとで、幣原喜重郎の協調外交路線が採用されるようになると、これに対する不満が強硬派から持ち上げるようになった。小寺謙吉は総裁の濱口に対して、民政党も立憲政友会と同様に対外強硬外交路線を採用するように迫り、それが出来なければ総裁を大隈信常に交替すべきであると迫った。これに対して執行部は小寺を除名処分にした。執行部の対応に反発した田中善立と樋口秀雄らは党内刷新を唱え憲政一新会を旗揚げして反対派の結集を図った。ところが、執行部が直ちに田中善立と樋口秀雄らを除名した。小寺が自分はあくまでも民政党の党改革を求めるために復党を最優先とすると主張して田中善立と樋口秀雄らと訣別したため、同.9.7 民政党除名者5名(田中善立・樋口秀雄・奥村千蔵・鬼丸義斎・三宅利平)・革新党(田崎信蔵)と明政会(藤原米造)から各1名ずつの計7名で「憲政一新会」を発足させた。
憲政一新会は外交政策での国論統一を掲げて、田中義一(6-1-16-14)内閣の外交路線を支持、同.11.15 立憲政友会の久原房之助逓信大臣との間で与党としての閣外協力の合意が交わされた。翌年に同じような立場にあった新党倶楽部が立憲政友会との合同を果たすと、これに対抗するために早期合同を求める意見が台頭し、結果的に1年足らずで憲政一新会は解散して立憲政友会と合同した。このため、民政党側はこれを政友会の政治工作であると激しく非難した。渦中の田中善立は立憲政友会へ鞍替えをしたのだが、'30.2.20 第17回衆議院議員総選挙には愛知1区から出馬をする際に、中立の立場として無所属で出馬した。しかし指示を得られず初めて落選した。'32.2.20 第18回衆議院議員総選挙では晴れて立憲政友会公認として出馬し再選(通算7回目)を果たした。しかし、大審院で上告棄却となり名古屋控訴院判決が確定して、'35.12.20 議員を辞職した。
著書に『尊皇奉仏論 : 立候補宣言書』(1912)、『台湾及び南方支那』(1913)がある。正5位 勲3等。享年80歳。