≪5・15事件≫
1932(S7)2月20日おこなわれた総選挙で、与党政友会は301議席を獲得して圧勝し、民政党は146議席という惨敗を喫した。
しかしこの時、政党政治はテロとクーデターの脅威に直面していた。
10月事件後、陸軍急進派将校は荒木貞夫(8-1-17)陸相に期待して直接行動から一時離れたが、
井上日召らの民間右翼と海軍急進派青年将校らは、国家改造のため決起し固執していた。
井上の計画により、政財界の要人にたいするテロが準備された。まず32年2月9日小沼正が前蔵相で
民政党選挙委員長の井上準之助(青山霊園/警視庁1種ロ8区1/14側8番)を射殺した。
ついで3月5日菱沼五郎が三井合名理事長の団琢磨(文京区/護国寺)を射殺した。
井上は3月11日に自首したが、この血盟団による一人一殺のテロは大きなショックをあたえた。
ついで海軍急進派青年将校グループが、農本主義者の橘孝三郎の指導する愛郷塾生七名からなる農民決死隊
・陸軍士官候補生・血盟団残党らとともに、5月15日決起した。
襲撃は四組にわかれておこなわれた。三上卓中尉らの第一組は首相官邸を襲い、
田中五郎(11-1-18)ら警衛課警察官と激しい銃撃戦を突破し、
「話せばわかる」と制する犬養毅(青山霊園/警視庁1種ロ8区1/14側22番)首相を暗殺した。
他の組は政友会本部や警視庁に手榴弾を投げ、激文(自分の信義を訴える文書)をばら撒いたが、死者は出ず、
また六ヶ所の変電所を襲い「帝都暗黒化」をはかったが、いずれも失敗に終わり、5・15事件は犬養首相一人を倒したに留まった。
しかし、事件が及ぼした影響は深刻であり、もはや政党内閣の継続は困難であると判断され、
元老西園寺公望(8-1-1-16)は退役海軍大将の斎藤實(7-1-2-16)を後継首相に推し、5月26日斎藤「挙国一致」内閣が成立した。
5・15事件によって、護憲三派内閣以来の政党内閣は、8年間で閉幕したのであった。