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どい ようたろう

土井庸太郎

どい ようたろう

1861(文久1)〜 1922.10.21(大正11)

明治・大正期の裁判官

埋葬場所: 9区 1種 17側

 三重県出身。土井彦九郎、はる(共に同墓)の長男として生まれる。明治新政府の裁判官判事になる。
 1891.5.11(M24)ロシア皇太子のニコライ・アレクサンドロビッチ(後の皇帝ニコライ二世:当時23才)が来日。皇太子一行が人力車で滋賀県大津町を通行中、路上の警備にあたっていた滋賀県大津で警衛の巡査(警察官)、津田三蔵(さんぞう)に頭部を切りつけられ負傷した暗殺未遂事件(大津事件・湖南事件)が起きた。その動機は、皇太子の来遊が日本侵略の準備であるという噂を信じたためであった。
 事件発生によりロシアの報復を恐れる日本側は、明治天皇自らが負傷の皇太子を見舞い、招きに応じてロシア艦内にあえて赴くなど、異例の措置をとった。外務大臣の青木周蔵が事件発生後、駐日ロシア当局に、津田は死刑に処せられるはずであると伝えたこともあり、首相の松方正義も自ら司法部に対し、犯人津田に極刑の判決を下すよう申し入れた。
 ところが刑法では、謀殺未遂罪に死刑は適用できず、大逆罪の適用など政府側提案は法律上矛盾を生じるので裁判をめぐって、政府側と大審院長の児島惟謙との見解が対立し紛糾した。政府側は不敬罪を適用して死刑にすることを企図し裁判に強力に干渉。
 この状況の中、土井は大津地裁の大審院予審判事に任命される。土井は任命すぐに現場検証を完了させ、その場で書記の武内忠篤によって検証調書を作成させた。
 大津地方裁判所内で行われた大審院による一審での終審の裁判の判決は、土井の検証調書や刑法にのっとり、大審院院長の児島惟謙は「法治国家として法は遵守されなければならない」とする立場から、「刑法に外国皇族に関する規定はない」として政府の圧力に反発し、政府の干渉を排除、法規どおり進ませた。事件から16日後の5月27日一般人に対する謀殺未遂罪(旧刑法292条)を適用して津田に無期懲役の判決が下された。明治政府が誕生して四半世紀しか経ってない時期において、「国家か法か」が問われた裁判で、大審院長の児島惟謙は土井ら部内の意見をまとめ司法権の独立を守った。この判決に対してロシア側もこの結果に納得した。
 大津事件での活躍後の土井は、広島地方裁判所長などを務めた。1909.11(M42)大韓帝国に統監府ができたので司法権は日本に移り、大邱控訴院、 大邱地方裁判所、大邱区裁判所の3つが置かれた。土井は統監府判事に任ぜられ、大邱控訴院長に就任。なおこの時の検事長は黒川穣(3-1-15-13)が就任している。翌年に韓国併合により日本が統治することになり、朝鮮総督府判事となり、平壌覆審法院長に就任した。従3位 勲3等。享年61歳。


墓所 土井家之墓

*墓所入口に「土井家墓所」石版が建つ。墓所入って右側に和型「土井家之墓」、左隣に「従三位 勲三等 土井庸太郎之墓 / 妻 悦子之墓」、右面に没年月日が刻む。享年は六十二と刻む。

*土井庸太郎の妻の悦子は滋賀県出身で旧姓は香川。二人の間に2男6女を儲ける。長男は土井正夫(1898-)。二男は土井健二(1900-)。長女の滋子は荒木精一郎に嫁ぐ。二女の しつ は満州国参議の井野英一に嫁ぐ。三女の文子は下田錦四郎に嫁ぐ。四女の勝世は朝鮮総督府検事の里見寛二に嫁ぐ。五女は英子。六女は広子。

*大津事件後、日本正教会司祭代表のひとりとして佐藤秀六は神戸港にロシア皇太子を見舞っている。

※2020(R2)以前には更地となり改葬されました。その後、分割され新しいお墓が建っています。新しく建ったお墓のひとつに、労働青年の交流の場「根っこの家」の活動家の加藤日出男の墓所が建立されました。なお「歴史が眠る多磨霊園」は故人を通して歴史を学ぶコンセプトであるため、土井庸太郎のページを残します。


【ニコライ二世はなぜ来日したのか】
 世界を見て来いという両親の勧めで、1890年10月から約一年かけてヨーロッパからアジアへと世界旅行をし、最後の訪問場所が日本であった。大津事件の前に長崎に赴いており、長崎の街並みに魅了され、長崎市民から熱烈な歓迎や友好的な態度に喜び、長崎に駐留しているロシア海軍兵が日本人と結婚していることを知るや、日本人妻を得たいという欲求もあったと日記に記している。また長崎滞在時に右腕に龍の入れ墨も彫っている。友好的な日本の旅であったが、大津事件が起こり、沿道に多くの日本人がいたにも関わらず、襲撃されている自分を誰も助けてくれなかったと振り返っており、またこの時に負った頭の負傷が原因で、後遺症から終生、頭痛に悩まされることになった。ゆえに日記には日本人の良さに触れつつも、日本人を野蛮なヒヒ(猿)だとも記している。その後、皇帝に即位したニコライ二世と日本は日露戦争で戦うことになっていく。その後のロシア革命で処刑されることになるニコライ二世であるが、ソ連崩壊後の1993(H5)に長らく不明であったニコライ二世と思われる人骨が発見され、本人かどうかを判断するためにDNA鑑定が行われた。その際に使用したのが、大津事件で負傷したニコライ二世を手当てした際に使用し保存されていた血痕付の布であった。結果、ニコライ二世の骨と正式に認められ、ロシア正教会はニコライ二世をロシア革命の犠牲者として列聖されている。


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