秋田県秋田市出身。1946(S21)旧制秋田中学校より秋田鉱山専門学校に入学するも翌年、中退。農家で住み込み生活を体験。根っこ運動の精神的基盤をつくる。
1953(S28)東京農業大学農学部農業経済学科卒業。卒業後、有志の後輩たちの協力を得、根っこ運動を創始する。'54.5 社団法人世界友の会事務局長に就任。地方から大都市圏に集団就職した若者たちのために「自立と友達づくり」の駆け込み寺を目指して、労働青年の交流の場「根っこの家」建設運動開始。'56.5 社団法人世界友の会常務理事就任(以降 '72.10までの間)。在日大使館経由で35ヶ国から集めた「世界の人形」は保育社からブックに収められ、主要都市約40ヶ所で展覧会をひらく。
'57 処女作『東京の若い根っこたち』を発表。これは劇団民芸より映画化された。以来、エッセイストとして『自信をもって生きる』『若い日をどう生きる』『強く生きる』『青春をためそう』『東京ひとり暮らし案内』『何が若者を動かすのか』『友達をつくる人生論』『大根踊り人生論』『生涯青春』『強く美しく生きるには』など生涯64冊の本を出版した。
'59.11 若い根っこの会を全国組織に拡大強化。'61.4 活動拠点を埼玉県川越市に設け「根っこの家」を建設。根っこの家では音楽イベントなどを開き、若者と語り合った。以後、『若い根っこ』を創刊(のちに月刊誌『友情 Dream』に発展)。また月刊「明星」や月刊「平凡」に読切小説および人生相談の執筆を担当。
同.9 財団法人根っこの家を設立。国際電信電話社長の町田辰次郎を理事長として、自身は常務理事となる。モデルなき勤労青少年運動を展開、集団就職などで大都市にやってきた勤労青少年駆け込み寺的役割を担い、友達をつくる場としてメディアの注目を集め、戦後史の一断面としてユニークな働く若者組織として発展。移動研修会開催の波が全国をうねる。この時期より会員急膨張し最盛期には会員が3万人を超えた(ピークは昭和36年から48年)。
同.10 出版・文化の収益事業部門として、株式会社根っこ文庫太陽社を設立し社長となる。その間、テレビ・映画『いのちの朝』(S37)、『北風っ子』(S44)、『夕焼けのマイウェイ』(S54)を制作。なおこの映画製作のプロデュサーとして当時、劇団四季の研究生だった馬籠法子を主役に抜擢したことにちなみ、本人の要望により加藤日出男の名の一部を芸名とし、馬籠法子は「原日出子」としている。
'63 産経新聞夕刊コラム「思うこと」、読売新聞夕刊コラム「随想」に毎週連続執筆を一年間行った。その他、本間千代子が歌った『はじめて愛する』『愛しき君よ』の作詞の担当をきっかけに、以降192曲の作詞を手掛けた。
'72 グアム・サイパン南十字星「洋上大学」を開催。これは大型客船で専門家の講義を聴きながら南洋を巡る活動に取り組み、創造・自由・友愛を基盤に39回(2007まで)就航し、延べ約1万7600人が参加した。
'73.9 全国商工会連合会から依頼を受け、全国商工会連合会青年部の歌の作詞をした。『商工会青年部の歌〜明日をつくる友だち〜』(米山正夫作曲・菊池幸泉編曲)は山田太郎が歌い日本クラウンより発売される。
'75.8 財団法人根っこの家理事長に就任。この頃より舞台と客席を一体化したミュージカル風の「ライブ青春」全国大会を毎年開催。'80.5 グラム政府より日本人で初の名誉大使の称号を受ける。同,7 労働大臣賞受賞。'82.5 商船三井客船株式会社より名誉船長の辞令を受け就任。'86 藍綬褒章。'94.5 グラム政府より最高栄誉賞受賞。北マリアナ連邦政府より名誉大使の称号を受ける。
'95.8(H7)洋上大学OB組織「サザンクロスクラブ」を創設。'97.8「生涯青春クラブ」を発足。少子高齢者社会に伴い若い世代と中高年世代との溝を埋める運動を目指す。'98.4 「ハカラメネットワーク」を結成。地球環境、特に「砂漠の緑地化」を考え、21世紀の食料資源を「海」と「森」と「空」の角度から、新しい海洋牧場・海洋農場の発表を展開。'99 社団法人日本勤労青少年団体協議会会長に選任される。
2000.9 株式会社根っこ文庫太陽社を「株式会社ルーツ海」に社名を変更し、社長に就任。2002.5 日本チャータークルーズ株式会社より「ふじ丸」名誉船長の辞令を受け就任。2003.5 グアム政府および北マリアナ連邦(サイパン)が「洋上大学の日」を制定。2004.8「また来た春の会クラブ」を創設。2007.7 学校法人東京農業大学評議員。
若者支援に生涯をささげた。老衰のため逝去。享年90歳。葬儀は近親者で行われた。後日、2020年に「お別れ会」を実施する予定であったがコロナ禍で延期となり、2022.4.13(R4) 活動拠点がある埼玉県川越市で「お別れ会」が開かれ、全国から約200人が参加した。