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さとう しゅうろく

佐藤秀六

さとう しゅうろく

1839.3.4(天保10.1.19)〜 1911.9.5(明治44)

幕末・明治期のキリスト教伝道者、正教会司祭

埋葬場所: 区 種 側 番

 宮城県仙台出身。仙台藩士の大助の子として生まれる。幕末に函館に渡り、1872(M5)正教会で受洗。 聖名はパウェル。政治から一転して正教の伝道に挺身。
 ニコライに続いて上京、その片腕として活躍。駿河台東京復活大聖堂の土地を買収するについては、外国人の土地所有が認められないため名義人となっている。 1873(M6)「東教宗鑑」の翻訳を待ち、『教の鑑』として小野荘五郎らと共に出版。その他、教理研究書を多数発行。 1875.7.12東京で開かれた日本ハリストス正教会第1回公会で司祭候補に挙げられたが固辞して受けず、'77公会において、酒井篤礼、高屋仲、影田孫一郎、針生大八郎と共に司祭に叙聖された。
 ニコライを助けて日本ハリストス正教会の組織化に尽し、神田教会初代の管轄司祭となり、東京正教神学校に教鞭をとる。 また1891大津事件の際には、日本正教会司祭代表のひとりとして神戸港にロシア皇太子を見舞った。 晩年は東京の正教女子神学校の校長を兼ねた。駿河台の一角で死去。享年72歳。

<日本キリスト教歴史大事典>


【大津事件】(おおつじけん)
 別名を湖南事件ともいう。司法権独立史上特筆すべき事件。
 1891(M24)来朝中のロシア皇太子(後のニコラス2世)に滋賀県大津で警固の一巡査により傷つけられた。 「恐露病」にとりつかれていた政府(首相:松方、内相:西郷、外相:青木)は狼狽し、明治天皇自身見舞を行うと共に、司法部を圧迫し、犯人を皇室罪に問うことによって死刑に処し、ロシアの意を迎えんとした。 それにも関わらず大審院は、普通謀殺罪として無期徒刑の判決を断行し、司法権の独立は擁護された。

<日本史小事典>


 


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