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くろかわ みのる

黒川 穰

くろかわ みのる

1860.8.26(万延1)〜 1930.7.31(昭和5)

明治・大正期の司法官僚、検事

埋葬場所: 3区 1種 15側 13番

 広島出身。須山百平の長男。旧姓は須山。1891(M24)男爵で陸軍中将の黒川通軌の長女の千春(同墓)と結婚し婿養子となり、黒川姓となる。黒川家には長男の黒川幹太郎がおり家督や爵位を継承したため、1905分家。
 法律学を修め、1890.12 文官高等試験に合格し、司法官試補となり、1892 検事になる。東京、名古屋の各地方裁判所検事、松江地方裁判所検事正、大阪控訴院検事、広島控訴院検事、静岡地方裁判所検事正、東京控訴院検事を歴任する。1908.5 韓国政府に招聘に鷹して大邱控訴院検事長として赴任。この時に大邱控訴院長に就任したのは土井庸太郎(9-1-17)。統監政治の施行に際し、統監府検事に就任し、'10 朝鮮総督府設置と共に大邱控訴院検事長になり、後に大邱覆審法院検事長に就いた。正5位 勲4等。享年69歳。

<人事興信録>


墓所 くろかわ ゆずる

*墓石は二基建ち、左に和型「黒川穰 室 千春 墓」、裏面に穰の君碑が刻む。右側に和型「黒川家之墓」。右面が墓誌となっている。

*妻の千春(M3.1-)は男爵の黒川通軌の娘。二人の間には2男5女を儲ける。長女、二女は相次いで早死。長男は黒川渉(M25.5.21-S25.12.25:同墓)は父と同じ検事の道を歩んだ。渉の妻は かね代(旧姓は西郷:S32.8.5歿:同墓)二男は黒川陟(M44.10-S3.11.13:同墓)、三女は道子(M3?.9-S7.5.11:同墓)、四女は冬子(M38.11-S59.8.15:同墓)、五女は伊津子(M42.2-T14:同墓)。なお、1929(S4)黒川陟の長逝を悼みて、黒川道子が編集した『暮雲』を刊行している。

*黒川家は陸軍中将・東宮武官長・東宮大夫の黒川通軌が1887.5.24(M20)に男爵授爵。黒川通軌を初代とし、幹太郎(2代目)、秀雄(3代目)と継承された。1937.10(S12)秀雄没後に襲爵手続きせず。

*愛媛県西条市小松の格蔵山の黒川男爵家墓域内にある黒川通軌の墓碑銘には、「通軌分竈婿穣」とあるため、多磨霊園にある黒川穣は分家となる。この墓域には、穣の夭折した長女の黒川須磨子の墓がある(下の写真)。右側に黒川穣長女 明治三十八年七月九日病没 千安藝國廣島僑居享年十。と刻む。

黒川須磨子

<徳川葵様より写真・情報提供>


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