メイン » » » 土肥金在
どひ かねある

土肥金在

どひ かねある

1880.1.30(明治13)〜 1932.2.26(昭和7)

明治・大正期の海軍軍人(大佐)

埋葬場所: 8区 1種 12側

 熊本県球磨郡多良木村出身。1900.12.13(M33)海軍兵学校卒業(28期)。同期に元帥海軍大将の永野修身や神代護次(少将:18-1-35-1)、高橋律人(少将:22-1-40)らがいる。
 '02.1.18 少尉に任官。'03.9.26 中尉に進級。'04 戦艦「敷島」の分隊長として日露戦争に参戦。'05.1.12 大尉と進級し沖島砲術長に就任。'06 日露戦争の功により功5級金鵄勲章、5等双光旭日章を受章。
 '07.9.28 海軍大学校乙種学生となり、'08.4.20 砲術学校高等科学生として砲術を学ぶ。同.9.25 須磨砲術長に着任。同.11.20 高千穂砲術長、筑波砲術長心得 兼 分隊長を経て、'10.12.1 少佐に進み、相模砲術長に就任。'12.4.20 横須賀工廠検査官を務め、'15.12.13 中佐に昇進し、安芸副長。'18.11.10 扶桑副長、'19.3.6 野島指揮官、艤装員長を兼ね、竣工後は艦長となる。'20.8.12 舞鶴工廠検査官を歴任し、同.12.1 大佐になる。'23.4.1 艦政本部出仕となり、同.9.1 予備役編入となった。
 その後、相良頼綱子爵に家扶として仕え、使者として軽巡洋艦「球磨」に同乗した。相良子爵の命により、東京において織月寮を設立し、人吉球磨地方出身者の面倒をみた。高木惣吉(後の海軍少将)ら若者たちを薫陶した。正5位 勲3等 功5級。享年52歳。

<日本海軍士官総覧など>


墓所

*墓石前面「土肥家之墓」、裏面「昭和七年六月四日建之 土肥一夫」。墓所左に「故海軍大佐 土肥金在先生」碑が建つ。戒名は勲海院殿天楽金剛大居士。この碑は4回忌(S8.2.26)に織月寮出身者有志によって建てられた。墓所右に墓誌が建つ。土肥金在から刻みが始まる。妻は春(S51.3.1没・行年90才)。長男は海軍中佐・台湾海軍創設に貢献し、『海軍』(全15巻)の編集を主管した土肥一夫。戒名は優海院寿勲一誠居士。一夫の妻は勲子(S63.4.27没・72才)。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・た | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。