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くましろ もりつぐ

神代護次

くましろ もりつぐ

1876.6.12(明治9)〜 1940.12.21(昭和15)

明治・大正期の海軍軍人(少将)

埋葬場所: 18区 1種 35側 1番

 佐賀県出身。1900(M33)海軍兵学校卒業(28期)。同期に元帥海軍大将の永野修身や高橋律人(少将:22-1-40)らがいる。同.12.13少尉候補生となり、橋立乗組。 以後、扶桑・出雲・筑紫(少尉)・須磨の乗組を経て、'03.9.26中尉となって5艇隊附、心得、'05.1.12大尉になり艇長、10艇隊艇長となった。この時期に日露戦争に出征。
 戦後、水雷術練習所学生を経て、'06.7.12(M39)21艇隊艇長。'07.4.5皐月駆逐艦長、翌年から春雨駆逐艦長も兼ねる。 '08.12.10横工廠艤装員、同.12.232潜水艇隊艇長、'09.4.171潜水艇隊艇長、少佐となって、'11.4.17 2潜水艇隊艇長 兼 呉工廠艤装員、'12.6.10艦本艤装員、'12.9.30(T1) 2潜水艇隊艇長に戻り、'14.2.19艦本出仕、同.8.16駒橋艦長、'15.4.13潜水艇隊司令を兼ねた。 同.12.13中佐となり、第4水雷戦隊参謀。'16.12.1軍令部出仕、'19.1.16欧米各国を出張し、同.9.25帰朝。同.11.20呉鎮附を経て、'19.12.1大佐に進み、'20.12.27臨時潜水艦実験調査会委員長に就任。 '21.1.15呉鎮附を兼ねながら呉工廠建造潜水艦艤装員長を務め、'23.5.1迅鯨艤装員長から、同.8.30迅鯨艦長になった。
 '24.12.1(T13)少将に昇進し、呉鎮附、'25.4.15軍令部出仕、同.6.1待命、同.12.16予備となった。潜水艇畑を歩み、その知識と経験を買われ、'27.4.23〜'30.6.30(S2〜S5)軍令部潜水艦史編纂事務嘱託を任される。'34.6.12後備役となって、'39.6.12退役した。従4位 勲3等。享年64歳。

<帝国海軍提督総覧>
<日本海軍総覧>


*墓石に「神代家之墓」。右面に戒名と「海軍少将 神代護次」と没年月日・行年が刻む。右側に墓誌があり、戒名は護國院殿剛山道毅大居士。「海軍少将 従四位 勲三等」の文字も刻む。行年は65才と刻む。妻は歌子。 息子の神代護忠は『上海支店時代の思い出』(1994)という自伝を出している(出版者は妻の喜代子)。台湾銀行に勤めた銀行家で、「従五位 勲三等」と刻み、戒名はない。


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