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たかはし りつと

高橋律人

たかはし りつと

1880.8.25(明治13)〜 1953.5.3(昭和28)

明治・大正期の海軍軍人(少将)

埋葬場所: 22区 1種 41側

 広島県出身。娘に舞踊家で葵流初代家元の葵七重(同墓)。1900(M33)海軍兵学校卒業(28期)。同期に元帥海軍大将の永野修身や神代護次(少将:18-1-35-1)らがいる。
 海軍少尉候補生として厳島乗組。翌年、初瀬乗組。'03朝潮乗組、呉水雷団2水雷艇隊附 、7艇隊附。'05大尉となり、高千穂分隊長、水雷術練習所学生を経て、翌年、3艇隊艇長 、次いで 4艇隊艇長。 '07より14艇隊艇長、夕凪駆逐艦長、疾風駆逐艦長、'08水雷校教官、練習艇隊艇長。
 '09海軍大学卒業(8期)。翌年、少佐となり、春日水雷長、'11朝日水雷長、河内水雷長の分隊長、横工廠艤装員を務める。'13(T2)水雷校教官、2艇隊司令、砲術校教官、翌年、2艇隊司令。'15中佐となり第9駆逐隊司令。'16海大教官。 '19大佐となり第1駆逐隊司令。'20水雷校教頭。'22北上艦長 、'23山城艦長、'24少将となり第1水雷戦隊司令官となる。'25軍令部出仕兼海大教官、'26には第1潜水戦隊司令官を経て、'26水雷校長。'27(S2)軍令部出仕、待命、予備役。 '38後備役となるも、'41日中戦争や大東亜戦争勃発間際に予備役、'43. 8.25退役した。功五級。享年72歳。

<帝国海軍提督総覧>
<日本海軍将官総覧>


*墓石は和型「高橋家之墓」。左側に墓誌が建つ。墓誌は高橋律人から刻みが始まり、戒名は誠也院釋律仁居士。妻は春江。葵七重の戒名は葵月院禮譽好舞大姉。俗名は高橋禮子の横に葵七重と刻む。


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