徳島県徳島市出身。本名三根徳一。父は教育者の三根圓次郎。母は日光東照宮の宮司の娘のヨシ(共に同墓)の長男として生まれる。幼少期に音楽好きだった母親の所有していた西洋音楽のレコードに興味を持つ。父が県立徳島中学校に赴任の時に生まれ、次いで県立山形中学校の転任して一家も山形へ、そして県立新潟中学校に転居するが、立教大学に入学するため上京。
学生時代は相撲部に入部。厳格な父親はら離れたことなどがきっかけで軟派な性格となり、学業よりもダンスホールやジャズなどを好むようになるバンカラ学生だった。ある日学内で流れていたシンフォニーを耳にして女性にもてるために音楽を始めることを決め、立教大学交響楽団に入団。楽団には上原謙(2-2-11-2)も所属していた。バイオリンを担当するが上達せず、ジャズに鞍替えしてジャズバンド「ハッピー・ナイン」を結成した。当時としては珍しいスティールギターの演奏が出来たため、レコード会社各社でアルバイト演奏を行う。
芸名の「ディック」の由来は諸説あり、相撲部で廻しを締める姿を見たアメリカ人教師が、ミネの異様にでかい男性器を見て、英語で男性器を意味するスラングの言葉「ディック」とあだ名されたことがきっかけという説や、ジャズバンド仲間と温泉地でシャムの男爵“バロン・ディック・マーラー”と称していたずらをしたことがきっかけで「ディック」を名乗った説など複数ある(概ね前者とされているが、きっかけは後者でネタとして前者としたと推測する)。
立教大学商学部卒業。父親の勧めで逓信省貯金局に就職したが、知り合いのバンド仲間の誘いを受け、逓信省を辞職。1934(S9)タンゴ楽団「テット・モンパレス・タンゴ・アンサンブル」で歌手兼ドラマーとして活動。この頃、淡谷のり子に見いだされ、レコード歌手の道に入る。同年創立されたテイチクレコードにて、テイチク専属のジャズバンドの計画でミネが抜擢され、白人3人、日本人6人からなる「ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス」が結成された。デビュー盤『ロマンチック』を発表。更に同年、テイチクレコードの重役で作曲家の古賀政男の推薦で『ダイナ』をレコーディング。自ら訳詞と編曲、演奏も担当し、カップリングされた『黒い瞳』とともに大ヒット曲となった。
以降、映画女優の星玲子とのデュエット曲である『二人は若い』、『波止場がらす』、『ゆかりの唄』などをリリースしヒットを飛ばす。従来の純日本調の歌手とは一線を画し新たなファン層を取り込んで、一躍流行歌界の寵児となる。更に『愛の小窓』、『人生の並木路』、『旅姿三人男』と歌謡曲のヒットが続く一方で、『アイルランドの娘』、『林檎の樹の下で』、『ラモナ』、『イタリーの庭』などの外国曲を日本語で歌い、戦前のジャズシーンを飾った。このヒットの連続によりテイチクは大手レーベルの仲間入りを果たした。
1935頃より当時日本領であった朝鮮のオーケーレコードから三又悦(サム・ウヨル)名義で朝鮮語訳詞の歌を発表し現地でも人気を博した。また同じころ、俳優としても活動し、伊賀山正徳監督の日活映画『ジャズ忠臣蔵』(1937)、マキノ正博監督の『弥次喜多道中記』(1938)、『鴛鴦歌合戦』(1939年)、『弥次喜多 名君初上り』(1940年)、島耕二(16-1-15-21)監督の『街の唱歌隊』(1940年)といったミュージカル映画に出演した。
'38ミネが中国大陸に演奏旅行中、古賀が本人の了解を得ずに日本の流行歌は日本名が良いだろうと「三根耕一」名義で『どうせ往くなら』『旅姿三人男』などを発売。帰国し勝手に改名されたことを知ったミネが抗議をし、翌年より「ディック・ミネ」名義に戻した。しかし、'40内務省から外来語を禁止する規制(適性語規制)が施行され、ディック・ミネの名前も改名指示の命令をされたことで、やむなく再度「三根耕一」と改名した。'41太平洋戦争勃発以降は、活躍の場を外国人移住区の上海租界に求め日本と上海を行き来した。
戦後、'47水島道太郎と共演した松竹映画『地獄の顔』の主題歌『夜霧のブルース』、『長崎エレジー』がともに大ヒット。『雨の酒場で』、『火の接吻』などのヒットを続ける一方で、力道山主演の『純情部隊』などに俳優としても活躍した。後輩の面倒見も良く、フランク永井、ジェームス三木、藤田まこと、植木等らを育てた。
テレビ登場とともに、司会やコメンテーターとしても活躍。NHK紅白歌合戦には、第3回〜7回、9回に出場。レコードにした曲は1000曲を超える。日本ジャズ及び和製ポップスの草分けの一人。戦後はナツメロ歌手の総帥として活躍した。'79〜'89(S54〜H1)まで3代目 日本歌手協会長を務めた。'79勲4等旭日小綬章受章。'82自身を見出してくれた淡谷のり子とデュエット『モダンエイジ』を発表し話題となる。
'85頃より体調を崩すようになる。'90(H2)「日本歌謡祭」で代表作『ダイナ』を熱唱したのが最後のステージとなった。この時、自力で歩行できないほど衰弱し、声も思うように出ない状況下であったが、渾身の力で振り絞るように熱唱した。翌年、急性心不全のため逝去。享年82歳。
<芸能人名事典> <コンサイス日本人名事典> <講談社日本人名大辞典など>
第77回 音と生きる ディック・ミネ お墓ツアー 人生の並木路
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