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すぎやま れいきち

杉山令吉

すぎやま れいきち

1855(安政2)〜 1945.3.12(昭和20)

明治・大正・昭和期の外務省官僚、
書家、漢詩人

埋葬場所: 4区 1種 56側

 岐阜県安八郡神戸町(輪之内町)出身。父は漢学者の杉山千和の三男。名は令、字は直心、号を三郊、通称が令吉。号の杉山三郊として作品を多く残している。
 幼い頃から父に漢字と書の英才教育を受けた。18歳の時に神戸村に玉成義校(神戸小学校の前身)が創設されると、漢字、筆学の教師になる。 その後、大垣師範研修学校に学び、岐阜の学校に勤務したが、向学の志かたく、河野春庵と中山道を徒歩で上京し、川田甕江塾に入門した。師で儒者の川田甕江の娘と結婚した。また森春濤(14-1-3-3)の門下でもある。
 その後、警視庁に勤めたが、32歳の時に辞し、米国ミシガン州のアンナボーア大学に留学。帰国後、外務省に入省し、39歳の時に陸奥宗光の秘書官となる。以降、陸奥宗光の懐刀として三国干渉に活躍し、日清戦争の講話条約の話し合いに参加、外交上の文書や条約文の草案作製にあたった。 日露戦争で旗艦三笠に掲げられたZ旗の「皇国の興廃此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」の言葉は、杉山の発案であったのを小笠原長生が自分の発案だと東郷司令長官に上申したとの逸話がある。
 また、東京商科大学(一橋大学)、早稲田大学の教授となり、50年以上にわたって漢学や詩文を担当した。特に手紙文の指導は最も得意とした授業であったとされる。 杉山三郊としても、約30年間、東伏見宮依仁親王、同妃殿下に漢籍書道を進講されたり、岩倉具視など、多くの著名人の書道師範を務めた。明治9年9月1日から昭和19年11月3日まで69年にわたって日記を書き記しており、明治から昭和にかけての政界や学会の様子が伺える貴重な資料となっている。
 「心正しければ筆正し」を指導理念として、多くの教え導いた。享年90歳。

<郷土の輝く先人(上巻)>
<「郷土の輝く先人」かんこう輪之内 など>


墓所 墓誌 墓所裏側

*墓石は自然石に「和清」とあり、左側に「杉山」と刻む。墓石右側に墓誌が建つ。墓誌は通称名の「杉山令吉」と刻む。享年は91才と刻む。妻は こと。長男の駿(1891-1957.6.2 古河石炭鉱業勤務)、三男の實(1899-1975.3.14)も眠る。次男の茂顕の刻みはない。墓誌の裏側の墓所端に「杉山家之墓」とほぼ文字が消えている墓標が建つ。墓石左側には「杉山三郊先生墓誌銘」と刻む杉山令吉の墓誌碑が建つ。三郊は令吉の号である。この碑は昭和五十一年七月に令吉の孫(駿の長男)の杉山泰夫の許可を得て建てられたと刻む。また拝撰を門人の丸山茂彦、敬書を門人の松本秀雄、一橋大学蘭社謹建されたことも刻む。

*大隈侯、陸奥伯、渋沢栄一の墓碑銘、住友本社の陛下行幸記念碑などの筆、多磨霊園では『丹羽海鶴記念碑』の撰文をしている。


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