丹羽海鶴 にわ かいかく
1864.1.4(文久3)〜 1931.7.5(昭和6)
明治・大正・昭和期の書家
美濃(岐阜県恵那郡田瀬村)出身。庄屋の丹羽五兵衛の四男として生まれる。本名は正長、幼名は金吾、字は壽卿、海鶴は号。晩年には落款に海寉とも書いた。
幼少の頃より書に親しみ、飛騨の高山小学校で教鞭を執りながら書道の研究を続けた。1888(M21)26歳のとき日下部鳴鶴に師事。
最初は手紙のやり取りで指導を受けたが、のち上京し、内弟子として7年、朝夕その座右に侍して薫陶を受け、徐々に書の才能を認められていった。
はじめ漢魏六朝明清の碑版法帖を究め、のち晋唐風を研究した。『孟法師碑』を髣髴とさせる作品を残している。鄭道昭や初唐の楷書を基調とした海鶴の書風は海鶴流と称され、一世を風靡した。
書道教育界に影響力を持ち、学習院教官、東京高等師範学校講師、文部省教員検定試験委員(習字科)などを歴任し、習字教科書の書風を従来の顔法から基準を初唐の楷書におくことを提唱、改革して近代書道教育の発展に貢献した。
門下生の鈴木翠軒が国定四期(1933〜1940)の習字教科書を海鶴よりの伝承を忠実に墨守し執筆。
他に田中海庵、藤原鶴来、原田鳴石、上田桑鳩、墨谷鶴村、斉藤鶴跡、金田心象、能勢海旭、水島望鶴、井上桂園、田代秋鶴など、数多くの門弟を輩出した。
主な著書に『崔子玉座右銘』、『教育勅語』、『書範、『中等習字帖』がある。享年66歳。