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すぎたに ときなが

杉溪言長

すぎたに ときなが

1865.7.5(慶応1.5.13)〜 1944.10.30(昭和19)

明治・大正期の神職、男爵、政治家、南画家、書家

埋葬場所: 21区 1種 29側

 山城国京都(京都府)出身。右近衛権中将の山科言縄の3男として生まれる。公卿家。旧姓は山科。幼名は亘丸(けものへん+亘)。字は信卿、子久。号は六橋、深柳堂。言長のヨミは「げんちょう」ともいう。兄は山科家の伯爵を継いだ山科言綏、その子で伯爵の山科家言は甥にあたる。
 1868(慶応4)3歳の時に南部興福寺に入り妙徳院を相続し、同年、得度して住職に就任。同.4 復飾仰付けられ、春日社神勤・新神司となる。1869.3(M2)堂上の格を賜り、同.12 家号を杉溪に改姓した。この時、5歳。1875.3.28 華族に列し、1884.7.8 男爵を叙爵した(数え20歳で爵位を授けられた)。1882.1 京都宮殿勤番となり、その後、殿掌を務めた。
 1890.7.10(M23)貴族院議員の男爵議員に選出され、木曜会で活躍し、同会分裂後は清交会結成で主幹。1925.7.9(T14)議員を辞職(在任5期:35年)。
 杉溪六橋(すぎたに ろっきょう)として華族の中でも屈指の南画家・書家としても知られる。京都で画を重春塘、禅を荻野独園、漢学を北村竜象、草場船山、詩を林雙橋、神田香巌、書を遠山盧山、小林卓斎らに学んだ。一方で貫名菘翁に私淑し、風韻に富んだ行書を能くした。
 鎌倉円覚寺で今北洪川に入門し約3年間参禅し、早川千吉郎らの勧めで上京して、東京専門学校政治科で学んだ。さらに南画を大倉雨村に、詩を森槐南(14-1-3-3)について研鑽した。主な作品に『深柳堂懐古詩』(1936)、『美人百態』(1939)、『平安襍詩』(1941)などがある。
 '29.9.2(S4)隠居し、同.10.1 養嗣子の由言に男爵を譲った。正3位 従4位 勲3等。享年79歳。

<美術人名辞典>
<平成新修旧華族家系大成>
<人事興信録>
<墓所内の碑より>


墓所 碑

*墓石は和型「杉溪家墓」、裏面「昭和十四年 〇〇己卯 三月 男爵 杉渓由言 建」と刻む。右側に「杉溪家祖言長卿碑」が建ち、杉溪言長の略歴が刻み、「昭和二十七年八月 辱交 土屋久泰 撰並書」とある。土屋久泰は漢詩人の土屋竹雨(6-2-3)と同一人物。左側に墓誌が建つ。

*墓誌は妻の茂子(しげこ:M4.9-S16.2.13:坪野幸次郎の長女で小田切重路の養女)から刻む。次に杉溪文言(T14.1-S17.10.10:由言の二男)、杉溪言長と続き、言長の戒名は翰林院殿政譽六橋大居士。家督を継いだ杉渓由言は子爵議員を務めた冷泉爲勇の長男で言長の養子。由言の戒名は恒徳院殿仁譽由言大居士。由言の先妻は尚子(たかこ:M34.2-S22.11.30:森田正縄の長女)。由言の後妻は彌榮子(やえこ:M33-S42.11.28:山口圭蔵の二女)。なお由言の先妻との長男で孫の杉溪一言(すぎたに きよとき:1922.3.29-)は日本女子大学名誉教授の心理学者。三男は陽言(1928-)。


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