越前国福井(福井県)出身。福井藩士の斯波有造の長男として生まれる。1911.11(M44)家督を相続。
1889(M22)イギリスに渡り、オックスフォード大学で学び、1891 帰国後は東京帝国大学文科大学英文科に入る。1896 卒業し、盛岡中学校の英語教師を務めた後、高輪仏教高等中学校、仏教大学(高輪中学高等学校)各 教授を務めた。
1897(M30)英文記者として活動を始め、黒岩涙香に招かれ黒岩が主宰する「萬朝報」に入った。のち編集局長となり、黒岩涙香・石川半山・茅原華山(7-2-32-3)らと「萬朝報」の全盛時代を築いた。
社長の黒岩没後は常務取締役 兼 主筆を務める。この間、堺利彦らの週刊「平民新聞」初期の英文欄も担当し執筆。中村太八郎(9-1-8)が平等な選挙を訴えた普通選挙期成同盟会や憲政擁護運動にも携わる。1905 山路愛山らと国家社会党を創立。
それに先立つこと13年前、1892.10(M25) 国家社会主義を説いた日本で初めての著作『国家的社会論』を発表した。斯波の書いたこの著作物が国家主義論の最初と言われている。他に『実用英語対話』(1903)、『日本を甦らせた勇三の腕』(1930)などがある。
また1906.6(M39) 黒坂勝美、安孫子貞次郎らが中心になって、東京神田の一ツ橋学士会事務局で行った日本エスペラント協会の設立会にも参加している。エスペラントとは世界中の人たちが意思伝達できることを目的として、ザメンホフが考案した人工言語であり、全ての人の第二言語、国際補助語として、1887 創案されたものである。日本でも認知されるようになり、協会設立に参加し普及活動をしたことから、日本におけるエスペラントのパイオニアのひとりとしても活躍した。
'25.6(T14) 東京大勢新聞社を創立し社長兼主筆に就任したが、同.12 辞して、東京府第13区の衆議院議員の石川安次郎死去に伴う補欠選挙に出馬して当選。憲政会に属し政治家活動をスタートさせた。'28.2.20(S3)第16回衆議院議員総選挙(第1回普通選挙)に東京第5区から立憲民政党公認で出馬し当選。前回の補欠選挙の当選を併せて、以降当選計6回を重ねていく。'37.4.30 第20回衆議院議員総選挙でも当選したが、'39 在任中に逝去。享年70歳。