大分県出身。父は出版人で講談社取締役などを務めた奈良静馬、敏枝(共に同墓)の長男として生まれる。弟の奈良久彌(同墓)は三菱総合研究所社長・三菱銀行副頭取・連合三田会副会長などを務めた。
1939(S14)東京商科大学(一橋大学)在学中に、第6回日米学生会議が開かれ、日本から奈良の他、後に総理大臣になる宮澤喜一や苫米地俊博、山室勇臣ら48名の大学生が参加。日米開戦直前でアメリカの地で戦争を超え、国境を越えた真の友情を築いて帰国。これは後に城山三郎の著『友情力あり』(講談社)で刊行された。
1941(S16)東京商科大学を卒業し、外務省に入省。'43外務省広報部で勤務し、戦時体制下で、ジャパンタイムズの監督を行った。
戦後は、経済局米国カナダ課長を経て、'65.5シカゴ総領事に就任。着任時の公邸が古かったため、東京銀行のシカゴ支店長と交渉し購入資金の融資を受け、新しい総領事公邸を購入。のちにこの公邸は、エバンストン市長から、歴史的にも芸術的文化的にも重要な建築物としてランドマークに指定された。
その後、ニューヨーク総領事、'69駐シンガポール特命全権大使、'72駐南ベトナム特命全権大使を歴任し、'75〜'78駐カナダ特命全権大使となった。駐カナダ大使の際の第7回日加閣僚委員会共同声明では、旧友の宮澤喜一外務大臣の他、福田赳夫経済企画庁長官、大平正芳(9-1-1-15)大蔵大臣、河本敏夫通商産業大臣とともに、日本側代表を務めた。
外務省退任後は、東京電力顧問、メリルリンチ日本証券株式会社顧問、総理府海外移住審議会委員等を務めた。肺炎のため逝去。享年96歳。従3位。告別式は近親者のみで行った。喪主は妻の道。