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なら やすひこ

奈良靖彦

なら やすひこ

1917(大正6)〜 2013.9.6(平成25)

昭和・平成期の外交官

埋葬場所: 25区 1種 48側

 大分県出身。父は出版人で講談社取締役などを務めた奈良静馬、敏枝(共に同墓)の長男として生まれる。弟の奈良久彌(同墓)は三菱総合研究所社長・三菱銀行副頭取・連合三田会副会長などを務めた。
 1939(S14)東京商科大学(一橋大学)在学中に、第6回日米学生会議が開かれ、日本から奈良の他、後に総理大臣になる宮澤喜一や苫米地俊博、山室勇臣ら48名の大学生が参加。日米開戦直前でアメリカの地で戦争を超え、国境を越えた真の友情を築いて帰国。これは後に城山三郎の著『友情力あり』(講談社)で刊行された。
 1941(S16)東京商科大学を卒業し、外務省に入省。'43外務省広報部で勤務し、戦時体制下で、ジャパンタイムズの監督を行った。
 戦後は、経済局米国カナダ課長を経て、'65.5シカゴ総領事に就任。着任時の公邸が古かったため、東京銀行のシカゴ支店長と交渉し購入資金の融資を受け、新しい総領事公邸を購入。のちにこの公邸は、エバンストン市長から、歴史的にも芸術的文化的にも重要な建築物としてランドマークに指定された。
 その後、ニューヨーク総領事、'69駐シンガポール特命全権大使、'72駐南ベトナム特命全権大使を歴任し、'75〜'78駐カナダ特命全権大使となった。駐カナダ大使の際の第7回日加閣僚委員会共同声明では、旧友の宮澤喜一外務大臣の他、福田赳夫経済企画庁長官、大平正芳(9-1-1-15)大蔵大臣、河本敏夫通商産業大臣とともに、日本側代表を務めた。
 外務省退任後は、東京電力顧問、メリルリンチ日本証券株式会社顧問、総理府海外移住審議会委員等を務めた。肺炎のため逝去。享年96歳。従3位。告別式は近親者のみで行った。喪主は妻の道。

<「友情力あり」城山三郎>
<訃報記事など>


墓所

*墓石は洋型「奈良家」。右側に洋型「奈良静馬 / 室 敏枝 之墓」が建つ。裏面に「昭和二十八年秋彼岸 奈良晴彦 / 久弥 建之」と刻む。「奈良家」の墓石の右面には「二〇〇一年七月吉日 奈良久彌 建之」と刻む。

*久彌と正子は麻布山善福寺に別の墓を設け、多磨霊園には分骨として眠る。なお、多磨霊園の墓は次男の久彌が継承したため、長男の奈良靖彦は眠っていないとのことをご遺族様よりご連絡を頂戴しました。「歴史が眠る多磨霊園」は人物をきっかけに歴史を学ぶコンセプトとしているため、その旨を記載した上で奈良靖彦のページを残します。

<奈良静馬のお孫様の奈良健彦様より情報提供>


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