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なかじま たびと

中島田人

なかじま たびと

1874.5.5(明治7)〜 1945.3.9(昭和20)

明治・大正・昭和期の漢学教育者

埋葬場所: 16区 2種 33側 11番

 埼玉県久喜本町(久喜市)出身。亀田鵬斎流の書を伝える漢学者の中島撫山(慶太郎)・きく の5男。兄に漢学者の中島辣(同墓)らがいる。
 1889(M22)文部省教員検定試験の漢学科に合格し、銚子中学校(旧制中学)で漢文の教員として赴任。1898(M31)1年間、兄の中島斗南(端蔵)が創立した明倫館で教員の任にあたる。明倫館は1893埼玉県江面村に中等教育を目的として設立された学校である。1911父の慶太郎没後、言楊学舎の舎主として県に廃校届を提出している。
 1908東京女子師範学校卒業の小学校教員チヨ(千代子)と34歳にして結婚。チヨは旗本の家柄で警察官をしていた岡崎勝太郎の一人娘であった。翌年、敦を儲けが、妻に逃げられ、1911.8離婚(離婚成立は1914.2.18)。 息子の敦を久喜市の祖母に預けて、奈良県郡山中学校に転勤赴任した。'14(T3)カツと再婚。'15敦が小学校入学にあたり奈良に呼び生活を共にする。郡山中学では後に芥川賞受賞作家となる桜田常久が教え子としている。
 '18静岡県、'20朝鮮の京城で漢文の教員として教壇に立つ。'24カツは澄子の出産後に急死し、その翌年に三番目の妻の飯尾コウを迎えた。コウとは三つ子を儲けたが早死。 '26敦が上京をし家を出たと同時に、中国の大連に転勤となり一家で移り、その地で漢文の教員として活動し、定年退職。退職後は東京に戻り、敦と同居をした。
 退職するまで8校を歴任し、「漢学と囲碁のほかは何もできぬ好人物だった」といわれるように、地方回りの中学校教員として一生を終えた。享年70歳。

<中島敦とその家系(久喜市公文書館)など>


*父の中島撫山(慶太郎)は前妻の紀玖との間に長男の靖次郎(靖・綽軒)がいる。靖次郎は栃木で漢学の塾を開いた。 後妻のきく との間には6男3女を儲け、上から、ふみ、斗南(端蔵・端)、辣(同墓)、若之助(関翊)、開蔵(山本開蔵)、志津(同墓)、田人(本人)、比多吉(同墓)、うら がいる。田人が中島敦の父である。 田人は最初の妻のチヨ(離婚)との間に中島敦、二番目の妻のカツ(同墓)との間に澄子(折原家に嫁ぐ)、三番目の妻のコウ(同墓)との間に三つ子を儲けるが早死。中島敦の妻はタカ(S59.10.3歿 同墓)。長男は桓(たけし)。


墓所
中島敦 碑 右側 中島氏壽域 中島辣 碑
中島敦中島氏壽域(右側)


*墓所は入口を同じにして、右側の墓所と左側の墓所に分かれる。右側の墓所の正面には「中島氏壽域」と刻む墓石が建ち、裏面が墓誌となっており、辣、文子(S18.12.29 21才歿)、比多吉(S22.12.4 72才歿)、松(S36.8.9 74才歿)、吉夫(S52.3.8 56才歿)、文子(H5.9.5 67才歿)が刻む。 また、中島辣が建てた碑が建つ(碑文が読めず)。左側の墓所には3基の墓石が建ち、正面右に「中島志津之墓」。正面左に和型「中島氏壽域」が建ち、墓石の裏面が墓誌となっており、中島田人や敦らが刻む。 墓所左手側に「中島敦」の墓が建つ。なお、この「中島敦」の個人墓は、昭和48年6月に、敦の妻のタカと敦の妹の折原澄子が建之したものである。

*中島撫山(慶太郎)の墓は光明寺(埼玉県久喜市本町1丁目)。1941(S16)旧南埼玉郡久喜町大字久喜新宅の跡地に中島撫山没後30年の『撫山先生終焉之地』の碑が建立され、撰文を田人がつとめた。墓及び終焉之地の碑の両方とも、2000.4.1(H12)久喜市指定有形文化財に指定されている。


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