東京四谷簟笥町出身。祖父は亀田鵬斎流の書を伝える漢学者の中島撫山(慶太郎)。父は漢学教育者の中島田人(同墓)・チヨの長男として生まれる。
伯父に「斗南先生」でモデルとなった漢学者の中島斗南(端蔵)や漢学者の中島辣(同墓)らがおり、父方はほぼ全員が漢学を修めている。
1911.8(M44)父と母の離婚(離婚成立は1914.2.18)により、2歳から6歳までの間、埼玉県南埼玉郡久喜町に在住していた祖母のきく に育てられる。この間、父は奈良県郡山中学校に転勤している。
'15(T4)小学校入学にあたり、父の任地の奈良県郡山に移る。前年に再婚していた継母のカツに6歳から14歳まで育てられる。'24継母カツは妹の澄子の出産後に急死し、その翌年に父が三番目の妻の飯尾コウを迎えている。
この間、父の赴任先を共にして、'18静岡県、'20朝鮮の京城と移り住み、'26京城中学校を卒業後に上京(父らは中国の大連へ)して、第一高等学校を経て、'33(S8)東京帝国大学国文学科を卒業。
森鴎外の研究のために同大学の大学院に進む。また、私立横浜高等女学校の国語と英語の教師として赴任した。
単身、東京に上京した敦は、かなり奔放な生活を送っており、麻雀荘に入り浸り、ダンスホールに日参し、浅草の踊り子を組織して台湾で興業する計画を立てたりもしていた。
学生の身でありながら入り浸っていた麻雀荘の店員に、愛知県から出て来ていた橋本タカを知り、妊娠させてしまう。
'32(S7)大学在学中の24歳の時に結婚したが、まだ入籍はせず、翌年大学を卒業し教師として経済面が安定しても、身籠で実家に帰省していたタカを呼び戻さず、長男の桓はタカの帰省先で産まれている。
タカが赤ん坊を抱いて上京し、敦は母子を迎えてやっと籍を入れたが、同居を拒み、タカは一年半にわたり東京市内を転々と間借り暮らしをしていた。
妻子を横浜の借家に迎えてからは、打って変わって子煩悩振りを発揮し、妻子に対する愛も深まり、家が安らぎの場と感じられるようになったとされる。
'41教職を辞し、文部省に勤めていた釘本久春の斡旋で日本の委任統治下にあった南洋諸島に赴き、南洋庁の官吏としてパラオへ教科書編纂掛として赴任する。
この時に体感したことをまとめた作品として『南島譚』、『環礁―ミクロネシヤ巡島記抄― 』が後に誕生する。'42.3戦争激化により帰国。同.7辞職。
帰国後は、喘息と闘いながら、深田久弥の推薦・尽力のもと、1942年に多くの作品を発表し、その年の年末に気管支喘息悪化による喘息の発作を起こし、病院で看病をしていたタカが背中を擦っているうちに、どっとタカの胸に倒れ込んで、腕に抱かれながら息を引き取った。享年33歳。
タカは、すっかりやせて軽くなった敦を生きた人のように膝に抱きかかえて人力車に乗って帰宅した。
主な作品に、'42.2「文学界」に『山月記』『文字鍋(もじか)』と共に『古譚(こたん)』として発表(デビュー作)。「山月記」は現代でも国語教科書にも採用され多くの人に読まれている。
同.5 『光と風と夢』を発表。この作品は「ジキル博士とハイド氏」の作品で知られる作家のスティーヴンソンの晩年を、伝記としては従来例のないスタイルで書き上げた作品で注目され、この年の上半期の第15回芥川賞候補になった。
他には、自己のアイデンティティを求めて焦燥する日常を描いた「かめれおん日記」と、日常における生に対する不安を描いた「狼疾記」という2作品から成り立っている『過去帳』、「わが西遊記」と総称されている『悟浄出世』『悟浄歎異―沙門悟浄の手記―』の短編2編(小説の連作)は未完とされている。
伯父の遺稿を纏めた私記『斗南先生』、『虎狩』、『古俗』を発表した。没後には、『名人伝』、『弟子』、遺作として『李陵』(李陵という題名は、深田久弥によって命名された)が発表された。
未完作として『北方行』がある。父方の一族がもつ漢学的素養と、敦自身が求めた西洋的知性とをベースにして、優れた小説であるとどの作品も評価が高い。
'48中村光夫、氷上英廣らの編纂で『中島敦全集』全3巻が筑摩書房から刊行され、毎日出版文化賞を受賞した。
<コンサイス日本人名事典> <中島敦とその家系(久喜市公文書館)> <中島敦の青春など>
*祖父の中島撫山(慶太郎)は前妻の紀玖との間に長男の靖次郎(靖・綽軒)がいる。靖次郎は栃木で漢学の塾を開いた。
後妻のきく との間には6男3女を儲け、上から、ふみ、斗南(端蔵・端)、辣(同墓)、若之助(関翊)、開蔵(山本開蔵)、志津(同墓)、田人(同墓)、比多吉(同墓)、うら がいる。
田人が中島敦の父である。田人は最初の妻のチヨ(離婚)との間に中島敦、二番目の妻のカツ(同墓)との間に澄子(折原家に嫁ぐ)、三番目の妻のコウ(同墓)との間に三つ子を儲けるが早死。
中島敦の妻はタカ(S59.10.3歿 同墓)。長男は桓(たけし)。
*墓所は入口を同じにして、右側の墓所と左側の墓所に分かれる。
右側の墓所の正面には「中島氏壽域」と刻む墓石が建ち、裏面が墓誌となっており、辣、文子(S18.12.29 21才歿)、比多吉(S22.12.4 72才歿)、松(S36.8.9 74才歿)、吉夫(S52.3.8 56才歿)、文子(H5.9.5 67才歿)が刻む。
また、中島辣が建てた碑が建つ(碑文が読めず)。左側の墓所には3基の墓石が建ち、正面右に「中島志津之墓」。正面左に和型「中島氏壽域」が建ち、墓石の裏面が墓誌となっており、中島田人や敦らが刻む。
墓所左手側に「中島敦」の墓が建つ。なお、この「中島敦」の個人墓は、昭和48年6月に、敦の妻のタカと敦の妹の折原澄子が建之したものである。
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