歴史が眠る多磨霊園 |
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中島比多吉 | ||||||||||
なかじま ひたき | ||||||||||
1876(明治9)〜 1947.12.4(昭和22) | ||||||||||
明治・大正・昭和期の関東州官僚 | ||||||||||
埋葬場所: 16区 2種 33側 11番 | ||||||||||
≪詳細な略歴は調査中・ご存知の方はご一報ください≫ <中島敦とその家系など> *父の中島撫山(慶太郎)は前妻の紀玖との間に長男の靖次郎(靖・綽軒)がいる。靖次郎は栃木で漢学の塾を開いた。後妻のきく との間には6男3女を儲け、上から、ふみ、斗南(端蔵・端)、辣(同墓)、若之助(関翊)、開蔵(山本開蔵)、志津(同墓)、田人(本人)、比多吉(同墓)、うら がいる。田人が中島敦の父である。田人は最初の妻のチヨ(離婚)との間に中島敦、二番目の妻のカツ(同墓)との間に澄子(折原家に嫁ぐ)、三番目の妻のコウ(同墓)との間に三つ子を儲けるが早死。中島敦の妻はタカ(S59.10.3歿 同墓)。長男は桓(たけし)。
*墓所は入口を同じにして、右側の墓所と左側の墓所に分かれる。右側の墓所の正面には「中島氏壽域」と刻む墓石が建ち、裏面が墓誌となっており、辣、文子(S18.12.29 21才歿)、比多吉(S22.12.4 72才歿)、松(S36.8.9 74才歿)、吉夫(S52.3.8 56才歿)、文子(H5.9.5 67才歿)が刻む。また、中島辣が建てた碑が建つ(碑文が読めず)。左側の墓所には3基の墓石が建ち、正面右に「中島志津之墓」。正面左に和型「中島氏壽域」が建ち、墓石の裏面が墓誌となっており、中島田人や敦らが刻む。墓所左手側に「中島敦」の墓が建つ。なお、この「中島敦」の個人墓は、昭和48年6月に、敦の妻のタカと敦の妹の折原澄子が建之したものである。 | ||||||||||
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