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なかじま ひたき

中島比多吉

なかじま ひたき

1876(明治9)〜 1947.12.4(昭和22)

明治・大正・昭和期の関東州官僚

埋葬場所: 16区 2種 33側 11番

≪詳細な略歴は調査中・ご存知の方はご一報ください≫


 埼玉県久喜本町(久喜市)出身。亀田鵬斎流の書を伝える漢学者の中島撫山(慶太郎)・きく の6男。兄に漢学者の中島辣(同墓)、田人(同墓)らがいる。田人の息子で甥にあたるのが作家の中島敦(同墓)。
 父や兄たちに倣って漢学を修めたが、漢学者肌の兄たちと違って関東州の官僚になり実務的な仕事に就いた。18歳で清国に渡る。1908(M41)より紫禁城に入って三歳の溥儀の傍らに仕えた。
 1932.3満州国建国が宣言される。この建国の陰で、石原莞爾や板垣征四郎らと共に陰謀に関わっていたとされる。建国5ヶ月後の夏に、中島敦が、当時旅順に赴任していた比多吉を頼り赴いている。 この時のことを『北方行』の作品に小説というよりは現代史的に描かれている。満洲事変に至るまでの北方軍閥の動静や、国民党の蒋介石、張学良、汪兆銘、共産党などの抗争などであり、生々しい政治・軍事の背景や、内部情報を含んだ歴史の現場の内容は、情報通の比多吉からのリークであると推察されている。享年71歳。  

<中島敦とその家系など>


*父の中島撫山(慶太郎)は前妻の紀玖との間に長男の靖次郎(靖・綽軒)がいる。靖次郎は栃木で漢学の塾を開いた。後妻のきく との間には6男3女を儲け、上から、ふみ、斗南(端蔵・端)、辣(同墓)、若之助(関翊)、開蔵(山本開蔵)、志津(同墓)、田人(本人)、比多吉(同墓)、うら がいる。田人が中島敦の父である。田人は最初の妻のチヨ(離婚)との間に中島敦、二番目の妻のカツ(同墓)との間に澄子(折原家に嫁ぐ)、三番目の妻のコウ(同墓)との間に三つ子を儲けるが早死。中島敦の妻はタカ(S59.10.3歿 同墓)。長男は桓(たけし)。


墓所
中島敦 左側 中島氏壽域 中島辣 碑
中島敦中島氏壽域(左側)


*墓所は入口を同じにして、右側の墓所と左側の墓所に分かれる。右側の墓所の正面には「中島氏壽域」と刻む墓石が建ち、裏面が墓誌となっており、辣、文子(S18.12.29 21才歿)、比多吉(S22.12.4 72才歿)、松(S36.8.9 74才歿)、吉夫(S52.3.8 56才歿)、文子(H5.9.5 67才歿)が刻む。また、中島辣が建てた碑が建つ(碑文が読めず)。左側の墓所には3基の墓石が建ち、正面右に「中島志津之墓」。正面左に和型「中島氏壽域」が建ち、墓石の裏面が墓誌となっており、中島田人や敦らが刻む。墓所左手側に「中島敦」の墓が建つ。なお、この「中島敦」の個人墓は、昭和48年6月に、敦の妻のタカと敦の妹の折原澄子が建之したものである。

*中島撫山(慶太郎)の墓は光明寺(埼玉県久喜市本町1丁目)。1941(S16)旧南埼玉郡久喜町大字久喜新宅の跡地に中島撫山没後30年の『撫山先生終焉之地』の碑が建立され、撰文を田人がつとめた。墓及び終焉之地の碑の両方とも、2000.4.1(H12)久喜市指定有形文化財に指定されている。


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