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なかじま しょう

中島 竦

なかじま しょう

1861(文久1.5.22)〜 1940.6.11(昭和15)

明治・大正・昭和期の漢学者

埋葬場所: 16区 2種 33側 11番

 武蔵国埼玉郡久喜本町(埼玉県久喜市)出身。亀田鵬斎流の書を伝える漢学者の中島撫山(慶太郎)・きく の次男(先妻の長男を入れると三男)。竦は「たかし」とも。 幼名は辣之助、字は翹之。号は玉振(道人)または●(虫+豪)山(介夫)。父の前妻の紀玖との間に長男の靖次郎(靖・綽軒) 。後妻のきく との間には6男3女を儲けており兄弟は上から、ふみ、斗南(端蔵・端)、辣(本人)、若之助(関翊)、開蔵(山本開蔵)、志津(同墓)、田人(同墓)、比多吉(同墓)、うら がいる。 田人の子で甥にあたるのが作家となる中島敦(同墓)である。
 父について皇漢学を修め、兄の斗南とともに父の私塾・幸魂教舎(さきたまきょうしゃ)で弟子たちに教える。 1885.4幸魂学舎を私立専門学校として改めて設置した言揚学舎を兄の斗南から引き継ぎ名義人、教員となり、1887.10.25「私立言楊学舎設立願」を埼玉県に提出、同.11.12認可された。 これにより、尋常師範学校・尋常中学校・高等女学校教員免許状(国語科・漢文科)を取得している。1894頃、上州玉村(群馬県玉村町)の有力者の千輝仙蔵に招かれて学を講ずる。羽鳥千尋に教授。 1902.11中国に渡って京師警務学堂に勤務し、翻訳などを担当する。二葉亭四迷はこの時の同僚(提長代理)であり、清国公使館付武官だった青木宣純とも交流した。
 北京の地に十数年滞在し、東京麹町にあった善隣書院に招かれ、モンゴル語と中国語を教えた。主宰の宮島大八は書院内に居室を与えて厚遇し、院長の松平康国とも懇意。研究と著述に専念した。兄弟は皆、漢学を修めたが、兄弟の中で父の学風を最も素直に継承した人物とされる。享年79歳。
 中島敦が中島斗南の遺稿を纏めた私記『斗南先生』では、竦は「お髭の伯父」として登場し、田人の書簡では「善隣の伯父」、森鴎外の小説『羽鳥千尋』の中では「中嶋●(虫+豪)山」として登場している。

<中島敦とその家系など>


墓所
中島敦 左側 中島氏壽域 中島辣 碑
中島敦中島氏壽域(左側)


*墓所は入口を同じにして、右側の墓所と左側の墓所に分かれる。右側の墓所の正面には「中島氏壽域」と刻む墓石が建ち、裏面が墓誌となっており、辣、文子(S18.12.29 21才歿)、比多吉(S22.12.4 72才歿)、松(S36.8.9 74才歿)、吉夫(S52.3.8 56才歿)、文子(H5.9.5 67才歿)が刻む。また、中島辣が建てた碑が建つ(碑文が読めず)。左側の墓所には3基の墓石が建ち、正面右に「中島志津之墓」。正面左に和型「中島氏壽域」が建ち、墓石の裏面が墓誌となっており、中島田人や敦らが刻む。墓所左手側に「中島敦」の墓が建つ。なお、この「中島敦」の個人墓は、昭和48年6月に、敦の妻のタカと敦の妹の折原澄子が建之したものである。

*中島撫山(慶太郎)の墓は光明寺(埼玉県久喜市本町1丁目)。2000.4.1(H12)久喜市指定有形文化財に指定されている。


中島撫山 なかじま ぶざん
1829.4.2(文政12)〜 1911.6.24(明治44)
幕末・明治期の儒者
 江戸出身。本名は慶。通称は慶太郎。別号に佐知麻呂。
 亀田綾瀬・鶯谷父子にまなぶ。1869(M2)武蔵久喜(埼玉県)に漢学塾幸魂教舎をひらいた。享年83歳。著作に「性説疏義」。

<大日本人名>
<五輪塔様より情報提供>


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