歴史が眠る多磨霊園 |
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中島 竦 | ||||||||||
なかじま しょう | ||||||||||
1861(文久1.5.22)〜 1940.6.11(昭和15) | ||||||||||
明治・大正・昭和期の漢学者 | ||||||||||
埋葬場所: 16区 2種 33側 11番 | ||||||||||
武蔵国埼玉郡久喜本町(埼玉県久喜市)出身。亀田鵬斎流の書を伝える漢学者の中島撫山(慶太郎)・きく の次男(先妻の長男を入れると三男)。竦は「たかし」とも。
幼名は辣之助、字は翹之。号は玉振(道人)または●(虫+豪)山(介夫)。父の前妻の紀玖との間に長男の靖次郎(靖・綽軒)
。後妻のきく との間には6男3女を儲けており兄弟は上から、ふみ、斗南(端蔵・端)、辣(本人)、若之助(関翊)、開蔵(山本開蔵)、志津(同墓)、田人(同墓)、比多吉(同墓)、うら がいる。
田人の子で甥にあたるのが作家となる中島敦(同墓)である。 <中島敦とその家系など>
*墓所は入口を同じにして、右側の墓所と左側の墓所に分かれる。右側の墓所の正面には「中島氏壽域」と刻む墓石が建ち、裏面が墓誌となっており、辣、文子(S18.12.29 21才歿)、比多吉(S22.12.4 72才歿)、松(S36.8.9 74才歿)、吉夫(S52.3.8 56才歿)、文子(H5.9.5 67才歿)が刻む。また、中島辣が建てた碑が建つ(碑文が読めず)。左側の墓所には3基の墓石が建ち、正面右に「中島志津之墓」。正面左に和型「中島氏壽域」が建ち、墓石の裏面が墓誌となっており、中島田人や敦らが刻む。墓所左手側に「中島敦」の墓が建つ。なお、この「中島敦」の個人墓は、昭和48年6月に、敦の妻のタカと敦の妹の折原澄子が建之したものである。
中島撫山 なかじま ぶざん <大日本人名> | ||||||||||
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